守山から鏡の宿投稿日:2011-05-16

平成23年5月2日、守山で『望月』の甲屋、鏡の宿にて宗盛胴塚や義経ゆかりの謡蹟を訪ねて来ました。写真でご紹介します。

「謡蹟めぐり」(青木実著)には「甲屋之址」の石碑があると書かれていますが、石碑は現存せず、建物は中山道街道文化交流館となっています。守山一丁目8番付近。

中山道街道文化交流館の側に『望月』の話は架空のため甲屋がないことを説明する駒札が立っています。

国道8号線の野洲市・大篠原北に平宗盛胴塚があります。宗盛は能『湯谷』のワキとして登場します。野洲市は「幾瀬渡りの野洲の川」と『船橋』の脇の道行に謡われるところです。目印はキョウエイの看板で小道を少し歩くとすぐにあります。

義経は平宗盛、清宗父子を護送して鎌倉に出向きますが、頼朝との面会が許されず、京に引き返すことになります。鏡の宿は自分の元服の地のため、少し京に近づいた大篠原にて、義経は二人を斬首し、首を京に、二人の胴は一緒にして埋めたと言われています。
近くにあった首洗い池の「蛙なかずの池」は現在は埋められたようで見当たりませんでした。

鏡の宿は現在の道の駅「竜王かがみの里」あたりです。義経がここで元服して赤坂の宿にて盗賊熊坂長範を討つ能が『烏帽子折』です。

道の駅から8号線向かい側に「義経元服池」の石碑が見えます。

義経は元服の時にこの池の水を使ったと言われ、またその姿を水面に写したとも言われています。

元服池から8号線を彦根方面に歩くと、直ぐに鏡神社があります。義経が元服の折、参拝して源氏再興と武運長久を祈願したところで、八幡神社には祭神・源九郎義経公となっています。

烏帽子掛けの松は、義経が鏡神社に参拝する際、この松の枝に烏帽子をかけたと言われています。明治6年、台風で倒れたため、株上2.7メートルを残し仮屋根をつけて保存されています。

掛けの松の隣に謡蹟保存会の駒札があります。

神社には義経が元服の時に使用した盥の底板が残っていますが、残念ながら見ることは出来ませんでした。

義経は奥州下向の途中、当時の宿駅の長であった澤弥伝の「白木屋」の旅籠に泊まりました。茅葺き屋根の白木屋は台風のため壊れてしまい、現在は取り除かれて館跡の石碑があるだけです。

道の駅から鏡山が見えます。『盛久』では「瀬田の長橋うち渡り、立ち寄る影は鏡山」、『三井寺』では「月は真澄の鏡山」と謡われています。
那須野ヶ原の謡蹟めぐり投稿日:2010-10-16

平成22年4月28日、那須野ヶ原、遊行柳、那須湯本の殺生石と、
能『殺生石』『遊行柳』『八島』にゆかりのある謡蹟を写真探訪して来ました。
那須塩原駅からタクシーを利用して、黒羽街道の道の駅、那須与一の郷・与一伝承館で、訪れる謡蹟の場所を確認してもらい、4時間で周りました。殺生石に到着したのは1時半でした。
生憎の雨天で撮影が思うようにいきませんでしたが、写真をご覧下さい。

那須神社 別名 金丸八幡(場所 大田原市南金丸 那須与一伝承館裏)
近衛天皇の御代、三浦上総介義澄が那須野の妖狐を退治したとき、この社に祈願し、容易く射止めることが出来たので、その弓を奉納したところ。また那須与一宗隆が八島の合戦において扇の的を射る時に、八幡大神湯泉大神を中心に念じ名声を天下に広めたので有名。

犬追物の馬場跡(場所 那須郡黒羽町蜂巣)くらしの館と玉藻前神社の間、道路際 三浦介、上総介達はここで犬を狐に見立て狩りの稽古をしたといいます。

看板の記載
犬追の詳細が書かれています。

玉藻前稲荷神社(場所 那須郡黒羽町蜂巣) 玉藻の前は鳥羽院に仕えた才色兼備な女性で帝のお気に入りでしたが、実は化生の者だったのです。正体を見破られ那須野に逃げますが、ここで殺されてしまいます。玉藻前稲荷神社はその霊魂を祀っています。なんとなく不気味な雰囲気が漂う神社でした。

玉藻の前の祠
池の上に小さな祠が祀られています。

鏡が池の説明
水に映る獲物を見つける話は能『野守』にもあります。野守の翁は水に映る鷹を見つけ、御狩りで鷹を見失った帝に、木の上にいると教えます。

鏡が池
雨が降っていたこともあって水量が多く、これなら蝉の姿に変えた妖狐が見つかりそうです。

狐
狛犬ではなく狛狐? 口に巻物をくわえていました。

狐塚(場所 那須郡黒羽町蜂巣篠原)
玉藻前神社近く、県道との交差点際 意外と歴史は浅く、昭和21年に作られたものでした。

狐塚の大きさを見る
高さ40センチほどの小さな石碑のため探すのに一苦労しました。

遊行柳遠景(場所 芦野)
294号線近く 桜がまだ少し残っていて、春も暮れの景色です。

遊行柳遠景
柳は広い田んぼの中にあります。 遊行柳の初同「道のべに清水流るる柳陰」を思わず口ずさんでしまいました。

遊行柳近景
柳は鳥居の左右にありますが、幹が石垣で囲まれているのは右の柳です。 入り口から入り、鳥居をくぐって振り返り撮影しています。

謡蹟保存会立て札
石垣のない柳のほうの隣に立て札はあります。

殺生石(場所 那須湯本温泉)
硫黄の匂いがきつく、昔は湯煙をたてていたらしいですが、今回は出ていませんでした。

二つに割れている殺生石
注連縄が張られた殺生石。玉藻の前は京の都から那須野へ飛んで逃げますが殺されてしまいます。しかし最後はこの石魂となったと言われています。 玄翁僧都がこの石を二つに割ったので、トンカチを玄翁(げんのう)と大工さん達はいいます。
小松近辺の謡蹟めぐり投稿日:2010-08-16

平成22年の阪大喜多会夏合宿も無事終わり、帰京日に飛行機搭乗まで時間があったので、タクシーを利用して『実盛』の謡蹟「首洗池」と「実盛塚」、小松空港近くの「安宅の関」を見てきました。

首洗池
平家方の老武者、齋藤別当実盛は髪を黒く染めて篠原の合戦に出陣し、源氏方の木曽義仲の家来手塚太郎光盛に討たれます。首はこの池で洗われ、髪の墨が落ちて実盛であることが判明しました。

木曽義仲公
首洗池の前には木曽義仲公の銅像があり、実盛の首を持って泣いています。義仲は幼少の頃、実盛に命を助けられていました。

実盛の兜が祀られていた祠
現在兜は小松市の多太神社に所蔵されています。
写真探訪「多太神社」をご覧下さい。

実盛塚への案内塔
実盛塚に入る道はきれいに完備されています。

実盛塚
大きな松が墓を覆っていて立派なお墓です。
十四世遊行上人の前に実盛の亡霊が現れ、上人が回向して「真阿」の法名をあたえたと伝えられています。以来歴代の遊行上人が加賀路を訪れる時は必ずここに立ち寄ったと言われています。

安宅海岸
安宅の関の目の前は安宅海岸です。サーフスポットとしても有名ですが、生憎波が無くサーファーの姿は見られませんでした。

関之宮
(左)富樫左衛門泰家公(右)源義経公 奉斎とあります。奉斎とはお祀りしてあるという意味です。

安宅の関跡
ここは弁慶が勧進帳を読んだところです。『安宅』の舞台が思い出されます。

安宅住吉神社前にて
偶然遭遇した阪大喜多会の学生と記念撮影。ここに写るのは皆、『安宅』仕舞の経験者です。
無料で巫女さんが神社の由来を説明してくれるので、お立ち寄りの方は是非お入り下さい。

住吉神社
安宅住吉神社は正式にはこちらから入りますが、今回は裏の関所跡から入ったため、順番が逆になりました。駐車場はこの前にも裏にもあります。
源義朝公最期の地・野間大坊と知立の三河八橋投稿日:2010-07-16

平成22年7月2日、知多半島先端にある寺「野間大坊」と三河国・現在の知立市八橋を謡蹟めぐりしてきました。
今回は名鉄線を使わず、車にて豊橋駅から走行時間二時間で『朝長』で謡われる源義朝公の墓がある野間大坊を訪れました。予め予約していたご住職から絵解きをお聞きし、またお寺の縁起などいろいろなお話も伺うことが出来ました。いつか勤めたいと思う『朝長』の成功祈願をして、木太刀の奉納もしました。乱橋跡、湯殿跡、長田家屋敷跡、はりつけ場などを巡り、蒲郡への帰路の途中、『杜若』の謡蹟、知立の八橋に寄り、季節はずれでしたが、一輪の杜若を見てまた『杜若』も勤めたくなりました。

野間大坊の由来が書かれた看板

絵解きをなさる「野間大坊」の水野真円住職
義朝に謀反を起こし平家方に寝返った長田忠致(おさだだだむね)は、平家滅亡後は頼朝に従いますが、主君を裏切る不届き者としてはりつけにされます。
「永らえて命ばかりは壱岐の守、美濃(身の)尾張(おわり)をば、今ぞ賜る」は忠致の辞世の句です。

義朝が湯殿で討たれる絵解きの一場面
「我に小太刀の一本でもあればむざむざ討たれはせんものを」と本当に聞こえてきそうな狩野探幽の絵です。

ご住職とご一緒に記念撮影をさせていただきました。

義朝公の墓
慰霊のための木太刀が山積みされています。私も一本奉納しました。奉納金は¥500です。

山積みの木太刀
能『朝長』には父義朝公最期の場面が「父、義朝はこれよりも野間の内海に落ち行き、長田を頼み給えども、頼む木のもとに雨洩りて、やみやみと討たれ給ひぬ」と謡われています。

鎌田政家(正清)と妻の墓
『朝長』の謡「これを最期の御言葉にて、こと切れさせ給えば、義朝・正清取り付きて」 とある政清は鎌田政家のこと。政家は妻の父(長田忠致)に気を許し、多量の酒を呑まされだまし討ちされてしまいます。それを知った妻は嘆き自害します。

の禅尼の墓
池の禅尼は生け捕られた少年頼朝が我が子に似ていたので清盛に助命嘆願したとも言われています。
滅亡した平家方で唯一、池の禅尼一党の頼盛一族は、壇ノ浦合戦後も生き延びています。

平判官康頼の墓
能『鬼界島(俊寛)』のツレ役として登場する平判官康頼の墓は、ここ以外、京都の双林寺にもあります。

血洗いの池
長田忠致はこの池で義朝の首を洗ったと言われています。
国家の一大事があると池の水が赤くなると言われ、江戸末期の大政奉還のとき、本当に池が真っ赤になったと伝えられています。

乱橋跡
義朝公謀殺の一大事を聞いた家臣の渋谷金王丸と鷲栖玄光らが湯殿に駆けつける時、長田忠致の家臣とこの地にあった橋のあたりで乱戦したことから、乱橋と言われるようになりました。

湯殿跡の義朝公
物静かな畑の奥に立派な銅像と湯殿跡があります。

湯殿跡
当時のお風呂は蒸し風呂(サウナ)です。

長田忠致一族の屋敷跡
謀反を起こした長田家の屋敷跡は野間大坊と名鉄線「内海」駅の間にあります。

はりつけの場
長田屋敷跡近くに忠致らがはりつけになった松が今も残っています。

八橋 無量寿寺の杜若園
季節はずれながら、一輪咲いていてくれました。

謡蹟駒札
駒札は正門の右に立てられています。

業平の供養塔
名鉄線の線路沿いにある供養塔。

落田一つ松
業平がここで「唐衣着つつなれにしつましあれば遙々来ぬる旅をしぞ思う」と詠んだところです。
韓国の旅投稿日:2010-07-16

平成22年6月28日から二泊三日の韓国ソウルの観光をしてきました。
東京から便利な羽田発、金浦空港行を利用すると二時間、短くフライトは楽でした。
添乗員は付いていないツアーなので、現地案内人の李(リー)さんに宿泊地・プレジデントホテルまで案内してもらい、昼食と買い物、そして若者の街、明洞(ミョンドン)を散策してきました。韓国といえばエステ、サウナが有名です。我々も汗をかきだして気分爽快になって夕食をとり初日は終わりました。
翌日(29日)は一日観光。
朝鮮王朝の宮殿、昌徳宮を拝観、仁寺洞でウインドウショッピングを楽しみ、昼食は韓国料理の代表、サムゲタンを満喫しました。
満腹となり車に揺られること約50分で華城に到着、城跡を散策し華城行宮を見てホテルに戻るともう夕食時間。お目当ての「蟹の醤油づけ」をガイドブックから探して食べてきました。
夜は丁度、サッカーワールドカップ日本対デンマーク戦でしたので、早々にホテルに戻ると丁度、ホテルの隣の広場で韓国のサッカー選手団の慰労会があり、たくさんの歌手が歌や踊を繰り広げ、その模様がテレビ放送されて、同時に二つの場面を楽しむ、という珍しい現象を体験出来ました。
結局応援は、一日の観光の疲れか、睡魔に勝てず残念ながら寝てしまい、翌朝のニュースで負けを知りました。短い期間でしたが、楽しい旅でした。

昼食は明洞(ミョンドン)の「アリアン」で、うどん鍋。
牛肉と蛸がたくさん入っていて、蛸は店員さんが大きな鋏で手際よく小さく切り刻んでくれます。お味は辛めを控えて美味しくいただきました。

この日のレートは、100ウオン=8.9円。明洞(ミョンドン)を散歩すると町中のいたるところで換金が出来ます。

今、韓国といえば女性はエステ・サウナが流行ですが、我々もサウナで日頃の疲れを取りリフレッシュ、マッサージと垢すりの基本コースを頼みましたが、結局他にいろいろなオプションを付けられてしまい、総額は、80000ウオン、約8000円でした。

さあ本家本元の焼き肉、まずはビールで乾杯!こちらのビールは日本に比べて味が薄く 軽い感じ。ずらりと並んだ様々なキムチや野菜と一緒に焼いてくれる肉を待つお二人。

観光は、北村の韓国特有のお住まいの前で記念撮影。
左から、私、出雲康雅氏、粟谷能夫氏、長島 茂氏。

昌徳宮はユネスコ世界遺産に登録された朝鮮王朝の宮殿。
中国と同様、石畳の真ん中の道は王様しか歩けない、ここでもやはり偉い方が真ん中歩いています。

自然と調和を考えて作られたお庭と建物、景色にご満足のお三方。

カメラマンの宿命、自分の写真がないので今回はガイドさんにお願いして。

仁寺洞は古美術などが並ぶ落ち着いた街、我々は若者向きの明洞(ミョンドン)よりこちらの雰囲気が似合うみたいです。ちょっと欲しくなる篆刻や陶器がありましたが・・

昼食はサムゲタン、ひな鳥の内臓を取り出して餅米を入れて丸ごと煮込みます。
特にスープが美味しいですが、私はこの一人前は多く全部食べられませんでした。

こちらは「うまかった~」と完食した長島茂氏。

猫舌で小食の出雲康雅氏は「もう無理!」と途中でお手上げ状態。

午後は市内から車で50分ほどの華城に移動

城壁を一周は3時間もかかるので、ほんの一部を徒歩で移動、中国の万里の長城のミニチュア版みたいです。

ガイドさんお薦めの場所で撮影、
韓国では「はいチーズ」じゃなくて「はい、キムチ~ですよ!」と言われても 無反応な方々もいらしたみたい

華城の中心を南北に流れる川の華虹門、雨が多いと水量が増え七つの水門から虹色の水しぶきが飛んできれいだといいますが・・・水不足ですた。

撮影している私と華虹門(北水門)を一緒に撮ろうとしている長島 茂氏(左)と出雲康雅氏

NHKの放送した「チャングムの誓い」のロケ地でもある華城行宮の正門にて。 行宮は王様の仮住まいで、一時旧日本軍に占領破壊されてしまいましたが、 2010年に復興しました。

「チャングムの誓い」の人形が多く置いてあるので、こちらも、と思ったら本物でした。
お茶を入れて下さいますが、韓国の女性は左膝を立て座るのがお作法です。
男子は胡座が正規な座り方です。

二日目は海鮮の蟹料理を予定していたので「蟹の醤油づけ定食」をオーダー。
これが4人前です。キムチ類が沢山出て、御飯とスープ40000ウオン。焼酎を水割りで飲みたく、注文しましたが言葉が通じません。
ジンロ!で焼酎は来て、次にアイス!、で氷は来ましたが、 水が通じません。仕方がなく英語で「ウ・オ~ター、プリーズ」と、しかし余計変な顔をされてしまいました。手振りでどうにか水が出てきましたが、見習いの中国人だったらしく、あとでガイドさんに聞いたら英語も通じるが発音が違う、「ウォラ~」だと言われました。発音の大事さを痛感しました。

帰国の日の朝は地元の方に聞いた庶民的なお店で朝食。

朝食も昼食もこの定食のみのお店。6000ウオンでお店は満員。朝からキムチですから、当然口も身体もキムチ漬けになりました。

金浦発のANAの機内食はビビンバ、
これが結構美味しかったです。
吉野山近郊から二上山麓まで投稿日:2010-05-16

平成22年5月4日、近鉄吉野神宮駅から予め予約していたタクシーに乗車して、能『国栖』『吉野静』『忠信』『嵐山』『二人静』などのゆかりの地を、吉野山一帯と、宮滝、菜摘、あまり訪れることがない浄見原神社、川上村の蜻蛉の滝まで足をのばし、大阪に戻る途中に西国霊場第六番壺阪寺と『田村』で謡われる子嶋寺、一日の最後は二上山麓の『当麻』や『雲雀山』でお馴染みの当麻寺と石光寺(染寺)を謡蹟めぐりして来ました。
この行程は朝9時半からスタートして最終地には17時半と8時間かかりましたが、タクシー利用のお陰でたくさんの謡蹟を廻れました。参考:料金 一時間¥4600

金峯山寺 蔵王堂(場所 ロープウエイー山上駅から徒歩5分)
仁王門を通ると本堂を後ろから眺めることになるが、これは本堂が南面しているから。 『国栖』の後シテ・蔵王権現はこの内陣から「即ち姿を現して」と勢いよく姿を現します

蔵王堂全景
蔵王堂は国宝で安土桃山時代の建立。本尊は金剛蔵王権現の秘仏で普段は見られませんが、平成22年の9月から12月までは特別御開帳がありますので拝見出来ます。

吉水神社 義経駒繋ぎの松(場所 勝手神社手前左折れ坂下る)
義経が馬を繋いだと言われる駒繋ぎの松は残念ながら切られています。

弁慶力釘(場所 入口右手)
弁慶が素手で五寸釘を打ち込んだという石。 入口左手には義経の馬の馬蹄跡があります。

義経・静御前惜別の舞台跡(場所 書院前)
吉野山に逃れた義経と郎党十六名・静御前はここで逃避の生活をしましたが、静御前が同行することに快く思わない者もいたので、静御前に数々の財宝を与え山を下らせることになりました。能『吉野静』の謡蹟地。

義経・静御前潜居の間と弁慶思案の間(場所 書院内)
左の部屋に義経と静御前が仲良くいるのを見て、弁慶は時の情勢を案じ静御前を帰すことを思案したのでしょう。そんな想像が出来る空間です。

義経の鎧と静御前の衣装
「色々威腹巻鎧」は義経の身長が小さいことが容易に想像出来ます。

勝手神社の舞塚(場所 蔵王堂より徒歩5分)
以前は入れたようですが、現在は立入禁止になっていたため望遠レンズにて撮影。 社前に「舞塚」があり、静御前の舞塚とも、また大海人皇子(後の天武天皇)が社前で琴を弾いたとき、天女が舞を舞ったところとも言われ、伝説も様々です。

金峯神社拝殿(場所 奥千本)
吉野山の奥の院にあるのでバスか車の利用が便利。右手奥に進むと西行庵がある。 「さながらここも金(こがね)の峯の、光も輝く千本の桜」と『嵐山』で謡われるのはこの辺りのこと。更に奥に行くと「青根が峯ここに」とも謡われる青根が峯山頂があります。

義経隠れ塔(場所 金峯神社左手を降りる)
文治元年、義経一行は吉野山の衆徒に追われここに身を潜めて隠れていましたが、味方と思っていた衆徒の寝返りによりここも追われることになります。義経は屋根を蹴破って逃げたと言われ、この塔は別名「蹴抜けの塔」とも言われています。ここは本来、山伏修験道の休場であったところで、昔はもっと奥の青根ヶ峯に近いところにあったようです。

子守明神 水分(みくまり)神社
赤い楼門をくぐると右手に三殿を一棟に集めた水分天神がありますが、能『嵐山』の後ツレで登場する子守明神は奥に鎮座されています。後シテが登場する前に勝手明神と子守明神の相舞がありますが、能では勝手は女神、子守は男神として扱われています。

佐藤忠信・花矢倉の跡
(場所 子守神社より下る途中)
佐藤忠信はここに立って雨のように矢を射って横川覚範を討ちました。能『忠信』(喜多流にはない)の舞台はここです。

佐藤忠信・花矢倉の謡曲史跡保存会の立て札(場所 花矢倉の石碑下)
吉野山を下りた佐藤忠信は京の都にて義経を捜しますが、頼朝勢の不意打ちに合い無念の死をとげます。

展望台より(場所 花矢倉より少し上る)
蔵王堂を眼下に小さく見ると吉野山の広大さを実感します。 桜のシーズンはマイカー入山禁止となります。

横川覚範の供養塔(場所 花矢倉の跡から少し下る)
石碑が三つ並んでいますがこれは供養塔。向かって左手に新しい石碑の横川覚範の首塚もあります。

桜木宮・桜木神社(場所 奈良県吉野郡吉野町喜佐谷字)
吉野山を下りて宮滝に行く途中に、能『二人静』の「桜木の宮、神の宮滝、西河の滝」と謡われる「桜木神社」に立ち寄りました。

桜木宮に渡る屋根付き橋(場所 桜木神社手前)
喜佐谷川に屋根付きの特殊な橋がかかっています。

宮滝(場所 吉野町宮滝)
滝というので、大きな滝を想像しましたが、左手下に見える小さな滝です。

宮滝アップ
中央上部にある小さな段差で水が落ちているところが宮滝。 「宮滝」は飛鳥や奈良時代にこの景勝地に離宮(吉野宮)が置かれたことによります。

菜摘川の謡曲史跡保存会立て札(場所 菜摘)
吉野川の一部を菜摘川といいます。能『二人静』は吉野勝手明神の神官が正月七日の神事に供える若菜を女どもに採らせます。そこへ静御前の霊が現れ、菜摘女に取り憑き二人の静は舞ながら「昔を今になすよしもがな」と義経との悲恋を物語り、回向を願う話です。

浄見原神社への路(場所 国栖トンネルそば)
国栖トンネルそばに小さな案内板があり指示に従って狭い道を進むと、国栖奏伝習所があります。川沿いに進むと神社です。能『国栖』では浄見原天皇はここ国栖村の漁翁に命を助けてもらい後に天武天皇となります。能では鮎や根芹を食べたと謡われていますので、想像しながらシャッターを押しました。

謡曲史跡保存会の立て札(場所 神社手前)
能では大海人皇子に鮎を献上していますが、土地の案内板には腹赤魚(うぐい)をお供えしたと書かれています。

神社前
この狭い屋根の下で、国栖奏は舞翁2人、笛翁4人、鼓翁1人、謡翁5人で行われます。 舞翁は右手に鈴を左手にサカキを持って「エンエー」の声に合わせて舞う素朴な舞とのことです。

祠は小さく、浄見原天皇がお祀りされています。

蜻蛉(せいれい)の滝(場所 吉野郡川上村 公園奥の階段を上ること3,4分)
能『嵐山』で「青根が峯ここに」と謡われる青根が峯から流れる音無川に蜻蛉の滝があります。 能『二人静』で「神の宮滝、西河の滝・・・」と謡われる西河の滝はここの事で、段差があるダイナミックな滝です。

滝壺を覗く
滝に沿って小道があり、上から下まで滝を見ることができます。

休憩室から螺旋状の階段を降りると滝壺近くまで行かれます。

壺阪寺の三重の塔(場所 高取町壺阪3番地)
謡蹟とは関係ありませんが、子嶋寺に寄るついでに立ち寄りました。室町時代の再建以来初公開となる三重塔初層が開扉されていて、内陣の大日如来と秘仏弘法大師像が特別拝観出来ました。眼病に効験があるとされています。

子嶋寺(場所 近鉄吉野線壺阪山駅より東北一丁)
子嶋寺のパンフレットには謡曲『田村』発祥の地と書かれていて、第二代延鎮は坂上田村麻呂と師檀の契りあり、此寺を興し後、延鎮と清水寺を開く・・・とあります。能『田村』のシテの語りは「昔、大和の国、子嶋寺(こしまでら)に延鎮といっし沙門・・・」と謡われています。内陣には延鎮僧都の像があります。

当麻寺 中将姫像(場所 葛城市当麻 講堂となり)
当麻曼荼羅で有名な中将姫は、能では『当麻』と『雲雀山』に登場します。『当麻』は大曲なので能楽師のだれでもが簡単に中将姫役にはなれません。『雲雀山』の中将姫は子方なので大人には無理です。中将姫役は能楽師には近いようで実は遠い存在なのです。

謡曲史跡保存会立て札(場所 講堂際)
この立て札よく陽が当たるせいか、文字が薄く剥げてきています。 写真撮影は出来ませんが、講堂と金堂の仏像はすぐれものが揃っています。 中でも金堂の四天王像は白鳳時代の百済からの献納仏、異国的雰囲気がいいです。

満開の藤(場所 東大門から右手、中之坊前)
桜は終わりましたが、導き観音のある中之坊では藤や牡丹が咲き乱れ、花の見頃でした。

石光寺 染寺(場所 葛城市染野387)
聖武天皇の時、蓮糸曼荼羅を織った中将姫はこの寺の井戸で蓮糸を洗い五色に染め、桜の木にかけて乾かしたというので、この桜の木を「糸かけ桜」、井戸を「染め井」というそうです。能『当麻』では染寺は染殿と謡っています。

石碑
「糸かけ桜」、「染め井」の石碑です。

糸かけ桜の古株
古株はガラスケースに入っています。

染の井戸
残念ながらこれ以上はカメラが届かず、井戸の底は見られませんでした。

石光寺の閉門
タクシーで到着したのが5時を3,4分過ぎていたので、もうだめかと諦めましたが、 ちょうどご住職がいらっしゃって、「もうだめですか?」とお願いしたら、「タクシーをご利用なさってわざわざいらして下さったものをお返しするのも・・・」とお情けで入れて下さいました。入ると「門は閉門しますが、どうぞごゆっくり」と言われて恐縮しました。 まことに有り難きお心にほっとあたたかい気持ちになりました。最高の旅の締めくくりということでしょう。
謡蹟めぐり高崎近郊投稿日:2010-05-16

GWの初日(平成22年4月28日)、高崎近郊の謡蹟めぐりに行きました。
新幹線は混雑が予想されるので、湘南新宿ラインの普通電車を利用して、恵比寿から高崎まで2時間かかりますが行って来ました。
東京は晴れていたのですが、高崎近くになったら車窓に雨が落ちてきて、傘が必要になりました。
今回は駅前でレンタカーを借りての謡蹟めぐりです。カーナビーがマイナーな訪問先を案内してくれるので助かりました。
訪問先は、頼政神社(『頼政』)、常世神社(『鉢木』)、佐野の船橋(『船橋』)とその歌碑、定家神社(『定家』)が南高崎駅周辺、午後は磯部まで移動して、松岸寺(『藤戸』)の佐々木盛綱の墓にお参りして、最後は「はやし屋」でひとっ風呂浴びて帰りました。

頼政神社(場所 高崎公園隣 宮元町)
元禄八年、松平右京大夫輝貞公が高崎藩に封ぜられた時、祖先・源頼政公を祀って頼政神社を建てました。源頼政は能では『頼政』『鵺』で登場する、平安末期の源家の正統に生まれた武将にして歌人です。昇殿を願い詠んだ「人知れぬ大内山の山守は木隠れてこそ月を見るかな」は『小袖曽我』にも謡われている。

佐野の船橋跡(場所 上佐野町)
昔は橋がなかったので幾艘かの舟を繋げ、間に板を敷いて橋の代わりにしていたので 船橋と言われていました。今は橋桁は鉄筋ですが、それでも木橋はなかなか風情があります

船橋から上信電鉄電車 橋を渡っていると電車が通過しました。あまり通過しないのは単線のためです。

船橋遠景
対岸に渡り撮影。意外と川の流れが速いのに驚きました。橋桁のブルーカラーはどうも不似合いに感じますが・・・。

鯉
橋の上から川を覗くと鯉が上流へと泳いでは流され泳いでは、と繰り返していました。 鮭なら判りますが、鯉も上るのでしょうか?

佐野の船橋歌碑(場所 上佐野町 西光寺近く)
「かみつけの佐野の舟はしとりはなし 親はさくれどわはさかるがへ」の歌碑があります。 能『船橋』では「東路の佐野の船橋取り放し、親しさくれば妹に逢わぬかも」と謡います。 文政10年に作られた歌碑ですが、当時はここから烏川が見られたと思います。今は新幹線の架線しか見えないのが寂しいです。

謡蹟保存会の立て札
今回はじめての保存会立て札。思わず「あった!」と叫んでしまいました。

常世神社鳥居( 場所 上佐野町)
車で通ると見過ごすほど小さな鳥居です。

常世神社
能『鉢木』の主人公、佐野源左衛門常世を祀っています。

石碑
神社左手に石碑があります。

謡蹟保存会の立て札
常世神社は新幹線の下にありますが、神社を外して走ってくれてよかったです。

新しい保存会の立て札
最近立てられた立て札です。いつも見慣れているものと少し違いますが、やはりこれがあると謡蹟めぐりをした気分になります。

定家神社にある周辺案内図(場所 定家神社内)
最初にこれを見れば、周辺が判りやすかったことでしょう。

定家神社(場所 上佐野)
元は高田神社と呼ばれていましたが、定家の詠んだ「駒とめて袖うち払ふかげもなし、佐野のわたりの雪の夕暮れ」にかけて定家を合祀して定家神社と言われるようになりました。 「駒とめて」の歌は三輪山の麓の佐野とも、新宮市の佐野とも言われているので、あまり能『定家』とは関係が薄いようです。

松岸寺(場所 磯部4丁目11番地)
安中から磯部に向かうと右側に見えますが、見逃してしまうほど小さな参道です。 佐々木盛綱の菩提寺です。

佐々木盛綱夫婦の墓
お寺の左手奥にあり、立派な建物の中には五輪塔があります。
室生寺・長谷寺・大神神社の旅投稿日:2009-11-16

平成21年11月9日、快晴のお天気に恵まれて、いつか再度訪れたいと思っていた室生寺とご本尊観音様の御足に触れることが出来る長谷寺、そして能『三輪』所縁の神社、大神神社と玄賓庵に写真探訪してきました。
大阪の稽古の後、天王寺駅近くに宿泊し、翌朝7時に行動開始。
まずは室生寺を目指し、鶴橋駅から近鉄大阪線の快速に乗車し、室生口大野駅で下車しました。
時計を見るとまだ8時で、バスの始発は9時20分と判り、タクシーにて、室生寺に向かいました。
途中、大野石仏でいったん停車してもらい撮影して、女人高野・室生寺に着くあたりから一面が紅葉しはじめの美しい景色に変わって来ました。
素人カメラマンとしては、ロケーションは申し分なし、あとは撮影の技術なのですが・・・。あとで拙い写真をご覧下さい。
タクシーの運転者さんに、長谷寺経由、桜井駅までの行程で料金を相談すると、待ち時間を無料といううれしい回答で交渉成立。荷物を車に置いて、御朱印帳とカメラだけ持つ楽な行動となりました。
近鉄大阪線の室生口大野駅や長谷寺駅は、停車する電車の本数が少ないので、時間を無駄にしないためには、やはり車での移動がお薦めです。
では、写真でご紹介します。

大野石仏
室生口大野駅から大野寺を通過すると、直ぐに宇陀川の渓流をへだてて断崖に高さ13メートルの磨崖仏が見えてきます。

弥勒仏
三脚が無かったので、手持ちで250mmの望遠レンズで撮影しましたが、やはりピントがあまく、残念・・・。

室生寺山門
室生川に沿って山を上ると、だんだんと紅葉がはじまります。室生寺の朝は人も少なく境内はご高齢の方々がお掃除をされていました。お話を伺うと「人数が足りなくて困っています」とのこと。綺麗に掃かれたお庭は厳粛な雰囲気が漂っていました。
やはりお寺は早朝に限ります。

五重塔
屋外に立つ五重塔では最小のもの。一時台風で破損しましたが直ぐに再興されました。

金堂の屋根
喜多能楽堂の舞台の屋根は室生寺の形を真似た、と聞いています。

金堂側面
金堂内陣には、十一面観音、文殊菩薩、本尊釈迦如来、薬師如来、地蔵菩薩がならび、その前には薬師如来の眷属、十二神将がまるで動いているように見えました。土門拳がどのように撮影したのか、と思いながらも、残念ながらここは撮影禁止です。

室生川の紅葉
奥の院までの往復は徒歩1時間程かかるというので、今回は諦め長谷寺を目指すべく、 タクシーの待つ駐車場戻ろうとすると、なんとなく気になる紅葉があり撮影。

長谷寺仁王門
普通はここから長い階段を上って本堂に行きますが、足の不自由な方やタクシー利用者は裏道を使い、納経所付近まで車で行かれます。これあまり知られていませんが、歩きたくない方はどうぞ。

長谷寺特別拝観
拝観料は¥1000。写真のように御足に触れて「ご縁」を結ぶことが出来るというのです、折角のチャンスでしたので触れてきました。
拝観前、手に五色の糸をより合わせた腕輪をはめてもらいますが、観音様とご縁が結ばれたというしるしだそうです。下から見上げる観音様はとても大きく、なんと言ってもこんなに近くにいられるのが貴重です、拝観料決して高くないと私は思いましたが・・・。

大白鷲
特別拝観を終えて外に出ると、お若いお坊様が「あそこに大鷲がいますよ、そのカメラなら撮れますよ」と声をかけて下さり最大アップで撮影しました。しかし250mmではここが限界でした。

二本の杉
車道の途中に能『玉葛』で謡われる「二本の杉」があります。ここに来るのはこれで3度目です。

藤原俊成と定家の塚
「二本の杉」から少し下がったところに歌人・藤原俊成と定家の親子の塚があります。
真ん中が定家の塚です。来年、能『定家』を勤めるので、ご挨拶のお祈りをして来ました。

大神神社の二の鳥居
三輪山の拝殿まで鳥居は三つありますが、一の鳥居はとても大きく拝殿からかなり遠いところにあります、二の鳥居がこれで三の鳥居は山の奥にあります。

巳の杉
この杉が能『三輪』の杉かと思いましたが・・・。

能『三輪』の神木
拝殿に向かい右に、能『三輪』のご神木と書かれた枯れ木がありました。
謡曲保存会の駒札も立てられています。

玄賓庵
大神神社から山辺の道を歩くと玄賓庵に着きますが、狭く決してよい道ではありません、悪天候での徒歩は避けるべきでしょう。

小さな山門
白壁がとても綺麗です、二人同時には入れないくらいの小さな門です。

玄賓庵
どうも無人のようですが、お庭は綺麗に掃除されています。

小さな山門
白壁がとても綺麗です、二人同時には入れないくらいの小さな門です。
石塔寺投稿日:2009-10-16

平成21年10月3日、喜多流の仲間3名と滋賀県の阿育王山・石塔寺(あしょかおうざん・いしどうじ)に行きました。一度は訪れたいと思っていた珍しいお寺ですが、なにしろ交通の便が悪い辺鄙なところなので、車が便利です。今回はレンタカーを借りての大阪からの出発となり、参拝して参りました。
では写真でご紹介します。

まずは記念撮影、石塔寺に行きたいと提案した粟谷能夫氏(右)と出雲康雅氏(中央)と私。撮影 内田成信氏

石仏を目指し
粟谷能夫氏の「では行きますよ!」の掛け声に全員気分はワクワクでスタート。

本堂と阿育王塔への道
この参道を上がると左手に受付、右手に本堂が見えます。

拝観料と御朱印
受付で御朱印を頂く内田成信氏。

山門
石塔寺の開基は聖徳太子、天台宗のお寺です
阿育王山の文字が横に並んでいる門をくぐると左に本堂があります。

本堂前
どうも行動が別々になりがちな私たち、でもひとたび号令をかければ・・・。

本堂
織田信長の元亀の兵火などにより、伽藍は焼失し全山荒廃しましたが、江戸時代に天海大僧正の弟子、行賢により復興されました。

石段の脇に石仏
本堂を出て右に長い急な石段が見えます。
石段の左手には石仏が見えはじめ独特の雰囲気が感じられますが、これは未だほんの序の口でした。

石段
長くきつい上りの石段、ここでも我々の行動は・・・バラバラ

三重石塔
石段を上がりきると・・・眼前にこの風景が飛び込んできます。
司馬遼太郎は「最後の石段をのぼりきった時、眼前に拡がった風景のあやしさについては私は生涯忘れる事が出来ないだろう」と評していますが、まさにその通り圧巻です。

阿育王塔と石仏
インドの阿育王が仏法興隆のために世界中にばらまいた八万四千の仏舎利塔は日本にも二つ届きました。一つは琵琶湖の湖底に沈みましたが、もう一つがここ石塔寺にあります。
比叡山の寂照法師が宋(唐とも)に留学し清涼山にて修行中、琵琶湖東辺に阿育王塔が埋もれることを聞き、日本に手紙を書きました。それを知った一条天皇は勅使の平恒昌と武士の野谷光盛に調べさせると、この地の土中より大塔が出現しました。
能『石橋』の脇役は「これは大江の定基といはれし寂照法師にて候」と名乗りますから、ここは謡蹟でもあります。

記念撮影その1
前日は雨でしたが、まぶしいくらいの晴天に恵まれました。

記念撮影その2
「私も~~撮ってよ」と内田君に撮影依頼、石塔の大きさがお判りになると思います。

石仏群
鎌倉時代になると、参拝者が極楽往生を願い五輪塔や石仏を奉納するようになり、 多くの石仏が集まりました。

石仏
江戸時代にも石塔石仏の奉献は引き継がれ、その数は次第に増えたそうです

石仏
三重石塔の周りだけではなく、正面右手にも多くの石仏が広がっています。

石仏いろいろ
広角レンズで撮影してみました。

山頂一周コース
一周廻れる山道があり、その脇にも石仏がたくさん点在しています。

いろいろな石仏
こんな珍しいものもありました。

下り坂
この手すりは助かります。先を行くのは出雲康雅氏、後方に内田成信氏
粟谷能夫氏はもう降りているらしく見あたらない。
ちょっとよそ見をしていると踏み外す危険な下り坂ですのでご注意下さい。

感無量の内田成信氏
「ご感想は?」に「あ~いいところですね…、ここが僕の御朱印のはじまりだ~~」と私も今回訪れることが出来て感激でした。
壇ノ浦近郊投稿日:2009-09-16

平成21年8月1日、山口薪能の演能翌日、新山口駅を経由し新下関駅からタクシーを利用して源平合戦最後の地、壇ノ浦近辺を写真探訪して来ました。
源氏方が兵舟を隠していた満珠島と千珠島、平家一杯水、壇ノ浦古戦場跡、七盛塚と安徳天皇をお祀りしている赤間神社を参拝し、対岸に見える和布刈神社へ、関門トンネルをくぐり九州門司へ渡り参拝して来ました。
では写真でご覧下さい。

満珠 千珠の島
曇天のため視界が悪く、画像が良くありませんが、画面右が満珠島、左が千珠島。源平の戦で、源氏方は一時戦況不利となり、この二つの島まで追い込まれてしまいますが、義経が平家の梶取をねらい射るように命じたので平家方は大混乱となりました。

平家一杯の水 敗れた平家の武将は泳いで陸に辿り着き、この井を見た者は真水と信じてこれを貪り飲んだといいます。しかし井水は鹹水(かんすい=海水)だったため飲んだ者は命を落とし、気が付いて吐きだした者は命が助かりました。

平家一杯の水(後方より)

ちょうど潮が引いていたので海側からの撮影です。
平家一杯の水(上から)
現在、井戸はご覧の通り鍵が掛けられ、底は見ることができません。

御裳濯川(みもすそがわ)
能『小原御幸』では「今ぞ知る、御裳濯川の流れには、浪の底にも都ありとはと」と謡います。御裳濯川は小さな川で以前は海に流れ込んでいたのが見られたようですが、現在は道路の下を流れるようになり残念ながら見られません。その代わり観光用に橋が作られています。

御入水処の碑
二位殿が安徳天皇に「この国は逆臣が多く、浪の底にも都がありますから、そちらに参りましょう」と入水したところは、この石碑から向かいの地へ100メートル先と言われていますが・・・。

御入水処
「自らも続いて沈みしを」と建礼門院も続いて入水しますが、源氏方の武士に熊手で引き上げられて助かります。

赤間神宮の水天門
昔は阿弥陀寺と言っていましたが、明治になり、赤間神宮となりました。
明治9年、昭憲皇太后宮が「いまも猶、袖こそぬるれ わたつみの 龍の都の御幸思えば」との御歌を詠まれ、昭和33年世界唯一の竜宮造りの御造営となった。御祭神は安徳天皇、御祭祀は安徳天皇神鏡です。

水天門全景
平家一門の先祖は龍神であると考えていたため、海底への入水は死というよりも、都に帰る思想があったとも言われています。

安徳天皇御陵
幼くして亡くなった安徳天皇のお墓で、西日本ではただ一つの御陵です。

平家一門の墓
神社本殿を左に入ると、耳なし芳一の像の横に平家一門の墓は並んでいます。

七盛塚
壇ノ浦合戦に亡びし平家一門の武将を祀る、と赤間神宮略記に記載されていますが、右から二番目の平清経は壇ノ浦合戦には参加していないので、ここに祀られているのはおかしいと疑問に感じるのですが・・・。

墓の方々
前段には平氏一門、後ろにその配下の者の名前があります。 後列右端の伊賀平内左衛門・平家長は知盛の傳子(めのとご)で、『小原御幸』では弓を取り交わし死出のお伴に入水した人です。 この中で謡に登場する者は、清経、教経、経盛、知盛、家長、時子です。

教経・資盛の碑
能『小原御幸』では教経は、安芸の太郎兄弟を道連れに入水したと語ります。

和布刈神社(めかりじんじゃ)
関門海峡の門司側にある和布刈神社。能『和布刈』のワキはこの神社の神主で、松明と鎌を持ちワカメを狩ります。シテは竜神を勤めます。

和布刈とは
和布は万物に先んじて芽を出し自然に繁茂するので幸福発生の姿があり、また神の依代(よりしろ)との考えから神前に備え、お祭りをすると、神社の説明にあります。そのときに神職の者が鎌と桶を持ち、松明で社前の石段を照らして下り、厳寒の海に入って和布を刈る神事があるそうです。 それにしても、能『和布刈』はあまり演じられない脇能です。喜多流での演能は未だ見たことがありません。

保存会の駒札
写真探訪には欠かせない謡蹟保存会の駒札は神社本殿の前にあります。

九州から見る「平家一杯水」
和布刈神社から300mmの望遠レンズで本州側の平家一杯の水を撮影、曇天のため鮮明に撮影出来ませんでした。

細川忠興公寄贈の灯籠
和布刈神社前の関門海峡の海流が激しいところに立派な灯籠がありました。
伊東近郊の謡蹟投稿日:2009-07-16

平成21年7月恒例の「ゆかた会」は伊東温泉・ホテル聚楽で行われました。
下準備のために前日入りした私たちは伊東近辺の謡蹟や名所旧跡を訪ねて来ました。
伊東市は日本三大仇討ちの一つ、曽我物語のゆかりの地です。
曽我物語は、従兄弟の伊東祐親に所領を奪われたことを恨んだ工藤祐経が腹心の大見小藤太(おうみことうた)と八幡三郎(はつまさぶろう)に伊東祐親の命を狙わせたのが事件の発端です。
大見と八幡は赤沢の椎の木三本の地に隠れ、祐親を狙い矢を放ちますが、遠矢は長男の河津三郎祐泰に当たり祐泰は討死にします。その後、大見と八幡の二人は祐泰の弟、祐清に討たれますが、祐泰の二人の遺児は工藤祐経に対して恨みが残りました。二人の母、満江御前は親戚の曽我家に嫁ぎ、兄弟は曽我を名乗ります。成人後、兄弟は冨士の巻き狩の夜、夜討をかけて念願の父の敵・祐経を斬り本望を遂げます。しかし兄の十郎祐成は仁田忠常に討たれ、弟の五郎時致は生け捕られます。頼朝は命を助けようとしましたが、祐経の子、祐時の歎願により斬首されます。
(参考・ふるさとコミック伊東むかし物語)
さて、いつものようにタクシーを借り切り見物しました。
音無神社―葛見神社の楠―東林寺―伊東祐親の墓―物見塚公園―赤沢の血塚―わさび筏場―萬城の滝―大見小藤太館址実成寺―大見小藤太の墓―曽我物語発祥の碑相撲場跡
では写真をご覧下さい。

音無神社
頼朝と八重姫(伊東祐親の娘)が恋の逢瀬を楽しんだ神社です。二人には千鶴丸が生まれています。 伊東市音無町1-13

葛見神社 葛見の庄の初代地頭・伊東家次(別名・工藤祐隆 伊東祐親の祖父)が守護神として社殿を造営した神社です。本殿の左には樹齢1100年の立派な樟(クスノキ)があります。
伊東市馬場町1-16-40

東林寺
開祖は伊東祐親公。我が子河津三郎祐泰の菩提を弔うために仏門に入り、東林院殿寂心入道と称しました。この寺はその法名に因んで東林寺となりました。伊東市馬場町2-2

河津三郎祐泰の墓
祐泰は相撲四十八手の一つ「河津がけ」の名を残す剛力の武将で相撲の名人としても有名になりました。
隣に子どもの曽我兄弟の首塚があります。東林寺の左手に参道があり急な登り坂を3、4分歩くと三人の墓があります。

曽我十郎祐成の首塚
兄が十郎で弟が五郎になったのは、十郎が伊東九郎祐清を頼り、五郎が北条四郎時政を頼ったため。

曽我五郎の首塚
捕らえられた五郎は祐経の遺児・犬房丸(後の工藤祐時)に斬首されます

伊東祐親の墓
河津三郎祐泰の父、頼朝挙兵後、伊東家は平家方へ、工藤家は源氏方へ従い、伊東祐親は平家方につき最後は自害しています。伊東市大原町

伊東祐親の銅像
銅像は伊東祐親の館址と言われている物見塚公園にあります。公園の隣は伊東市役所ですが、近代的な建物に驚かされます。

河津三郎血塚(上から)
旧国道には「血塚」の標識がありますが、その後別荘地を通り、車を止め、さらに徒歩2分ほどで血塚にたどりつきます。ここが祐泰が落命したところです。

河津三郎血塚(前より)
伊東家が供養のために積石塚と宝篋印塔(ほうきょういんとう)を作ったと言われています。宝篋印塔は南北朝の時代のものと推測されます。ここは伊東市指定の文化財になっていて昼でも暗いところです。墓の前の道はよく整備され、江戸幕末のころ役人が江戸と下田をしきりに行き来した旧道下田街道の名残です。

筏場のわさび田
総面積14.7ヘクタール、棚田の枚数1500枚で、戦国時代の落人がここを開拓したと言われています。

萬城の滝
以前は滝の裏側も通れたといいますが、今は通れません。

わさびの大見屋
タクシー運転手の丸山さんも大見小藤太の墓が判らず、大見屋さんでお勤めの女性の方に聞くと、「子どもの頃、あの辺で遊んでいて、確かあったと思う~」と教えて下さいました。ここのわさびはやはり新鮮でおいしい。

実成寺(じつじょうじ)
大見小藤太の館址と言われ、以前は実相寺と言っていました。中伊豆柳瀬

来宮神社
八幡三郎館跡と言われる八幡来宮神社ですが、今はなんとも静かなところです。田方郡中伊豆町八幡(はつま)

大見小藤太成家の墓
大見小藤太は八幡三郎とともに河津三郎祐泰を射止めたあと、祐泰の弟、祐清の軍勢に攻められ討ち死にしました。
この場所は大見屋さんの店員さんの言葉を頼りに探すこと2、30分、やっとのことでタクシー運転手の丸山さんが見つけて下さいました。戦没者慰霊碑の隣に小さな墓石があり、「あ!あった!」と見つけた途端、全員で叫んでしまいました。

大見小藤太成家の墓
大見川の川岸で討たれ、ここ馬場沢に葬られました。

奥野相撲場跡
伊東祐親が奥野の地で数日間巻き狩をしたときに、余興として相撲が始まり、俣野五郎景久が数十番勝ち、土肥實平を挑発すると烏帽子親を侮辱されたと祐泰が挑みました。祐泰が俣野を倒すと、木に躓いたからだ、もう一番と言われ、もう一度取り組むこととなりますが、今度は軽々と持ち上げて勝ったということです。このときの相撲の手技が、河津がけと呼ばれる相撲の四十八手の一つです。以前、相撲場があったところは、ダム建設により集落がなくなってしまい、跡が残るばかりです。

松川湖のモニュメント
松川公園の梅林近くにあります。伊東祐親がここで巻き狩が行われなければ、息子の祐泰は殺されなかったかもしれず、また曽我物語もなかったかもしれません。

モニュメントの前で
ちょっと真似てみましたが…。

タクシー運転手の丸山進さんと。
丸山さんはモニュメントの場所もお友達に聞いて、教えて下さいました。
とても親切で、楽しい一日が過ごせました。
福島から山寺投稿日:2009-06-16

平成21年6月5日、6日、福島の謡蹟めぐりと山形県の山寺に参拝して来ました。
5日は東北新幹線の郡山駅で下車し、タクシー(個人タクシー和幸さん)を借りきり、静御前堂、采女神社、王宮伊豆神社、昼食は長兵衛庵にてそばをいただき、黒塚ゆかりの地、観世寺をまわり、岳温泉で湯に浸かって、福島にて一泊してきました。
福島といえば餃子、というほど、おいしいお店があるので有名です。今回は「山女」という店に行きましたが、ここはオススメです。福島駅から直ぐ近くですので、一度行ってみて下さい。
二日目は生憎の雨模様でしたが、文知摺観音、医王寺を参拝して、山寺に登って来ました。
では、写真にてご紹介いたします。

静御前堂
静御前は義経を慕ってここ郡山まで来ますが、すでに義経が平泉向かった事を知って嘆き、美女沼に身を投げたと伝えられています。その後、里人が哀れみ、静御前の霊を祭ったのがこのお堂です。郡山市静町にあります。

采女神社
近年、8月5、6、7日には采女祭が催され、その時はここも賑やかになるとタクシーの和幸さんが教えてくれましたが、そんなことが想像出来ないほど、静かな神社です。

采女の由来
能『采女』では、采女は猿沢の池に入水しますが、もうひとつの説よると、この地まで戻り入水しているようです。どちらにしても悲しいお話です。

采女塚
鳥居をくぐると小さな祠の采女塚があります。まわりに水芭蕉があり、花咲くシーズンは美しいことでしょう。

山の井清水
4メートル四方の小さな池で、身を投げても今なら助かりそうな池です。

はなかつみ
能『花筐』に「みちのくの浅香の沼の、はながつみ」と謡われているのは、この「はなかつみ」。近年、郡山市の花と認定されましたが、小さくかわいい花です。采女公園を管理している地元の方が、もうほとんど散っているのに、咲いているところを捜して見つけて下さいました。

采女神社の前で地元の方と
左から、親切にいろいろ教えて下さいましたタクシーの和幸さんと、お名前をお聞きしなかったので判らない管理人の方と私。東北の方々はみな、おっとりしていて親切で、優しいです。

王宮伊豆神社
葛城王(橘諸兄)を祀った神社。葛城王は国司の粗末な接待に怒りますが、采女であった女性が「浅香山影さえ見ゆる山の井の…」と詠んだことで機嫌を直したという話があります。ここに采女のご神体も収められているというので、丁寧に参拝しておきました。

葛城王の碑
石碑は本殿左手に、珍しい霊亀の上にあります。

手打ちそば、長兵衛庵 観世寺に行く前に腹ごしらえをして…と運転手さんが薦めてくれたのが、この民家のそば屋。大邸宅を昼はお店にしているようで、中は個人のお宅そのままの雰囲気。そば専門なので、そばはもちろんですが、とれたての野菜、山菜が特に美味しかったです。 電話で確認してから行って下さい。 定休日毎週水、木、営業時間は11時~14時半 電話024-952-5474

安積山公園
二本松の観世寺に向かう途中に浅香山がある。山というよりも丘のような高さだが、昔はこれも山であったのでしょう。

山頂
安積山は赤松が多く、山頂には大きな立派な赤松があります。

山の井清水
ここにも山の井清水がありますが、岩も清水もきれいに整備されています。安積香山公園の裏、駐車場の横にあるので注意して見ないと見落としてしまいます。

観世寺
能『黒塚』(観世流『安達原』)所縁の寺。電話0243-22-0797 観世寺と黒塚は阿武隈川の土手横にあります。観世寺は能『黒塚』のワキが勤める阿闍利祐慶東光坊の開基となっています。

謡蹟保存会の駒札
駒札を見つけるとほっとしますが、境内の隅に設置されているのが残念。門を入りすぐに左に回り、巨岩群の下にあります。

鬼婆が住んでいた岩
「謡蹟めぐりみちのく編・青木実著」では、岩は太古阿武隈川の氾濫で積み上げられたものと書かれていますが、まさに自然はとんでもない大きな力を見せつけるものだと感心させられます。

黒塚の一本杉
観世寺から阿武隈川に向かう途中に孤立して大きな杉が立っていますが、これが黒塚跡。

黒塚
鬼婆岩手が葬られたとされる黒塚。昔は森だったと思われますが、今は土手下にあり、周りになにもないのが不思議な感じでした。

祈り
ワキ東光坊の阿闍利を真似て祈ってみました。

信夫山遠景
岳温泉で湯に浸かり、福島市内に入るところで、能『藤戸』で「いつまでとてか信夫山」と謡われている信夫山が見えたので車をとめて撮影。この山の下を新幹線のトンネルがあるかと思うと、「いつまでとてか…」となります。 ここまでが初日です。

文知摺石
朝8時15分に到着。開門時間が9時となっていましたが、お願いしたら親切に開けて下さいました。生憎の雨模様でしたが、新緑の鮮やかさが増し、一面緑一色のきれいな景色でした。 源融の帰りを待ちわびた虎女は文知摺観音に百日の願をたてますが、融からは何の便りもありませんでした。嘆き悲しんでいると石に融公の面影が浮かびますが、その後虎女は病に伏し短い生涯を閉じたといいます。この摺石は別名鏡石といわれています。

多宝塔
中に多宝塔五智如来像がありますが、通常は拝見出来ません。

融と虎女の墓
放生池の上手にふたりの墓が作られています。能『小塩』に「みちのくの忍ぶもぢずり誰故に乱れそめにし、我ならなくに」と謡われていますが、これは源融公の歌です。

医王寺
佐藤継信、忠信の墓があります。

境内
右が本堂、真っ直ぐに兄弟の墓があります。宝物館は左にあり無料で拝見出来ます。 能登殿が継信を射殺したとされる鏃(やじり)がありました。

医王寺の謡蹟保存会の駒札
今回の旅では観世寺とここだけにしか駒札はありませんでした。 もっと増えるといいと思いますが…。

佐藤兄弟の墓
兄弟仲良く立派な石碑が並んでいます。

山寺(立石寺)・根本中堂
参道入り口の案内碑があるところから、急な階段が始まります。上がりきると根本中堂が見えてきますが、ここはまだ序の口です。山寺奥の院は左手にまわると入り口があります

弥陀洞
階段を登ること10分ほど、山門の手前に巨岩に経が書かれた岩壁が見られます

仁王門
山門あたりが奥の院までの三分の二程度、まだまだ登りが続きますが、ここから視界が開がります

奥の院
立石寺の奥の院で朱印を頂戴して、少し戻り、右手に登ると展望台への道となります。

五大堂内
あまり広くはありませんが、堂内からの景色は絶景です。

景色
眼下に山寺の駅や仙山線が見えます。ちょうど曇り空でかすんでいましたが、それもまた風情があります。

山寺駅から展望台の五大堂
山寺駅のホームより300mmの望遠で撮影しました。40分前にあそこにいたのか、とシャッターを押しました。
『田村』ゆかりの謡蹟めぐり投稿日:2009-05-16

平成21年5月、天候に恵まれた日に、新緑の京都東山、能『田村』に所縁のある謡蹟清水寺と正法寺に行ってきました。今年は清水寺ご本尊の御開帳の年、また開山堂の田村堂も公開されていますので、能楽師としてはこの絶好の機会を見逃してはいけないと思い、写真探訪して参りました。正法寺は『田村』の名所教えに謡われる「あれは上見ぬ鷲の尾の寺」の鷲の尾の寺です、こちらも散策してきましたのでご紹介いたします。

仁王門前の混雑
車で五条通りから正門近くまで上がろうとしましたが、観光バスが多く参道は大渋滞、車でのアプローチをあきらめ徒歩で裏道を上がりました。どこも大勢の修学旅行生でいっぱい、大混雑の清水参りとなりました。

仁王門
「ご本尊御開帳」と掲げられている赤門の仁王門。 撮影場所の左には「車宿り馬留め」と『湯谷』で謡われる馬駐(うまとどめ)がありますが、生憎修復工事中でした。

田村堂
堂内は撮影禁止なのでご紹介出来ませんが、坂上田村麻呂公と高子夫人、行叡居士、延鎮上人の座像があります。(21年3月1日から5月31日特別開扉)

謡蹟保存会の駒札
謡蹟めぐりには欠かせない駒札、これを見つけると安心します。

名桜 地主桜
「おのずから、春の手向けとなりにけり、地主の桜の花盛り」と『田村』で謡われている地主桜です。八重と一重の花が同時に咲く珍種で日本でも地主神社にこの一本が現存するだけです。

清水寺遠景
音羽山・清水寺のご本尊秘仏十一面千手観音像はお前立ちのお姿とは私には違って見えました。色はお前立ちの皆金色に比べて茶黒系で、お顔もお前立ちのふっくらとした感じではなく、丸顔の優しいお顔でした。どうぞ皆様もこの機会に是非ご覧下さい。撮影場所は現在改修工事中の子安の塔前からです。

音羽の滝
「音羽の瀧の白糸の」と謡われる音羽の滝、柄の長い柄杓で汲み霊水を飲むと御利益があるらしく、参拝者は行列して待たれています。お土産用に「音羽霊水」¥500でペットボトルでも販売されています。滝祠には不動明王と行叡居士も祀られています。

顕彰碑阿弓流為(アテルイ)母禮(モレ)の碑
坂上田村麻呂は蝦夷の首領アテルイとモレを京に連行しますが、敵将ながら武勇・人物を惜しみ朝廷に助命嘆願をします。しかし受け入れられず両雄は河内の国で処刑されます。この史実に鑑み、田村麻呂開基清水寺内にアテルイ・モレの顕彰碑を1994年に建立されました。

経書堂
産寧坂に曲がる角に『湯谷』のロンギで謡われる「御法の花も開くなる、経書堂はこれかとよ」の経書堂(きょうかくどう)があります。この前を平宗盛は湯谷を連れて牛車で通過した、と能『湯谷』ではなっています。

正法寺
あまり有名ではないお寺ですが、これが『田村』の名所教えに出てくる「あれは上見ぬ鷲の尾の寺」の正法寺です。霊鷲山無量寿院あるいは霊山と号し今は時宗国阿派に属していますが、開創は最澄大師で霊山寺と号したと伝えられています。インドの霊鷲山に似ていることからその名前がついたといわれています。

正門
龍馬坂から正門まで上り坂が続き、正門をくぐるとまた急な階段が見えます。本堂までの苦しい上り階段を登りつめると・・・。

正法寺本堂からの展望
眺望はすばらしく京都市内が眼下に見えます。 清水寺の北の位置に、このような隠れた謡蹟があるのを今回はじめて知りました。健脚の方は是非一度この穴場にいらして下さい。
香港・マカオの旅投稿日:2009-01-16

平成20年12月26日から三泊四日で香港・マカオに行きました。
ANAハローツアーにお世話になり、往路は香港国際空港に到着後香港島のエクセルシオールホテルまで、また復路は空港まで現地の日本語を話せるガイドが案内してくれました。
しかしそれ以外はすべて自由行動という気楽なツアーなため、いろいろ苦労もありましたが、なんとか無事に楽しんで参りました。
初日は、香港最大の繁華街、九龍のチムサアチョイに渡り、三つ星の中国レストラン「福臨門」で夕食を堪能。翌日は予定では片言の英語と身振り手振りで通用すると過信していましたが、マカオでのパスポート手続きや見物するところの選択など、我々には似合わず無理と判断、急遽オプショナルツアーに参加することにして、日本語を話すガイドさんの案内で、お寺や教会、カジノなどを見物、体験してきました。最終日はヴィクトリア・ピークに登り景観を楽しみ、今回の旅は終わりました。よい思い出となりましたので、その一部を写真でご紹介します。

ペニンシュラホテル
初日、香港島から九龍島へは慣れない地下鉄を乗り継ぎ、ペニンシュラホテルに行きました。地下鉄の切符は自動販売機で簡単に買えると思っていましたが、大人4枚を買うのに四苦八苦、突然出雲氏は隣の若い女性に声を掛け4枚を買ってもらいました。全員でお礼を言い、出雲氏に「なんて中国語で言ったのですか?」と聞くと・・・、「ヘルプミー!」ですって。

スターフェリーから見える香港島の夜景
香港島と九龍島の行き来は、道路か地下鉄かまたはスターフェリーの船に乗るかです。
地下鉄を経験した我々は次にフェリーに挑戦、今度はスムーズに切符も買えて無事乗船出来ました。生憎、靄がかかっていましたが、対岸の香港島の夜景は綺麗でした。

マカオ最古のお寺・アマーカオ
二日目は2005年に世界遺産に登録されたマカオへ、香港から船で一時間で着きます。日本語が堪能なガイドさんに案内され、まずは中国寺院、媽閣廟から。マカオという地名の由来は、寺の別名「アマーカオ」から来ているそうです。

渦巻き線香
長く太いとても大きい渦巻き型の線香は日本では見たことがありません。

拝み方
マカオや台北は長いお線香を頭上に上げるのが正式のようです。

聖ポール天主堂跡
五層からなるファサード(正面)は「石に刻まれた説教」といわれ、漢字やお花、聖母に踏まれる龍などが掘られています。聖ポール天主堂は東洋と西洋の文化が合体した珍しい教会といえるでしょう。1600年代に建てられましたが1835年火事で焼け落ち、今は外壁とその下に続く階段のみが残っています。

4人での記念撮影
ガイドさんに「撮ってあげましょう」と言われ、貴重な四人の集合写真、左から二番目が私。

エッグタルト
天主堂跡から下るとガイドが勧めるエッグタルトのお店がありました。そのエッグタルト、作りたては暖かく美味しい。しかし一つ食べれば充分な濃厚な味でした。4人分を買うために順番を待つ出雲康雅氏と長島茂氏です。

ビーフジャーキー
エッグタルトを食べながら、周りのお店を見るとビーフジャーキーを売る店も多く、その種類も豊富です。

聖ドミニコ教会の中
外の喧噪が嘘のように中は静粛な雰囲気でした。

聖ドミニコ広場にて
「撮りますよ!」に笑顔で応える面々。左から出雲康雅氏 長島 茂氏 粟谷能夫氏。

カジノ
高所恐怖症の多い我々メンバーは、ツアーコースのマカオタワーをキャンセルして、直ぐにザ・サンズカジノにて楽しむことにしました。スロットマシン、ルーレット、ブラックジャック、バカラなどいろいろありましたが、私は言葉が通じないため出来ずに、ただ見るだけ、終始、歌やダンスのショーを見るだけとなりました。

トラム
三日目は香港島見物。島内の交通機関はバス、タクシーにトラム(路面電車)。すべてを経験しようと、まずはトラムから乗車、のんびり下町を走る路面電車は情緒があって楽しいものでした。

トラムの二階席からの車窓
乗車すると直ぐに狭い階段があり二階へ。電車内はあまり広くはないですが、空いていたので快適でした。但しラッシュ時は渋滞して、歩くよりノロノロ運転になるらしい。

中環(セントラル)にあるピークトラムへの標識
中環でトラムを降りてピークトラム(山頂電車)の山麓駅に行きたいという時は、このような標識が頼り。これを見つけ無事山麓駅へ到着出来ました。

ビクトリア・ピーク山頂にて
ピークトラムはかなりの急勾配を登ります。混んで座れず立っていましたが、手すりにつかまっていないと立てないほどの傾斜です。遂に標高373メートルの山頂!に到着。生憎小雨模様でしたが、眼下には、写真で見る高層ビル群が見られました。

高所恐怖症の二人
「もっと下がって、後ろ、もっと」と撮影しましたが、笑顔の下に恐怖心があるようです。

美人の外人さんと
山頂から山頂駅まではエスカレーターを何度も乗り換えます。下りエスカレーターでの撮影ですが、偶然、我々全員が見とれていたモデルさんのような長身の綺麗な女性が写っていました。

山頂駅にてピークトラム
年末のためか山頂電車はたいへんな混雑で長蛇の列、登りは乗車までに40分ほど待ちました。下りは一本待つだけでしたが、ホームはやはり人で溢れています。
京都錦秋投稿日:2008-12-16

平成20年11月、京都にて紅葉見物と謡蹟を訪ねる旅をしてきました。
朝8時、京都市内からタクシーに乗車し高尾三山を目指します。運転手さんに紅葉の具合を聞くと「今年はぬくいから、紅葉は遅いですわ、まだまだですな~」と言われましたが、予定通り、神護寺、西明寺、高山寺、そして特別拝観している寺を廻り、『経政』ゆかりの寺、仁和寺は金堂と観音堂を訪ねました。さらに時間に余裕があったので、金戒光明寺の阿弥陀堂にて恵心僧都作の阿弥陀如来を拝み、熊谷直実と平敦盛の供養塔などを拝んで、最後は六角堂で230年ぶりの秘仏の御開帳を見てきました。
では、今回は写真のメモを重視して展開します。

神護寺に掛かる橋の下を流れるのは『蝉丸』の道行でお馴染みの清滝川。
「里人も咎むなよ、狂女なれど心は清滝川と知るべし」と謡われています。
11月中旬、山の方はすでに錦秋の世界でした。

高尾三山は、京都市内、出来れば妙心寺辺りにお泊まりいただいて、朝早く出かけるとよろしいですよ!」と元お弟子の臨済宗妙心寺派の松下宗伯氏に言われたのを思いだし、朝一番を目指しました。まさにその通り、静かでひんやりとした朝の神護寺は最高でした。神護寺は長い長い階段を幾段も上るので、ご高齢の方には苦しいですが・・・。
私も次回は平気で上れるかな?と思いつつ。しかし、写真の門が見え始めると疲れもいっぺんに吹っ飛んでしまいます。この門をくぐると内は落ち着いた雰囲気が待ち受けています。

本堂の裏に厄除けの土器投げがあります。一組二枚で100円、どれくい飛ぶか試してみましたが、意外と飛ばすのがむずかしく、厄除けになったのか少し心配です。

朝の本堂の庭を掃くお坊様のお姿がとても紅葉と似合っていて思わずシャッターを切りました。

神護寺から近い西明寺はそれほど広くはありませんが、ひっそりとした佇まいが良い感じでした。

西明寺の灯籠。苔の帽子を被っているようです。

高山寺といえば、鳥獣戯画ですが、謡曲の『春日龍神』に登場する明恵上人ゆかりのお寺です。

明恵上人の御廟。上人は春日の神に入唐を止められます。

開山堂は本堂の手前、石水院から少し上がったところにあります。

高山寺から降りたところ、「とがの屋」にて紅葉の清滝川を見ながら昼食。
松茸うどん(¥1500)は松茸が厚く4枚も入っていて、美味しい!

平成20年の仁和寺の特別拝観は金堂と観音堂でした。観音堂の背景の紅葉が美しい。

仁和寺にある謡蹟保存会の立て札は金堂に向かう途中右側にあります。

金戒光明寺は黒谷と言われる浄土宗の大本山。『西行桜』に「上なる黒谷、下河原昔遍昭僧正の」と謡われます。御影堂の横には、敦盛を討った熊谷次郎直実が出家を決め、ここで鎧を掛けたと言われる「鎧掛けの松」があります。

法然上人の御廟堂に向かい、右側に熊谷次郎直実の供養塔、左側に敦盛卿の供養塔が向かい合ってありました。これが直実の供養塔。

こちらが敦盛の供養塔。

熊谷堂。熊谷次郎直実が法然上人の弟子となり、出家し蓮生と改名して隠棲したところです。

六角堂の秘仏公開は230年ぶりです。夕方4時半に到着したので時間が遅く、間近では拝見出来なかったので、遠くからの撮影です。
紅葉の箕面大滝投稿日:2008-12-16

能『烏頭』(他流は『善知鳥』)に「和田の笠松や箕面の瀧つ浪も我が袖も・・」と謡われています。昔から、和田の笠松と箕面の滝は摂津の国の名所として知られていたようです。『烏頭』ではワキの僧がシテの漁師の蓑と笠を手向けることから、蓑と笠への掛け言葉で謡われるだけで、直接この滝が能『烏頭』の場面と関係あるわけではありませんが、謡に出てくるので謡蹟めぐりとして訪ねてみました。今回は紅葉の時期でもあり、格別に「箕面大滝」を満喫してきました。では写真で、ご案内いたします。

阪急石橋線の石橋駅で箕面線に乗り換え、終点箕面駅で下車します。改札口を出て北へ徒歩5分で箕面公園の入り口に着きます。箕面駅から滝まではおよそ徒歩50分程度です。

駅前の滝道に入ると右も左もお土産屋が並んでいます。
ちょうど秋で紅葉のてんぷらを揚げていたので撮影しました。焼き栗も有名です。

お土産屋と箕面観光ホテルを過ぎ10分程で夫婦橋です。この辺りから紅葉が見られました。

観音堂は2002年に、役行者1300年ご遠忌を記念して再建されました。
堂内の如意輪観音は、平安時代の作で重要文化財に指定されています。

瀧安寺は白雉元年、役行者が山林修業の道場として開き、箕面寺と称しましたが、
元弘2年護良親王の令旨に応じて、瀧安寺の名を賜り、以後、この名前になっています。
もとは大滝の直下にありましたが、慶長元年の大地震で全壊し現在地に移りました。

紅葉に映える本堂、弁財天をご本尊としています。瀧安寺の弁財天は竹生島、江ノ島、厳島とともに四弁財天の一として知られ、60年に一度開帳されます。

瀧安寺霊園の紅葉が綺麗なので、シャッターを押したら・・・、ほら、この通り。

唐人戻岩は駅から徒歩40分ほどのところにあります。昔中国の唐使が滝の評判を聞いて駕籠でこの巨岩のあたりまで来たが、山道の険しいのに驚いて立ち帰ったという伝説の岩。ここを過ぎたら滝まではあと少しです。

戻岩の近くにかかる戻岩橋を過ぎると、左に渓流が見え、少し登ると、滝が見えてきます。

紅葉の滝はさすがに圧巻でした。滝の形が箕に似ているので箕面滝と呼ばれています。

滝の近くには椅子があり、滝を見ながら食事をしたり休んだりと見物人が多くいましたが、これぐらいはまだ普通で、ピーク時は滝道が人で埋まるほどと言われています。
実はこの滝は道路拡張に伴い、水流を変えてしまったので、今は、水を人工的にポンプで汲み上げているようです。何となく、現実を知ると夢が醒めますね。

滝の下で昼食を食べるカップル。この二人、タイガースのファン?それとも尻に敷いているからアンチ・タイガースかな?
帰路は下り坂となりますので、幾分楽です。40分程度で箕面駅に到着しました。箕面大滝に行かれる時は、是非、紅葉の時期をお薦めします。
播磨路の旅投稿日:2008-10-16

平成20年の「菊生会・明生会合同ゆかた会」は塩田温泉の夢の井ホテルで開催され、
前日(7月3日)に須磨・明石などの謡蹟を尋ねてきました。
午前11時に山陽新幹線・新神戸駅に下車し観光案内所にて現地に詳しい個人タクシーの森さんを紹介してもらい、評判通りの名ガイドぶりで、一日親切に細かく案内して下さいました。
まずは、『松風』ゆかりの「松風・村雨堂」からはじまり、『敦盛』の「須磨寺」「敦盛塚五輪塔」、『千寿』の「重衡捕らわれの地」、『絃上』の「村上帝神社」、『忠度』では「一ノ谷戦いの浜」「忠度塚」「腕塚神社」。明石天文科学館の裏にある『草紙洗小町』で謡われる柿本人麿から「柿本神社」そして小野まで足を伸ばして謡蹟とは関係ありませんが、美仏で有名な「浄土寺」を拝観してきました。
6日は菊生会・明生会の会員と共に、書寫山・円教寺と姫路城を観光して、今回のゆかた会の旅行を終えました。
それでは森さんのお話も含めて写真でご紹介します。

松風・村雨堂、
山陽電鉄沿いにありますが、三代目の衣掛けの松は枯れてお堂に祭られています。

謡蹟保存会の立て札

在原行平のお世話をしたのは、須磨の浦の長の娘、「もしお」と「こふじ」でしたが、
姉の松風こと「もしお」は妊娠し子を産んでいます。その末裔が現在も在原性を名乗られているとか・・・。

青葉の笛
須磨寺は古い簡素なお寺を想像していましたら、今はよく整備された現代的なお寺でした。阪神大地震の時に被害を受けたようですが、綺麗に整備されています。
展示室にはいろいろと寺にゆかりの品が展示されています。青葉笛もありましたが、森さんの話では、専門家が調べたら??どうもあやしい??とか。
一応記念に撮影しました。

須磨寺にある敦盛塚
本堂から左に少し歩くと右側にあり、保存会の看板は隣に立っています

保存会の立て看板

敦盛首洗いの池

重衡捕らわれの地 山陽電鉄「須磨寺駅」駅前にあります。

村上帝神社 山陽電鉄沿いにある。

看板

戦いの浜
忠度の陣地と言われています、目の前は道路が走り奥には海が見えます。
一ノ谷の合戦時、平家は海上に赤旗をさした舟を浮かめて・・・
とは想像しにくい風景でした。

敦盛塚五輪搭
こちらは須磨寺よりも大きく立派です。
戦いの浜の近くにありました。

明石の忠度塚、
忠度の謡蹟は多くありますが、ここもその一つ。

腕塚神社への道
この標識がある国道より中に入ると小道があり、右折すると左手にあります。

腕塚神社
地元の方に守られている小さな祠の神社です。

腕神社 右腕でこすると御利益が??」あるというので早速、試してみました。

柿本神社
明石天文科学館の裏手に柿本神社はありますが、島根県益田にも柿本神社はあります。

明石東経135度

明石海峡をフェリーが通る
大阪湾と播磨灘とを分かつ淡路島北方の海峡です

浄土寺
ひっそりとした場所に阿弥陀様三体がいらっしゃいます。是非一度行かれるといいところですが、お寺、仏像に興味の無い方にはお薦めしません、なにしろ交通の便はあまりよろしくありませんので・・・。

西日があたる夕方、4時半ごろからがいいですよ!との檀家様のお言葉でしたが時間がなく、4時に渋々退出しました。ここはご住職がお一人でお忙しいので檀家さんが交代でお寺の管理をなさっています、今回朱印帳に書いて下さいました檀家さんです。
この時は我々だけ、今日一番のよいところでした。

書寫山円教寺にある弁慶のお手玉
こんな大きな石でお手玉が出来る訳がないのですが・・・

摩耶堂
トム・クルーズ主演「ラスト・サムライ」など最近は映画の撮影場所としても有名になっています。

常行堂
阿弥陀仏の名を唱えながら本尊の周りを回る修行の場所です。
ここで梅若六郎氏が能を舞われています。

開山堂の力士像
軒下の四隅に左甚五郎作と伝えられる力士の彫刻がありますが、
そのうち西北隅の一つは、重さに耐えかねて逃げ出したと言われています。
実際は盗まれたのではないでしょか・・・

好古園
姫路城西御屋敷跡に庭園があります。
庭園レストラン「活水園」でお庭を眺めながらの昼食はお薦めです

姫路城
法隆寺と共に世界遺産に指定された、別名白鷺城
天守閣までの階段の数は相当なものでしたが、その展望はすばらしい景色でした。
しかし、私はもう上がることはないと思います。お城は外から眺めるのがよろしいかと思います。
奈良 一日ひとり旅投稿日:2008-10-16

平成20年10月2日、大倉会大阪公演を終えて大阪大学謡曲部の稽古まで一日時間が空いたので奈良へ出かけました。
下調べを一切せずにぶらりと、ひとり旅です。
大阪難波駅から近鉄奈良駅まで、急行に乗車し40分で到着、行基上人像の前からタクシーに乗り「法華寺まで!」と行き先を言うと即座に「新大宮で降りたほうがよかったですね」言われました。やはり下調べは必要です。出だしから無駄足となりました。
法華寺は光明皇后(聖武天皇の皇后)のお姿を映した、と言われている本尊・十一面観音立像が有名で特に光背が特殊で面白いお姿です。是非一度見たくて出向きましたが、日頃はお前立ちしか見られません。毎年10月25日~11月10日までが特別御開扉で本物が拝見出来ます。境内はきれいに整備され、光明皇后が民のためにと作られた浴室(からふろ)や井戸は庭園(有料)にあります。
法華寺のすぐ隣には海龍王寺があり、こちらも本尊は十一面観音菩薩です。
この寺は応仁の乱や慶長の地震のため壊滅的な打撃を受け、明治時代に入ると廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)の影響を受け多数の什器を失いました。いまもやや荒廃した感がありますが、それがまた古い歴史を感じさせてくれます。
佐保路三尊(法華寺、海龍王寺、不退寺)を見比べるために、何回か拝観している不退寺にもタクシーで5分程度なのでお参りしてきました。
ここは能『井筒』の在原業平ゆかりの寺です。業平寺とも呼ばれ、別名、南都花の古寺といわれるだけあって、本堂の周りには四季いろいろな花が咲きます。
本尊は聖観世音菩薩立像で、業平自身の作です。耳の上で結んだ大きなリボン(冠飾)が珍しい立像です。
奈良と言えば、東大寺の大仏様が思い浮かびますが、私のお気に入りは戒壇院の四天王、特に広目天のあの目が最高です。また実物が見たくなり立ち寄ってしまいました。
移動中に聖武天皇南陵があり、一時下車して撮影兼お参りをしてきました。
戒壇院の四天王は東大寺内の中門堂から移されたもので、戒壇院にはじめから設置されていた銅造のものは・・・今はありません、とガイドさんの説明でした。
奈良で写真家といえば入江泰吉です。その記念館があることを思い出し、急遽計画を変更して見学に向かいました。
戒壇院からすぐ下におりたところで、運転手さんが「ここがご自宅です」と車を止めて案内して下さり、カシャと一枚撮影。ひっそりと古風な趣のお家でした。
入江泰吉記念奈良市写真美術館の前で車を降りたら、残念! 展示会準備のため休館となっていました。事前に電話しておけば・・・・と、またまた反省。
では次は、今回の謡蹟めぐりです。
21年喜多流自主公演で『雲雀山』を勤めますので、その謡蹟を訪ねてきました。
高林寺(奈良市井上町32)の門碑に「中将姫修道霊場、豊成卿古墳之地」とあります。
高林寺は奈良時代、藤原右大臣豊成卿の屋敷跡に建てられた寺です。
豊成の姫のお一人が中将姫です。この地で誕生し、17歳にて世の無常を悟り出家して当麻寺へ入られるまで、この館で修道に励まれました。その旧跡です。
生憎、豊成・中将姫父子の木像は拝見出来ませんでしたが、豊成卿古墳は本堂の前にあり拝見出来ました。ご覧になりたい方は予め電話しておくことをお薦めします。
場X0742-22-0678 ご住職は稲葉慶信様です。
道一本となり筋に誕生寺と徳融寺(とくゆうじ)があります。
誕生寺は中将姫産井があるのですが、こちらは今回お留守のため拝見出来ませんでした。斜め向かいにある徳融寺には本堂左手に立派な豊成廟(右)その左隣には中将姫の墓があります。
近鉄奈良駅に戻り、時間がまだあったので、西大寺に向かいました。
西大寺は奈良から二駅目、下車すると秋篠寺の字が目に入り、タクシーに「秋篠寺まではおいくら?」と聞くと、「¥740ですわ」と即答。折角ここまで来たのだから・・・伎芸天を見なくてはと思い、直ぐに乗車、秋篠寺に向かいました。
タクシーで7,8分で秋篠寺です。ここは朱印をしないのが残念です。
ここにしかない伎芸天はほんとうに美しいです。
本来のお姿は女性ではないと言われていますが、私はどうしても女性を想像してしまいます。芸能の神といわれているので懇ろにお参りしてきました。
拝観を終えると本日の最終目的地、西大寺の「謡曲百萬の柳」を見て幕を下ろすことにしました。
西大寺駅より徒歩3分の近場にありながら、道が狭いため観光バスが入れず、東の東大寺に対して西の西大寺のはずですが、いまひとつにぎやかさがなく寂しい感がします。これはこれでかえって雰囲気がありよいところです。
本堂のご本尊は釈迦如来ですが、四王堂には巨大な十一面観音立像もあります。
四王堂の前に池があり、『百萬』で謡われる「西の大寺の柳陰、緑子の・・・」の柳が今もあります。百萬はこの池の影に我が子を思い、奈良坂を下りて西大寺、そして清涼寺まで歩いていかれたのです。
では、写真でご紹介します。

法華寺本堂
境内は綺麗に整備されています。庭園は別料金ですが、是非ご覧下さい。

海龍王寺境内
芭蕉葉は『井筒』に「松風や芭蕉葉の夢も破れて・・・」と謡われます。

佐保路のポスターより
左が法華寺、右が海龍王寺の十一面観音、是非本物をご覧下さい。

不退寺
花に埋もれるように見える不退寺、業平寺ともいわれています。

聖武天皇南陵
綺麗に整備されゴミ一つ落ちていません。

写真家入江泰吉氏の表札

高林寺の石碑
『雲雀山』の謡蹟です。

高林寺境内にある豊成卿古墳(手前)
ご住職は女性でした。

誕生寺
産井がありますが、生憎見られませんでした。

徳融寺
中将姫と豊成卿の墓があります。

豊成卿の墓

中将姫の墓

秋篠寺の敷地に石塔があり苔が綺麗でしたので撮影しました。

百萬の柳
西大寺境内にある柳の下には池があります。
神戸近郊と三井寺、清涼寺投稿日:2008-02-16

神戸近郊と三井寺、清涼寺
平成19年7月7日と8日は全国菊生会・明生会合同ゆかた会が琵琶湖畔「琵琶湖グランドホテル京近江」で催されました。
前日の6日(金)には神戸近郊の謡蹟めぐりを、そして月曜日は社中の皆様と三井寺と清涼寺にお参りしてきました。
山陽本線の新長田(しんながた)駅で下車し、タクシーを利用して「清盛塚」「忠度腕塚」「胴塚(首塚)」、阪神淡路大震災と道路拡張で離散された、「平知章の碑」や「平通盛、木村源吾重章、猪俣小平六の石碑」を探し、鵯越墓園にある「義経駒つなぎの松跡」「蛙岩」を見つけ、山を下り願成寺にて「平通盛と小宰相の墓」にお参りして、JRで三宮駅まで移動し昼食をとり、駅から徒歩5分ほどの生田神社にも行ってきました。神社では「箙の梅の碑」と「梶原景季の井戸」と「生田の森」を眺めて、前半の神戸近郊の謡蹟めぐりを終了しました。翌日からの全国菊生会・明生会合同ゆかた会の会場となる「琵琶湖グランドホテル別館京近江」に向かい、会の準備をして、9日は三井寺と清涼寺を貸切バスで社中の皆様と楽しく謡蹟めぐりをして参りました。
では写真でご紹介します。(平成19年現在)

清盛塚
清盛塚は兵庫駅から車で7,8分ほど、高さ10メートルほどの十三の塔は北条貞時が清盛を弔うために建立したといわれています。神戸市兵庫区切戸町1-3

清盛塚の案内板
清盛塚も琵琶塚も以前は違う場所にありましたが現在の場所に移動しました。

琵琶塚
清盛塚の裏には琵琶塚があります。

琵琶塚の説明

平忠度の腕塚への案内
この案内碑は人家の片隅にあるのを見つけました。
長田区駒ヶ林町4丁目5番地

腕塚堂
漁業組合左横から入る道を少し進むと右上に腕塚堂とあります。

平忠度塚の灯籠
小さな灯籠ですが立派でした。

忠度の石碑
阪神大震災時には相当な被害を受けたようですが、現在は地元の方のご尽力により、狭いながらもきちんと復興されています。

堂内
中央に薩摩の守忠度と、左には忠度の部下、平家兵士と書かれている位牌がありました。

忠度胴塚
胴塚の所在が判らなくタクシーの運転手さんにお聞きして「このあたりでしょう」と案内されたら、ずばり!すぐに発見出来ました。右側の植木があるところが胴塚です。

胴塚
小さな看板で見落としてしまいます。

阪神淡路大震災で一度崩壊破損してしまいましたが、今は修復し元通りになりましたが、接着の跡は残りました。

忠度の系図
忠度は忠盛の五男。清盛とは腹違いですが、文武両道の達人です。能『忠度』のシテ謡は強吟と和吟の繰り返しでむずかしい謡いですが、文と武を表しているといわれています。

源平勇士の墓
平知章の墓、平通盛の墓、木村源吾重章の墓、猪俣小平六の墓が一個所に集められました。以前はそれぞれ別の場所に点在していましたが、震災後ここに再興されました。
村野高校グランド西側

猪俣、木村、通盛の墓(左より)
通盛と重章は差し違えて死にますが、死後も隣同士に葬られています。

案内板
石碑の経緯がここに記されています。

史跡、鵯越の案内碑
鵯越霊園の前の道路に建てられていますが、見落とすほどの大きさです。

神戸鉄道、鵯越駅
名所案内板が駅に飾られていましたので、それを頼りに駒つなぎの松、蛙岩などを探索しました。

高尾地蔵尊
霊園の山頂付近にある高尾不動尊の奥に、義経駒つなぎの松がありました。

駒つなぎの松跡
義経が鵯越を通過したときに、戦勝祈願で高尾不動にお参りし、そのときに馬をつなぎ留めた松が以前はありましたが、現在は朽ちてその跡だけがありました。

朽ちた松を見る筆者粟谷明生
無惨にも幹がすこしあるだけでした。

蛙岩、
一説にはここから山を下ったとありますが、平家方が陣をはっていたのは須磨一ノ谷ですから、ここからというのは信憑性が薄いと思われます。新緑地区

願成寺
平通盛と小宰相の墓があります。

通盛と小宰相の墓
左から住蓮上人、小宰相、通盛の墓。住蓮上人は鳴門の海に小宰相と共に入水した乳母、呉羽の義兄で願成寺の中興の祖といわれている。以前は上人の左側に呉羽の墓もあったが、地震で今は無くなっていてさびしい限りだ。

石碑「箙の梅」と謡蹟保存会の看板
生田神社通用門、左の駐車場前には箙の梅の石碑があります。
以前は道路際にあったようですが、一段高いところに安置されています。生田神社境内

箙の梅
草が生えて梅の字が読みにくいですが、確かに梅と書かれています。梅は石碑の左にあります。

生田神社山門
女優藤原紀香・お笑い芸人陣内孝則の結婚式場となり有名になった生田神社ですが、式のあった19年5月は参拝客が殺到したとのことです。

生田の森
神社の裏手が生田の森と呼ばれていますが、案内石碑も震災で破損、修理した跡が12年前(平成7年1月)を思い起こさせます。

矢を作った竹、武家の家には必ずこの竹を植えていたと言われています。

三勝修羅のひとつ『箙』のシテは梶原平三景季、箙に梅をさして戦った風流心を持つ武人です。

梶原の井
通用門右手にひっそりとあるので、見落としてしまいそうです。
源平生田の森の合戦の折、梶原景時がこの井戸水を掬んで生田の神に武運を祈ったと伝えられている。別説では景季がこの水を掬った時、箙の梅の花影が映ったともいわれている。

三井寺の仁王門
この門は徳川家康により甲賀常楽寺より寄進された。ここより境内全部廻ると3~40分かかる。境内は広く階段も多いので、ご高齢の方や、足腰に自信のない会員はバスで待機されることになりました。参拝には丈夫な身体と健康が必須のようです。

鐘楼
日本の三銘鐘は宇治平等院、高尾神護寺と近江八景「三井晩鐘」で知られる園城寺です。

閼伽井屋
天智、天武、持統天皇の産湯に用いられた霊泉から「御井(みい)の寺」三井寺と呼ばれるようになりました。

謡蹟保存会の立て札前にて
観音堂の観月舞台前に謡蹟保存会の立て札があり、ゆかた会参加者と記念撮影しました。

清涼寺本堂(釈迦堂)
広い境内は階段がなく高齢者には参拝しやすいお寺です。
本尊釈迦如来像は国宝。
本尊釈迦如来は釈迦37歳の生き姿を刻んだものといわれています。

昔お釈迦様が生母摩耶夫人に法を説くために忖利天(とうりてん)にのぼられたので、時の優填王(ゆうでんのう)は毘首竭摩(びしゅかつま)に命じて栴檀の香木で釈迦生身の尊像を作らせた。90日後、お釈迦様が戻られ、自分と寸分違わねこの像を見て「私亡き後この像が衆生を済度するだろう」と言われました。

清涼寺の謡蹟保存会の立て札
能『百萬』のクセはシテの母親が奈良坂から京都清涼寺まで子を尋ねる道行を舞い謡います。

謡蹟保存会の立て札
本堂前を左折、鐘楼と狂言堂の間にありました。

源融の墓
多宝塔と嵯峨天皇の宝塔の間に源融公の墓があります。立派で綺麗に整備されたお墓の前です。
『鵜飼』ゆかりの地を訪ねて投稿日:2008-01-16

平成19年12月27日(一泊二日)、明生会の有志四名と能『鵜飼』ゆかりの地、石和(いさわ)で謡蹟めぐりをし、一泊して温泉にも浸かり、楽しい一時を過ごしました。
石和温泉駅でジャンボタクシーを2時間借り切り、まず「鵜飼山・遠妙寺」、そして「法城山観音寺」から笛吹川を見ながら、「お硯水祖師堂」「岩落」などを廻り、それでも時間に余裕があったので、フルーツランドまで足を伸ばし、富士山を眺めて、ホテルに戻ってきました。今回は赤い風船の旅行プランを利用したため、宿泊費・交通費込でタクシー代金を支払っても一人二万円でおつりがあるほど、格安なお買い得プランだったことを付け加えておきます。
では写真でご紹介します。

石和温泉駅
石和温泉はJR中央本線新宿駅から特急「あずさ」で1時間半という近距離にある温泉地です。
駅前は工事中でした。近いうちに整備された綺麗な駅前になると思います。

鵜飼山 遠妙寺山門
石和温泉駅からタクシーで4、5分にある鵜飼山・遠妙寺(おんみょうじ)。
日蓮上人が弟子の日朗と日向と当地を廻ったとき、鵜使いの翁の霊に出会い、その霊を弔うために鵜飼堂を建て、その後に遠妙寺が建立されたといわれています。

仁王門
山門から仁王門、そして本堂が一直線上にあります。

遠妙寺の由来

漁翁堂
境内の本堂に向かい、左手に鵜飼勘作の墓があります。

謡曲保存会の立て札
謡蹟めぐりには欠かせない立て札。これを見つけると謡蹟めぐりをした実感が湧いてきます。

一字一石の供養塔
日蓮上人は法華経の一巻八部、六万九千三百八十文字を小石に一字ずつ書き、川に沈め
供養をしました。供養塔は本堂に向かい、左手の石像大黒天の裏にあります。

笛吹川に掛かる万年橋
現在の笛吹川は昔、鵜飼川、石和川と呼ばれていました。
上流にダムが出来る前は水量がもっと豊富だったとは、タクシーの運転手さんの弁。

御硯水祖師堂
万年橋近くに、日蓮上人が漁翁の霊を弔うために経を書き続けた祖師堂があります

御硯水(おすすりみず)の解説

井戸
祖師堂には日蓮上人の錫杖によって湧き出たとされている井戸があります。

井戸近影
もとは川近くにあったものが川の氾濫で移動されたようです。

岩落の場所を確認する、明生会会員と石和タクシーの運転手さん
御硯水祖師堂の説明文の中に「現在地東方百メートルの地に相生の老杉あり。その西側鵜飼川の本流に岩石そばたち水が衝いて瀧の如くに落ちたので岩落と称した」と説明があったので、岩落の場所を探しました。

相生の杉
祖師堂から万年橋を渡り右折して対岸の中央園芸社に相生の杉があることが判り、敷地に入れてもらい老杉を発見。この近くに岩落があったと言われています。

岩落と思われる場所
昔の面影はありませんが、たぶんこのあたりだろう、と撮影しました。

鵜飼勘作の石像
万年橋と笛吹橋の間の川端に鵜飼勘作の石像がありました。なんとなく鵜之段を舞っているように思われたので・・・・・

鵜之段の一部
真似してみました!
『満仲』ゆかりの地を訪ねて投稿日:2007-11-16

謡曲『満仲』ゆかりの謡蹟めぐりをしてきました。
能『満仲』の物語を簡単に紹介します。
源氏の祖、多田満仲は仏心篤く、我が子美女丸を僧侶にすべく中山寺に預けますが、武門の血筋を引く美女丸は僧侶になることを嫌い、ひたすら武芸に明け暮れています。父満仲は怒り、重臣藤原仲光に美女丸を手討にするように命じます。しかし若君に刃を向けることが出来ない仲光は我が子の幸寿丸を身代わりに殺し美女丸を叡山に逃がします。
仲光は偽りの美女丸の最期を満仲に伝え、自らは暇を願い出ます。そこに比叡山の恵心僧都が美女丸を連れて満仲に面会に来ます。満仲は幸寿丸を殺しながら、生き永らえている美女丸を強く叱り自ら手討にしようとしますが、恵心に諭され美女丸を許し、仲光もまた主君に仕えることになります。喜びの酒宴となり、仲光は舞を舞い、美女丸の仏道修行を励まし見送りますが、仲光の心の中には幸寿丸への思いが深く残るのでした・・・。
満仲公から義家公までが多田神社に祭られていますので、ここで御祭神の御事蹟を紹介しておきます。
源 満仲公(人皇56代清和天皇の御曾孫多田満仲は24歳で源姓を賜り源満仲と名乗る。86歳没)
源 頼光公(満仲長子。土蜘蛛退治、大江山、伊吹山鬼賊退治で武勲を立てる)
源 頼信公(満仲四男)
源 頼義公(頼信長子 前九年の役に武勲を立てる)
源 義家公(頼義長子 前九年の役、後三年の役に武勲を立てる)
美女丸は出家して源賢となりますが、満仲の五男ともまた四男という説もあります。
では、写真をご覧になりながら探訪をお楽しみ下さい。
(撮影 平成19年11月10日 粟谷明生)

阪急宝塚線、中山駅下車徒歩2分、駅前から門前町らしい賑やかな道を行くとすぐに中山寺(なかやまでら)山門です。

広大な敷地は昔からこの寺が繁栄していたことを想像させてくれます。
美女丸は最初にここに入山しましたが、経を読まずに武芸に没頭していたようです。

近年改築されて急な階段の横にはエスカレーターも設備され、お年寄りに配慮されています。食堂もハイカラで綺麗、思わず休憩したくなります。

阪急宝塚線、雲雀丘花屋敷駅下車阪急バスで15分ほど坂道を上がると満願寺停留所があります。下車し進行方向右手に満願寺があります。間違い易いのでこの立て札を探して下さい。

バス停留所から2分ほどで白壁造りの珍しい山門が見えます。
山門を過ぎ、参道を下ると本堂神秀山・満願寺本堂が見えます。

美女丸は出家して源賢僧都となりここに入山します。
満願寺は、満仲が摂津守となった時に、源氏の菩提寺となりました。

本堂左手奥に幸寿・美女・仲光の墓があります。

墓を近くで見るには狭く急な階段を6、7段上がらなければなりません。ご高齢の方は遠くからのお参りをお薦めします。

本堂右手奥に坂田金時公の墓があります。
源頼光は渡辺綱を召して上総の国に向かう途中、相模の国足柄山で幼名金太郎(坂田金時公)を見つけ主従の契りを結びます。金太郎の母が山姥だという説がありますが、私は能『山姥』とはどうしても結びつきません。

急宝塚線、川西能勢口駅で能勢電鉄に乗り換え多田駅下車、徒歩20分ほどで多田神社に着きます。今回は能勢口駅よりタクシーを使い、多田神社から小童寺を周りました。
猪名川を渡ると多田大権現と書かれた山門があり、そこにかかる源氏ゆかりの神社らしい笹りんどうの紋が象徴的です。

鳥居右手に宝物殿があり、源家の宝刀鬼切丸や昔をしのぶ甲冑が見たかったのですが、生憎閉館されていました。

小童寺は能勢電鉄、山下駅下車徒歩20分ほどですが辺鄙なところにあります。今回は多田神社から小童寺までは車を利用して10分ほどですみました。御参拝は車利用をお薦めします。
小童寺は川西市西畦野1-8、判りにくい場所です。急坂な石段を登るとお堂があります。

本堂は閉まっていて人もなく、左手には小童寺の縁起が書かれていました。

本堂裏手に幸寿丸を中心に右に美女丸、左に藤原仲光の墓があります。

幸寿丸の墓は今でも上に幸、右下に壽、その左に丸と刻まれているのが確認出来ます。

源頼光の四天王といわれた渡辺綱・ト部季武・坂田金時・平井保昌の墓(左から)があります。能楽師は「貞光、季武、綱、金時」と謡い馴れているため碓井貞光が眠っていないのが気になりますが、ここでは保昌が眠っています。保昌は『土蜘蛛』で独武者として登場したり『羅生門』では主脇連として登場します。

何故か、渡辺綱のみ四天王の左に別個に立派な墓がありました。
綱は『羅生門』に登場しますが、四天王の筆頭であったように思われます。

渡辺綱が筆頭と思われる理由の一つにこの小高い所にある御廟が大変立派だということがあります。一つのお寺に御廟とお墓があるのは神仏習合の名残でしょうか。
蟻通神社投稿日:2007-09-16

JR阪和線・長滝駅は各駅停車しか止まらず、夜遅くには駅員もいなくなる小さな駅です。その長滝駅を下車して徒歩10分ほどに蟻通神社があります。
天王寺駅から50分程で長滝駅に着き、駅員さんに「蟻通神社はどちらですか?」と聞くと徒歩12,3分と答えてくれましたが、時間に余裕がなかったのでタクシーを呼ぶことにしました。見渡すと駅前にタクシー乗り場はなく、ご用命は泉陽タクシー(072-465-1451)の看板があるだけです。電話して待つこと5分、日根野駅からタクシーが来ました。運転手さんの話では特急も快速も停車する日根野駅でタクシーを利用した方が賢明だということでした。多分私は二度と行くことはないでしょうが、これからお尋ねになる方のために、日根野駅からタクシーのご利用をお薦めします。
能『蟻通』の物語は歌人・紀貫之が和歌の神を祭る玉津島神社へ参詣する途中、雨の夜に蟻通神社の前を神域と知らずに下馬せずに通り過ぎたため、蟻通明神の怒りにふれ馬は倒れ貫之は落馬します。そこに老人の宮守が現れ、社への無礼を警告し、貫之に和歌を詠じて神慮を慰めるように薦めます。貫之は「雨雲の立ち重なれる夜半なれば、ありとほしとも、思うべきかは」と詠むと倒れた馬は再び立ち上がり、宮守は和歌の六義や和歌の心について語ります。貫之は宮守に祝詞を所望し共に祈ります。
神代以来の歌道を讃たえ舞歌を奏上すると、遂に宮守は自ら蟻通明神と名乗り鳥居に近づいたかと思うと、消えてしまいます。貫之は神の出現を喜び夜が明けると再び旅立つのでした。

蟻通神社
現在の場所は第二次世界大戦中に陸軍飛行場建設のために移転させられたところですが、もともとは熊野街道沿いに鎮座していたようです。蟻通神社の名前の由来となった「蟻通伝説」には熊野詣や玉津島参詣の人々が多く蟻の行列のようだったと記されています。しかし今は全くその面影もなく、能の宮守が「神は宜禰が習わしとこそ申すに、宮守一人もなきことよ」と嘆くと同様、閑散としていました。

蟻通神社鳥居
能『蟻通』のシテは最後にこの鳥居に御幣をあて、後に投げ捨てて消えてしまいます。

能舞台
周りから四本柱を支えているほど老朽化していて橋掛はありませんでした。

能舞台と本殿
前に見えるのが橋掛りのない能舞台、その奥に本殿が見えます。

紀貫之冠の碑
鳥居の右奥の池の中に冠之碑があります。能では烏帽子を落とすことには触れませんが、碑には落馬して冠を落としたことが記されています。実際に落馬した場所はここではなく、熊野街道沿いですが、現在は池の中に碑が建っています。
あさば能舞台投稿日:2006-09-16

先日5/9、修善寺芸術紀行と題して、友枝昭世氏の『八島』が演じられました。
地謡は地頭、粟谷能夫・粟谷明生・谷大作・粟谷充雄・友枝雄人・粟谷浩之の6名でした。
天候も良く、ロケーションも最高のこの日の修善寺、あさば旅館の能舞台「月宮殿」を写真にてご紹介いたします。

近くを流れる桂川

近くの竹林は竹の子がたくさん

見所からの舞台(池にせり出すような舞台。見所は池を隔てて造られている)

地謡座から見る鏡板と橋掛かり

地謡座からの見所

舞台裏の楽屋への通路

幕間より舞台

舞台遠景 (夜は照明で舞台が浮かび上がるように見えます)

きれいな庭のツツジ
厳島神社投稿日:2006-09-16

御神能用にしつらえる能舞台
厳島神社の能舞台は普段は、舞台と橋掛りがあるだけです。ですから切戸口を開けるとそのまま海という具合で、まわりには何もない造りですが、桃花祭の御神能のときに限って、演能用にしつらえられます。
厳島神社ならではの廃止曲
『清経』と『絵馬』は、現在この舞台における廃止曲となっています。清経は平家の行く末をはかなんで、戦わずして自害しています。これは敵前逃亡に等しく、よくないということで廃止曲になったらしいです。しかし、平清盛公が厳島神社を加護した経緯からすれば、清経は清盛の長男の子で直系であることからも、もう少し大切に扱ってもよいのではと思うのですが・・。敵前逃亡という考え方は、戦時中の思考のように思われます。見方を変えれば、『清経』という曲は戦さの愚かさをみせてくれ、反戦歌にもなっているので、これまでの慣習にとらわれず、復曲してもよいのではないだろうか、と私達演者は思っています。
『絵馬』の方は、忠臣蔵、赤穂浪士で有名な浅野内匠頭(たくみのかみ)が江戸城内の松の廊下で吉良上野介(こうずけのすけ)に刃傷を負わせたという知らせが、江戸からの早かごで届いたときに、城中で『絵馬』をやっていたことから、縁起が悪いということになったらしいですが、これも厳島神社と浅野家との関係であって、廃曲にする必要性があるのかは、疑問です。

楽屋翁後見の写真・・ここが厳島神社能楽堂の楽屋です。後見が御神酒をつぐために三番三、千歳、お囃子方を待っているところです。(詳しくは「能夫翁姿」の写真の説明参照)。この翁の演能前後、楽屋は女人禁制となりますが、その後は女性も入れます。

渡り廊下の写真・・舞台の後ろに渡り廊下をつくり、楽屋と切戸口との連絡通路にします。地謡も後見も出演者は長裃をつけて、この狭い廊下を通ることになります。昔はこの敷き板が外れたりしたため、足を踏み外し海に落ちそうになったり、怪我をしたり、裃を板に引っかけて破ったりと大変でした。現在、全ての出演者が一日中、長裃をつけているのは私の記憶ではここだけではないでしょうか。

見所の写真・・普段は特別に見所というものはないので、舞台のまわりに板をはって、桟敷見所をつくります。何年か前に、桟敷を組んでいる所に見物人が大勢腰掛けたため、紐がゆるみ、下に落ちたことがありました。幸い引き潮でしたので、びしょぬれにはならないで済んだようですが、それからはかなり念入りに作られているようです。

大鼓用の小屋の写真・・大鼓の人用に、切戸口の裏に小さな小屋があります。これが大鼓方の楽屋です。大鼓は皮を焙じるために火を使用します。神社側が火事を警戒して、海に一番近い所に専用の楽屋を作りそこで焙じるということで、やや寂しい楽屋になっています。渡り廊下の写真の奥に出っ張って見えるのが、この小屋です。

橋掛りの角度の写真・・橋掛りが舞台に対して、後方にふれているのが特徴です。現在の能楽堂は舞台に対して90度~100度の開きで作られていますが、ここは135度程とかなり開いています。つまり、演者が「おまーく」と言い揚幕を上げると、目の前に、ワキ座がまっすぐに見えるほどの角度になっているということです。名乗り笛の時、笛の方は幕が上がると吹き出すのがきまりですが、ここでは笛の位置から幕は見えません。また一曲が終わり演者が幕に入ったら笛が正面を向いて立ち、地謡も立って退場するのが作法ですが、このときも笛の方は演者が幕に入ったかどうかが見えません。実際、皆困っていますが、勘をたよりにどうにか対応しているようです。
この写真で揚幕から脇座が一直線に見えることを体感して下さい。

橋掛りの板の写真・・舞台の板は本舞台縦板、後座横板、橋掛板の三種で組み合わされていますが、この舞台は、橋掛の板がそのまま本舞台の縦板のところまで続いています。従って、後座が長方形ではなく、橋掛りの板で一部が切られ変形しています。我々演者はこの舞台の仕組みを頭にしっかり入れておかないと、能を演じるときに場所の勘が狂ってたいへんなことが起きてしまうのです。普通は橋掛りの板目を足の裏で感じ、次に後座の横板を感じて正面へ向きを変え、さらに縦板との継ぎ目を感じ常座に進みますが、この舞台では橋掛りの板の上をまっすぐ歩んで行くと、そこは大小前という本舞台中央近くについてしまうのです。

笛柱の写真・・笛柱は普通、壁の角に填め込まれているため、地謡は切戸口を出ると、笛柱をよけるようにして舞台の方に回り込んで地謡座につきますが、ここでは、笛柱が一本独立して立っているため、笛柱と壁の間を抜けることができます。実は喜多流の十四世喜多六平太記念能楽堂の笛柱も同じつくりで、この舞台の笛柱を模したものと思われます。このような笛柱は東京では他に靖国神社の能舞台しか見られず、珍しい形なのです。

階(きざはし)の写真・・見所から本舞台にかける階がありません。この舞台の階は、潮が引いているときには使えますが、満ちてくると浮いてしまうために、今日では外されています。従って、舞台から落ちても階から上がってこれないことになります。(この階、現在は楽屋の天井に飾ってありました)。
舞台の土台の中央に横に線が見えるのは、ここまで潮が満ちてくることを示しています。

御祈祷の写真・・御神能は4月16日から3日間、翁付五番立(今は3日目のみ、翁付ではない)で行われます。御神能は神事なので、太夫は本殿で御祈祷を受けてから楽屋に入り装束をつけます。優雅で厳粛な雰囲気があります。
この写真は平成7年の粟谷明生 披キの時のものです。前列左は執事の出雲康雅氏です。

能夫の翁姿の写真・・装束をつけた後、翁飾り(段飾りになっていて、面箱やお神酒、お米、いりこなどが飾ってあります。正式には「饌米」「塩」「御酒」の三種だそうです)の前で、お神酒をいただきます。翁飾りのところに後見が待っていて、順番に太夫、三番三、千歳の役者、囃子方、地謡などにお神酒をつぎます。平成13年は、翁太夫の粟谷能夫が最初にいただきました。どこでも『翁』の前には同じような作法があり、通常は後見が御神酒を持ち出演者たちについでまわる形ですが、ここ厳島では演者が翁飾りの前に並び御神酒をいただきます。
善光寺に纏わる能投稿日:2006-09-16

先日の阪大喜多会戸隠での夏期合宿の帰路、長野に寄る時間がありましたので、善光寺へお参りがてら写真探訪してきました。
善光寺にゆかりのある能は、『土車』、『柏崎』、『山姥』、『道明寺』などがありますが、私が今までに勤めたことのあるものは、『柏崎』、『山姥』です。
『山姥』は善光寺へお参りにゆく百魔山姥(ひゃくまやまんば)という京の遊女が境川から上路超え(あげろごえ)の道を進むと真の山姥が現れるというお話で直接善光寺が関係してくるものではありません。
『柏崎』は、主人の死と息子の出家の知らせを受け、悲しみに打ちひしがれたシテが阿弥陀如来の慈悲を願い善光寺の如来堂を尋ねます。内陣に入ろうとすると住僧が「女人禁制」と制止するのを「仏が本当にそう仰っしゃるのか、ここは全ての人の往生極楽の門である」と逆に論破してしまう教養高い未亡人の善光寺信仰の話です。
本堂内陣の戒壇巡りは真っ暗なお堂の下を一廻りし、途中にある大きな鍵に触れると御利益があり極楽に行けるというものです。前回は不覚にも触れることが出来なかったので、今回は是非触れて御利益をの目的もありました。というわけで一応今回のお参りの成果は果たせました。

「牛に引かれて善光寺参り」で有名な善光寺は古くから宗派の別がなく、お朝事は一年を通し天台宗、浄土宗の順で行われています。寺の廻りには壁もなく、町と寺の境がないのも特徴です。

山門近くに佐藤継信、忠信の塚があります。 佐藤兄弟は源義経の家来で兄継信は八島の合戦に、弟の忠信は吉野にて義経の身代わりとして討死にしています。
能で佐藤兄弟に関連するものは、『八島』、『吉野静』、『二人静』、『摂待』などがあります。

この逆縁供養塔は兄弟の母梅唇尼が我が子の菩提を弔うため、信夫の里から山深い信濃の国まで旅をして善光寺に詣で建立したものです。
新城 富永神社能舞台投稿日:2006-09-16

愛知県新城市(しんしろし)には富永神社所有の能舞台があります。
新城市本町にお住まいの方々を中心に新城能楽社を結成し、毎年10月の第二金曜日を祭礼能として、長い伝統を引き継ぐ演能奉納をしてこられました。
私は月に一度稽古に伺っていますが、写真のように舞台が拝見できるのは、祭礼能の季節だけですので、今回の写真撮影と共に新城と粟谷家の繋がりをご紹介したいと思います。
<新城能楽社と粟谷家>
新城能楽社と粟谷家の繋がりは、祖父益二郎が当地に稽古に伺ったことから始まり、新太郎が引き継ぐ形となりました。その後は職分、長田 驍氏が指導にあたり、地元能楽社の方々の御研鑽のお力もあって、奉納能が長く伝承されて参りました。平成元年には、後継者育成の問題もあり、能楽社より祭礼能、及び新城薪能の指導をと再度新太郎に依頼があったため、新太郎の指示により、私、粟谷明生が伺うこととなりました。それ以来、月一度の稽古が始まり今日に至っています。
この舞台を拝見すると、私が子供の時(昭和45年7月14日:15歳)に行われた、奉納能を思い出します。
番組は 能、『三輪』(二段神楽)粟谷新太郎、『葵上』粟谷菊生、 舞囃子 『小袖曽我』 粟谷能夫 粟谷明生 でした。
私は、名古屋で主流の藤田流の笛で初めて男舞を舞ったのですが、初段オロシの拍子を踏むところが判りにくく、能夫と二人で踏みはずした苦い経験が思い出されます。
当時楽屋の裏に何故か鶏が沢山いまして、謡っていると「コケコッコー」と鳴くので「やかましい、邪魔するな」と謡ながら腹を立てていたことも思い出しました。今回久しぶりに参りまして、舞台裏に渡り廊下が出来、舞台も建物自体も修理され良くなって感心させられましたが、なにより驚いたのは、私を悩ましたあの鶏たちの多分子孫だろうと思われる何羽かに会えたことで、まったく懐かしく思いました。

JR豊橋駅より、飯田線に乗り30分ほどで、新城駅に着きます。駅舎に立ちますと、まず目に付くのが、天井高く飾られている「長篠合戦陣構え」の図です。

毎回、これを見ては、「新城に来たな」と思うほど、私には印象に残る図です。

富永神社能舞台の鏡松
日頃は引き戸で隠され中が見られませんが、祭礼の前後はこのように開放されます。

意外と長い橋掛り

二の松あたりより正面を望む

脇座より脇正面の桜の木を見る

能舞台全景

立派な能舞台屋根

後見座より正面を見る

脇正面より

今回の撮影にご参加頂いた、新城能楽社の方々
『女郎花』ゆかりの地を訪ねて投稿日:2006-09-16

平成13年11月8日、『女郎花』ゆかりの地、八幡市の石清水八幡宮、松花堂庭園を訪ねてみました。
京阪電車、八幡市駅下車、目の前に男山山上行きのケーブルがあります。
本来は40分程度徒歩にて、一の鳥居、二の鳥居、三の鳥居と参拝しながらが登るところに御利益もあるのでしょうが、今回は時間の都合上、登りはケーブル、下りは徒歩としました。

八幡市駅より待機する男山ケーブル
単線行き違い方式の運転で、途中に高さ50メートルの日本一の橋脚があります。
山上駅に着きますと、左手側に展望台がありました。早速行って見ると正面は高速道路建設中、右には淀の競馬場と昔を偲ぶ景色ではありませんでしたが、「鳩の峯越し来てみれば三千世界もよそならず」の言葉通り眺望はすばらしく、
淀川、木津川、山崎、天王山、遠くに京都も見えそうで感激しました。
『忠度』に「心の花か蘭菊の狐川より引き返し」とある狐川は、『謡跡めぐり京都編』(青木実著)によると、「淀川対岸の山崎に男山が迫り、流れが変幻極まりなく、狐川渡しの舟人は狐にたぶらかされているように感じるので、この地点だけを狐川と呼ぶようになった」とありますが、この当たりの風情をよく表していると思いました。
ただ後ろを振り向くと、汚い看板で「100万弗の展望」と銘うたれていて、少々興ざめでした。

100万弗の展望

参道途中にて

参道途中にある竹藪
男山は古来有名な竹の産地で、その種類もモウソウチク・マダケ・ハチクなど数多くあります。石清水八幡宮が平安王城の守護社として宮中と深く関係していたことから、かぐや姫伝説の発祥の地ともいわれています。

謡跡保存会の看板
石清水八幡宮にゆかりのある曲は、『女郎花』と『弓八幡』です。

石清水八幡宮
今回は平日でもあり人も少なく落ち着いて見られました。
只、妙に子供が多いなと思っていましたら、七五三でした。

三の鳥居より本殿を見る

三の鳥居の傍に神馬舎があり可愛い白馬がいました。

長い参道
参道は長くつづき、『女郎花』のシテの老人はよくここを登ったなと感心しながら下山しました。

参道途中の景色
「山下の人家軒を並べ」と謡う気分が判りました。真ん中に大谷川(放生川)が見えます。長い下り坂を降り、ようやく平地についたと思いふとみると、何故か『小鍛冶』にまつわる相槌神社の社がありましたので、思わずシャッターを切りました。

相槌神社
男山山麓には放生川が流れています、この川は大谷川というのですが、
八幡宮の目の前、放生会(ほうじょうえ・捕まえた生き物を放す行事)をするところのみのわずか十数メートルを放生川と呼ぶのだそうです。

安居橋の掛かる放生川
頼風と契りを結んだ京の女は、遙々ここ八幡市まで頼風を尋ね、頼風の心変わりと誤解して、世を儚んでこの川に投身しました。この川は昔より濁り江で、謡にも「和光の塵も濁江の河水に浮かむ鱗(うろぐす)は、げにも生けるを放つかとーー」とあり、決して綺麗とはいえません。京に不吉なことが起きる現象として3河川の話があります。「御手洗川に浪が立つ、五十鈴川が濁る、そして放生川が澄む」
これらのことが起きたら京に異変が起こるらしいです。この濁り江の放生川に身を投げたのですから、かわいそうな気がします。『放生川』という能がありますが喜多流では参考曲で、私は残念ながら
見たことはありません。

安居橋より男山を見る

頓宮
男山の麓、一の鳥居の傍にある頓宮は謡にも出てきます「神の御幸なる御旅所を伏し拝み」の御旅所、(仮の宮)のことだそうです。

頓宮
男山の麓、一の鳥居の傍にある頓宮は謡にも出てきます「神の御幸なる御旅所を伏し拝み」の御旅所、(仮の宮)のことだそうです。

立派な一の鳥居

石清水八幡宮のいわれ

高良神社(かわらじんじゃ)
頓宮の傍に高良神社があります。能『弓八幡』ゆかりの神社です。
仁和寺の法師が間違えて山上に本宮があるのを知らず、ここを参拝して帰ったそうです。
八幡宮を後にして頼風塚、そして女郎花塚のある松花堂庭園に向かいました。

頼風塚に入る、かどの石碑
頼風塚は地元のタクシーの方でも直ぐには判らず、無線で調べてもらいました。
頼風塚は和菓子屋の横の細い道を通り奥の狭い所にありました。

頼風塚
小さな五輪塔が寂しく感じられました。
女塚が立派な庭園にあるのに、この男塚は余りに貧相、頼風がかわいそうに
思えました。おもわず今回の演能の無事をお祈りしてしまいました。
頼風塚を見てから、松花堂庭園に向かいました。ここは本来男山の山中にあった松花堂昭乗の庵を戦後、麓に移し松花堂庭園とし、女郎花塚も一緒に庭園のなかに移されました。

松花堂庭園内 門の左に女郎花塚があります。

女郎花塚 男塚に比べると小高い所に立派に葬られていました。

新しい最近の石碑です。

正面が史跡松花堂です。
ここの庭はお薦めです。こぢんまりしていますが、最高の雰囲気です。
撮影禁止のため、ご紹介が出来ないのが残念ですが、皆様是非一度いらして下さい。それも平日に!です。これで「女郎花ゆかりの地を訪れて」は終了です。
この後、寺田屋、金札宮と、いろいろまわりましたが、楽しく面白い旅でした。
また企画し旅をしたいと思いました
熊野紀行投稿日:2006-09-16

平成14年5月1日から3日まで、明生会会員有志の皆様と熊野を探訪いたしました。
南紀白浜空港よりジャンボタクシーを調達、三日間貸切で走り回りました。初日は中辺路(なかへじ)より熊野大社本宮を経て新宮まで、二日目は新宮より那智の滝、阿弥陀寺などを廻り那智勝浦に宿泊、三日目は串本や白浜などの海岸線を走り南紀白浜空港へ戻るという行程でした。楽しく、実りある紀行を写真を添えご案内いたします。

清姫の墓
初日の天候は生憎の雨、白浜空港にて熊野第一タクシーの岡田さんの出迎えを受け、一路、熊野道、中辺路へ向かいました。先ず傍を流れる岩田川が見えてきました。この川は能『当麻』の道行に「帰り紀の路の関越えて、こや三熊野の岩田川、浪も散るなり朝日影」とでてきます。その畔に能、『道成寺』の清姫にゆかりの地がありますので、謡蹟めぐり隊の我々としてはまず清姫のお墓のお参りから始めました。安珍清姫物語で有名な清姫はここ真砂(まなご)に生まれ育ちました。

清姫が泳いだ岩田川
岩田川には幼い清姫が泳いだと伝えられている清姫淵や清姫の墓があります。また車で5分程走ると、清姫の菩提寺、福巌寺(別名、一願寺)があり、お参りしてきました。

清姫の菩提寺 福厳寺
いよいよ熊野古道です。昔は徒歩で二日かけて本宮にお参りしたようです。今でもハイカーはザックを背負い縦走しますが、謡蹟めぐり隊には時間と体力のことを考慮し、要所要所を車で廻るという効率的な探訪にしました。
古道には王子と呼ばれる休憩場が沢山あります。立派なお社や休み処があるところもあれば、今は荒れ果てて何もないところもあります。なぜ王子という名称がついたかの詳細は不明です。
能『鬼界島』の、成経、康頼の謡に
「我ら都に在りし時、熊野参詣三十三度の歩みをなさんと立願せしに、その半ばにも数足らでかかる遠流の身となれば所願も空しくはやなりぬ、せめてのことの余りにや、この島に三熊野を勧請申し、都よりの道中の九十九所の王子まで,悉く順礼の神路に幣を捧げつつ」とあります。
不信心者、俊寛が熊野や厳島信仰が薄かったのに対し、流された二人は、島に三熊野を勧請して幾つかの王子をこしらえ日夜参詣し、帰洛を神に祈っていたのです。

滝尻王子の石標

今回の第一番目の王子が滝尻王子、中辺路の古道の出発点です。

牛馬童子は中辺路のほぼ中間にあります。古道を歩いてきた人はこれを見て心が安らいだといいますが、ジャンボタクシーで走り廻っている謡蹟めぐり隊には、残念ながらその感動はなく、それよりもあまりの小ささに驚き、パンフレットなどにある写真が、まさにプロカメラマンの腕前によるのだと感心させられました。
像は高さ40センチほど、牛と馬の両方に跨る童子という珍しいものです。

岩間からでる野中の清水は日本名水百選にも選ばれたおいしい水。確かにおいしくいただきました。険しい峠越えに挑む参詣客はここで喉を潤したといいますが、私が飲んでいると、営業用に水を汲む人がポリタンクを山積みに持ち込んで列を作って待っていました。

中辺路の拠点で最も早く現れたのが近露王子といわれますが、今は社地のみが保存され石碑があるだけで寂しい所となりました。
湯の峰温泉を経て大斎原(おおゆのはら)に到着。ここは明治22年の大洪水があるまで熊野本宮大社の地でした。音無川と熊野川に挟まれた中州のような所ですが、当時の惨事の写真を見ると自然の破壊力の恐ろしさがよく判ります。12社殿のうち8社殿が損壊、被害を免れた上社の4社殿が現在地の高台に移築されました。

水が無かった音無川より熊野本宮大社の鳥居を見る

洪水を起こした熊野川

大斎原跡地

能『巻絹』のゆかりの地であることを教える謡蹟保存会の立て札

音無天神は大洪水で流失したので、今は左側の祠(ほこら)が残されているだけでした。

高さ約34メートル、笠木と呼ばれる最上部の幅42メートルの日本一の大鳥居。このあたりから天候が悪くなり、本宮到着時は一段と雨足が強くなって、お参りも手短にしてしまいましたが、宝物館には時間をかけ拝観し、能面など貴重なものを拝見しました。

本宮大社。左の社殿が証誠殿といわれる本殿です。
能『巻絹』にある 「証誠殿は阿弥陀如来」はここのことです。
本宮お参りの後、先に入湯予約をしておいた湯の峰温泉に戻り、つぼ湯につかりました。あいにく写真はありませんが、待つこと一時間、私と隊員一名が体験しました。この湯は小栗判官が湯治したことで有名ですが、一人又は二人がようやく入れるかという程の狭く小さい岩風呂です。「温泉と謡蹟」がモットーの我々には貴重な湯治体験でした。
つぼ湯を後に忠度出生の地を訪れました。熊野川を新宮に下る途中の宮井にその地の碑があります。忠度は清盛の腹違いの弟、文武両道に優れ、腕力強く、和歌も詠む粋人です。千載集に歌が選ばれましたが、読み人知らずと書かれたのが無念で、その執心を扱ったのが能『忠度』『俊成忠度』です。

忠度出生の地の石碑

昔は山側に忠度の小祠があったようですが、現在は国道沿いに移されました。

速玉大社と歴代天皇の御幸記録
熊野速玉大社の祭神はもともと神倉山に祭られていましたが、景行天皇の時代に現在地に遷座したといわれています。そのため神倉山を元宮、ここを新宮と呼ぶようになり、神倉山の地名が残ったようです。
神倉神社は山の中腹に鎮座するゴトビキ岩と呼ばれる巨岩がご神体です。ここにお参りするには、ほとんど垂直に近い絶壁の急斜面の登坂となり、隊員三名は無念の退却。はうように登りにくい急傾斜を上がると、連縄を張られた巨岩が現れ、その大きさに圧倒されました。またここからの展望はすばらしく、熊野灘や市街地の眺めが最高で、頑張って登ってきた甲斐があったと大満足、嬉しくなりました。

ゴトビキ岩に参る登り口の鳥居

ご神体の巨岩

まさに四つんばいになりながら上った斜面、後ろを振り返ると足元がすくむ。

下りで隊員一人が尻もちをついた、急階段。

神倉神社を後に那智の滝に向かいましたが、途中に政子が建てた頼朝供養塔に立ち寄りました。
頼朝は正治元年53歳にて没、死因は落馬と言われていますが、頼朝ほどの武将が落馬が原因で死んだとは信じられません。

能『鉢木』に「佐野のわたり雪の夕暮れ、かように詠みしは大和路や、三輪が崎なる佐野のわたり」とある、わたりはこの川(古くは狭野)にあったようです。このあたりより天候も回復してきて、那智の滝を見るには最高の天候となってきました。

那智の滝は本来四十八滝といわれる那智山に数多くある滝のうち、一の滝を那智滝と呼びます。初めて見ましたが日本一の大滝と称されるのにふさわしい大滝でした。
飛滝神社の奥にあるお滝拝所に行くと滝を間近に見られます。但し水しぶきが飛んでくるのを覚悟しなければなりません。
那智滝 一の滝の手前に御幣が立てられてあります。

那智の滝というと、この構図の写真が有名です。訪れるまでは滝の近くに赤い三重塔があると思っていましたが、実際はかなり離れていて、ポスターなどの写真は撮影技術で滝と塔が接近しているように見せているのが判りました。
那智山の那智スカイラインの終点に妙法山阿弥陀寺があります。ここの鐘は「妙法山の一つ鐘」といわれ、死者の霊は必ずここで鐘を一つ撞いてからあの世に旅立つといわれ、私は現世の安穏と先祖の弔いのため、生きているうちに一度撞いておきました。

阿弥陀寺

上人が火生三昧した地
下山途中で古道を歩くことにしました。有志三人快晴の中、滑る石段に注意しながら20分ほど歩いて下り、古道を満喫しました。

有名な大門坂付近

関跡より滝を眺める

二日目に時間の都合でお参り出来なかった補陀洛山寺にまずお参りしました。ここはインドから熊野灘に漂着した裸形上人が開祖の寺。現在は青厳渡寺の管理となり、ご住職はいらっしゃいませんが、管理人の方が日頃ご開帳していないご本尊 十一面千手千眼観世音を特別に見せて下さいました。
平成になり現在の補陀洛山寺に改修されましたが、それ以前は荒れ果てた寂しい寺だったといいます。
平成になり現在の補陀洛山寺に改修されましたが、それ以前は荒れ果てた寂しい寺だったといいます。

二日目に時間の都合でお参り出来なかった補陀洛山寺にまずお参りしました。ここはインドから熊野灘に漂着した裸形上人が開祖の寺。現在は青厳渡寺の管理となり、ご住職はいらっしゃいませんが、管理人の方が日頃ご開帳していないご本尊 十一面千手千眼観世音を特別に見せて下さいました。

補陀洛寺裏門

境内裏には平維盛、平時子供養塔があります

渡海船は屋形の周囲に四門、忌垣をめぐらし30日分の油と食料を携え、生きながら極楽浄土に旅立つ補陀洛渡海に作られた船です。

補陀洛寺をあとに橋杭岩、串本へと海岸線をめざします。
この紀行最後の見どころと思っていました橋杭岩です。ちょうど干潮時でしたので、奇岩の様子が見えて幸運でした。隊員も思いの外のすばらしい景色に歓喜していました。

橋杭岩は大小40もの岩が海にずらりと並ぶ不思議な所です。伝説では弘法大師と天邪気が串本から大島へ一夜のうちに橋を掛ける賭けをし、大師が次々と巨岩を海に投げ込み橋杭を作り出すので、負けるとあせった天邪気が鶏の鳴き声を真似て大師の手を止めさせたというお話で、以来今も橋杭だけが残っているのだといいます。

海金剛は大島の先端にあり、断崖絶壁と大小の切り立った奇岩の景勝地、朝鮮半島の海金剛に似た景観からこの名がついたといわれています。

大島から見る本州、タクシー岡田さんご推薦の景色

枯木灘海岸のすさみ(?)八景のひとつ、恋人岬。左右から浪がうち寄せるので有名です。
夕刻近くなり、白浜に到着、三段壁、円月島を見て空港に向かうこととなりました。三段壁には熊野水軍の船隠し洞窟もあり、源平合戦も屋島から壇ノ浦に移る頃、二百余艘の軍船に二千人もの猛将が乗り、ここから出陣したといわれています。地下へ高速エレベータで下ると荒波が洞窟の中まで打ち寄せる豪快な様子が見られます。

三段壁

地下にある熊野水軍の番所小屋です。鎧、兜を揃えていつでも出陣できるようにしていた様子が判ります。

今回最後の地、円月島は白浜のシンボル、中央にポッカリと洞穴が空いています。これを夕暮れに見て、るるぶご推薦の「ぎんちろ」で食事をして、南紀白浜空港に向かいました。

お世話になった熊野第一タクシーの岡田さんです。いろいろと詳しい案内をしてくださいました。三日目の奥様手作りのめはり寿司、ごちそうさまでした。わがままな私達にお付き合い頂き感謝しています。
竹生島参詣投稿日:2006-09-16

平成14年9月、広島花の会で『竹生島』を舞うにあたって、滋賀県近江の竹生島に参詣に行ってきました。
竹生島は能『竹生島』『経政』にゆかりある地で、この二曲を軸に探訪してきました。
能『竹生島』は醍醐天皇の臣下(ワキ)が四の宮、逢坂の関を越えて琵琶湖湖畔、志賀の里に着き、漁翁(シテ)の釣船に便船を願います。
ここで笑い話を一つ、『竹生島』の次第は「竹(たけ)に生まるる鶯の、竹に生まるる鶯の、竹生島(ちくぶしま)詣で急がん」ですが、ある人が最初に竹(たけ)を(ちく)と読んでしまった、聞いていた先生は怒りたかったが、まー返し(二回目)には気が付くだろうと黙っていた、しかしこの人、返しも(ちく)と謡ったから、さあーたいへん! 先生、怒り出し、怒鳴って「こらー、たけだーっ」と…するとこの人、竹生島(たけぶしま)詣で急がんと平気で謡ったとか…。
能『竹生島』に話を戻します。シテ(漁翁、実は龍神)とツレ(女人、実は弁財天)は釣船を浮かべ、浮き世の業を悲しみながらも、春の長閑な景色を眺め、湖畔から声の掛かるのに気付いて舟を寄せます。
ここのところを謡曲では
「真野の入り江の船呼ばひ、いざ漕ぎ寄せて言問わん」とありますので、志賀の里、真野あたりで乗船させたことになります。「所は湖の上…」からの謡では左に比良叡山を眺め、満開の桜の花であたかも雪が降っているようだといいますから、春爛漫長閑の極みで能『竹生島』の一番の聞かせ所です。
しかし、謡の言葉通り櫓で漕ぐ舟では志賀から竹生島は余りに遠く、現実には無理です。フェリーの船長さんにお話をお聞きしたところ、昔、竹生島北側の半島から櫓を漕ぐ舟で、一時間もあれば着くことが可能な航路があり、当時は風を利用して行き来していたということです。
このフェリー会社も実はそこが起こりと仰ってましたので、航路としてはこちらが本当らしいですが、今は謡ならではの航路と思われます。
つまらない、くだらないの前評判でしたが、私自身はいろいろ勉強になり楽しい一日となりました。
皆様も一度は、御足の丈夫なうちに行かれると良いと思います。

長浜港より12時15分の乗船予定が、不手際により長浜港に着いたとき、丁度船が出発したところでした。港の方に「次の竹生島行きは何時ですか?」と聞けば返ってきた言葉が「あれが本日の最終便」。目の前真っ暗になりましたが彦根港より竹生島行きの船があることがわかりタクシーを飛ばして彦根港へ急ぎました。ちょうど30分前に到着出来、出航まで他の客を待ちました。しかし待てども客は一人も来ない。驚くことに我等一行のみの乗船で完全貸し切り状態。照れくさいようでもありましたが、気分は爽快でした。

能『竹生島』の謡に「月海上に浮かんでは兎も浪を走るか…」とありますが、私の見た物は海鵜の小鮎を狙う大群で、船が近づいても驚きもせず海面を漁っている姿でした。

竹生島までは彦根港より35分、長浜港よりは25分で着きます。都久夫須麻(つくぶすま)神社が見えてきました。

能『竹生島』では「舟が着いて侯、御上り侯へ」となりますが、このフェリー桟橋には防波堤が無いため、この橋桁がかからなくなる波の高さ、1.5メートルを越すと欠航になるようです。実際翌日は台風の接近もあり欠航でしたので、上陸出来た喜びもひとしお、幸運でした。

港からの全景です。とにかく、坂、坂の急勾配ですので、足の不自由な方、お年寄りには、骨が折れ一苦労だと思いました。

竹生島神社の鳥居です。これを直進して登れば宝厳寺(ほうごんじ)に着きますが、先に都久夫須麻神社にお参りしたいため、順路を逆に進みました。

能『竹生島』に縁のある黒龍大神です。下界の竜神が現れた所です。

竹生島は能『経政』の平経正にも関連があります。
寿永二年、木曽義仲が五万余騎の軍勢で都に攻めるとの情報を得た平家一門は維盛、通盛を大将軍に、経正、忠度他を副将軍としてこれを迎え撃つこととします。平家の軍が海津、塩津に控えた日、詩歌管弦に長じた経正は渡島参詣をして弁財天に戦勝を祈願します。
僧たちは経正が琵琶の名手たることを知っており、仙童の琵琶を参らせたので、経正は上玄石上の秘曲を弾きます。弁財天は感応にたえず経正の袖の上に白龍が現れたとは「平家物語」の中に出てくる一部分です。

眼下に見える景色と遠く連なる琵琶湖近郊の山々を眺め、平家の公達も合戦の前に幽美な雰囲気を味わっていたのでしょうか。

都久夫須麻神社の本殿

この廊下は観音堂移築と同時に掛けられたもの。秀吉の御座船「日本丸」の船櫓を利用して作られたそうでなかなか趣のある廊下でした。

唐門。京都東山の豊国廟の極楽門を移築したもので、観音堂に続いて建てられた桃山様式を示す貴重な門です。

唐門

宝厳寺に到着したのが夕方4時。島には我々ぐらいしかいないので、管理されている方が扉を閉めかけていたところでしたが、事情を説明し開帳していただきました。

弁財天。この島の弁財天には手がたくさんありました。

閉館していた宝物館も開けていただき、見ることができました。中には能面もありました。第十三代彦根藩、井伊直弼公は竹生島弁財天への信仰に厚く、安政二年弁財天へのご祈祷により病気が回復した旨の礼状を寄せられ、井関の面、小尉と小面一対を寄進されたということです。井関家は桃山時代から江戸時代にかけての能面打ちの家系で室町末期に活躍、三光坊の弟子で代々近江に住んでいましたが、四代目家重は江戸に出て「天下一河内」と呼ばれました。蛇足ではありますが、父菊生愛用の小面は堰と書かれており井関家の作であるようです。

経政が弾いた琵琶は火災のため焼失しましたが、撥のみが現存していました。また仙童の琵琶を玄上の琵琶ともいうそうです。

経政の人物画

二股の竹。能『竹生島』では間狂言がワキに、竹生島にゆかりのある宝物をみせます。まず宝蔵の鍵、次に天女の持つ数珠、そして当島第一の宝、二股の竹などを見せ、最後に岩飛びをして帰ります。その二股の竹が本当に見られるとは、驚きました。
二股の竹とは、葛城、大峰山で藤の皮や松の葉を衣として練行し、神変不思議の術を得て修験道の祖とされている役の行者の小角が、島の岩窟で苦行し、ついには弁財天の霊験を得、持っていた竹杖を地に立て、「もしこの地仏法興隆の聖地なればこの竹生長すべし」と祈願されたところ、竹杖はたちまち二股に割(さ)け枝葉を生じたという由来のものです。行者が島に残した「二股の竹」から竹生島の名が生まれたと伝えられています。

経塚の石。昭和47年の集中豪雨の時、崖崩れの跡から数多くの石経(鎌倉期)が発見されました。薄く平たい石に一個一文字の墨字の経文が記されています。能『鵜飼』にも待謡でワキの僧侶が読経しながら一石に一字を書き経をよむところがでてきます。

宗近の鎧通、 三条小鍛冶宗近作。能『小鍛冶』に宗近が帝の命により天下守護の剣を鍛える(打つ)ことになり、伏見稲荷に祈願し、精進の結果、稲荷の神の加護によりめでたく神剣を鍛え得たことを謡っています。

急遽、彦根港行が我ら一行の希望をかなえてくれ、帰りの長浜港行きにつなげることができました。

長浜港に到着、正面の白い建物が、ゆかた会会場の、長浜ロイヤルホテルです。
『隅田川』ゆかりの地を訪ねて投稿日:2006-09-16

平成15年1月26日、「日立能と狂言の会」にて、能『隅田川』を勤めるにあたり、『隅田川』ゆかりの地を訪ねて来ました。現在の隅田川は能が発生した室町時代とは、その流れが大きくかわり、現在の位置とは必ずしも一致するものではありませんが、謡跡を訪ねる旅として、雑誌「観世」や「謡跡めぐり」(青木実著)などの資料をもとに、春日部の古隅田川と梅若塚、墨田区の木母寺にある梅若塚などを訪ねてきましたので、写真探訪にてご紹介いたします。

謡曲『隅田川』の隅田川は現在の春日部にある古隅田川ではないかといわれています。

小さな橋ですが「業平橋」の名称が刻まれていました。昔の写真には市の観光協会の立てた「在原中将業平朝臣の渡れし橋」の標柱がありましたが、今は撤去され公衆電話ボックスに変わっていて、面影らしきものは全くなかったので少々がっかりしました。

現在の川幅は大変狭く、これでは渡し舟が必要であったかと、疑問がもたれますが、伊勢物語、在原業平が詠んだ「名にし負はば、いざ言問わん都鳥、わが思う人はありやなしやと」の時代にはまた違う景色だったかもしれません。

古隅田川、業平橋より徒歩15分程で梅若塚のある萬蔵寺があります。

萬蔵寺前に梅若塚があります。

梅若塚には、『隅田川』梅若丸の由来が書いてありました。

逆光の撮影で写りが悪く解りにくいですが、宝生流、今井泰男氏の寄贈された柳があったのには驚きました。

今井氏は現在現役シテ方の最古老です(当時)

梅若塚は高さ2メートル程の小祠でした。

梅若塚の石碑

17世宝生流宗家の石碑もありました。

梅若塚遠景。右の大木が今井泰男氏の寄贈の柳です。

春日部より墨田区に移動し、隅田川沿いの木母寺にある梅若塚を訪ねました。

恒例の謡跡保存会の立て札。これがあるとほっとします。

木母寺の表札

梅若堂は破損が激しいため、ガラスの建物の中に大事に保管されています。

左に見える赤い柵の中に梅若塚跡があります。
木母寺と梅若丸伝説をご紹介いたします。
◇木母寺のあらまし
〇宗旨・天台宗 御本尊・慈恵大師
〇山号を梅柳山、院号を隅田院、別に梅若寺(うめわかでら)と古称す。
〇創建は平安時代中期の貞元2年(977)、開山は忠円阿闍梨と伝えられ、その由緒は、能『隅田川』の梅若山王権現の霊験譚にもとづく。
◇梅若塚(梅若山王権現堂)の由来
境内に鎮座する梅若塚は、謡曲などによって、広く知られている旧跡です。当寺に現存する絵巻物「梅若権現御縁起」は、次のような説話を伝えております。
「梅若丸は、吉田少将惟房(これふさ)卿の子、5歳にして父を喪い、7歳の時、比叡山に登り修学す。たまたま山僧の争いに遭い、逃れて大津に至り、信夫藤太(しのぶとうた)という人買いに欺かれ、東路を行き、隅田川原に至る。
旅の途中から病を発し、ついにこの地に身まかりぬ。ときに12歳、貞元元(976)3月15日なり。
いまはの際に和歌を詠ず。
尋ね来て 問はは応えよ都鳥 隅田川原の露と消へぬと
このとき天台の僧、忠円阿闍梨とて貴き聖(ひじり)ありけるが、たまたまこの地に来り、里人とはかりて一堆の塚を築き、柳一株を植えて標しとなす。
あくる年の3月15日、里人あつまりて念仏なし、弔い居りしに、母人、わが子の行方を訪ねあぐね、自ら物狂わしき様して、この川原に迷い来り、柳下に人々の群れ居り称名するさまを見て、愛児の末路を知り非歎の涙にくれける。その夜は里人と共に称名してありしに、塚の中より吾が子の姿、幻の如く見え、言葉をかわすかとみれば、春の夜の明けやすく、浅茅の原の露と共に消え失せぬ。夜あけて後、阿闍梨に、ありし事ども告げて、この地に草堂を営み、常行念仏の道場となし、永く其霊を弔いける、と。」

木母寺移築により、もとの梅若塚へ向かう途中にある梅若門です。都営住宅の中にありました。

旧梅若塚は榎本武揚像のそばにひっそりとあり、判りにくく探し当てた時は、思わず「あったー!」と声を出してしまいました。

やはり「この川は大事の渡りにて候程に、番に居って舟を渡し候」とワキが謡うぐらいですから、当時の川は現在の隅田川のように川幅があったのではないかと思いました。そこで隅田川の雰囲気を満喫するため水上バスに乗り、日の出桟橋まで遊覧することにしました。

水上バスに乗るまでに時間がありましたので、浅草名物、神谷バーに立ち寄り、名物「電気ブラン」を試飲してみました。味はブランデーベースでいろいろなものが入っているようで、かなりきつく、私は飲めずに結局残してしまいました。

夕暮れの吾妻橋を見ながら、浅草から日の出桟橋へ向かい出港しました。乗船時間は40分(¥640)。途中で潜る両国橋は武蔵の国と下総の国の二つの国に架かったため、その名が付けられたなどと、放送されるそれぞれの橋の説明を面白く聞きながらこの旅は終わりました。
天橋立と成相寺の旅投稿日:2006-09-16

平成18年7月29日、30日(一泊二日)に明生会有志会員9名と日本三景の一つ「天橋立」や京都の謡蹟めぐりなど、観光して来ました。
初日は生憎のお天気で、曇り空から雨になり傘をさしての拝観となりました。
二日目は快晴、京都では30度を越える猛暑となり、飛び入りで誠心院・誓願寺の謡蹟を尋ねることにして、午後からは予定通り国立博物館の「美のかけはし」展と三十三間堂を拝観してこの旅を無事終えました。
では行程の詳細から。
東京明生会組5人は東京駅から「のぞみ305号」にて、途中名古屋から新城明生会会員4人が合流し、今回の世話役、A・Iさんの待つ京都に向かいます。
京都で全員集合したところで「特急はしだて3号」にて福知山経由で近畿丹後鉄道天橋立駅まで行きます。なんと2時間もかかる行程です。
天橋立駅に到着すると昼食の予約をいれている老舗の宿「対橋楼」の送迎バスがお出迎え。歩いても行ける距離でしたが利用させてもらい、そこで昼食をとって、いよいよ観光開始となりました。
「対橋楼」の前には天橋立運河があり、本土にかかる橋として、全長3,6キロメートル幅20?170メートルの砂州で出来た天橋立があります。この橋は船を通すために橋が回転するので「廻旋橋」と呼ばれています。この辺りは観世流にしかない能『九世戸(くせのと)』の舞台となります。
「対橋楼」の目の前には山門があり、奥には日本三大文殊の一つに数えられる古刹、天橋立知恩寺(橋立文殊)があります。
三大文殊のあとの二つは山形県高畠町の亀岡文殊堂と以前探訪した奈良県桜井市の安部文殊院です。
拝観を終え、すぐ近くの汽船乗り場から遊覧船に乗り、天橋立の全貌を眺めながら、一宮 に渡ります。
船上からの景色を眺めるあたりから急に激しい雨が降り出しましたが、景色は何とか見ることができました。一宮港に着いて、手荷物を本日宿泊する「新風楼」に置かせてもらい、徒歩3分ほどの「元伊勢籠神社」に参拝し、ケーブルカーで「股くぐり」で有名な見晴らし台に登ります。
幸い、この一瞬だけ雨がやみ、記念切手やポスターで見られる絶景が眼下に広がりました。
『盛久』ゆかりの寺、成相寺まではバスで3、4分で急坂を登り到着します。
私は来年予定されている自主公演『盛久』の無事演能を祈願して、会員と記念撮影をしました。その後下山して本日の宿「新風楼」へ。
二日目は
京都に昼までに到着するには天橋立駅9時発の「特急はしだて4号」に乗車しなくてはいけないので、逆算すると、朝一番、7時半発の連絡船に乗らなければなりません。朝早く宿を立ち、船で渡り、橋立あたりを再度ゆっくり散策して時間をつぶし、京都には予定通り12時に到着しました。予約済の錦市場「かね松」の長寿ランチという野菜のみのお昼御飯を戴きました。
食後、謡蹟保存会の立て看板があるところに行きたいという希望があり、相談の結果急遽錦市場近くにある和泉式部の墓として有名な「誠心院」と「誓願寺」に向かい、謡蹟めぐりとなりました。
国立博物館で「美のかけはし」を拝観し、最後は隣の三十三間堂にお参りしてこの旅行を終えました。

文殊院
文殊の知恵の発祥の寺です。天橋立知恩寺の中にあります。

遊覧船にて
左から後方の山に向かって見える松原が橋立です。橋立を見ながら一宮港に渡ります。

ケーブルカー
急勾配を登り降りるケーブルカー。乗車すると既に傾いているように感じるほどの傾斜です。

天橋立
一の宮から知恩寺へと続く松原が日本三景の一つ「天の橋立」です。
今回の「天の橋立」で「松島」「安芸の宮島」と、日本三景をすべて行ったことになりました。

看板
このような案内の看板があり、皆真似して眺めてみました。

指示通りに
股のぞきしながら撮影した画面です

成相寺
平盛久は実在した人物か疑問もありますが、観世流では清水寺で捕らえられたとあり、喜多流ではワキの土屋三郎が「丹後の国成相寺にて捕らえ」とあります。

新風楼
このホテルの外観は古風な感じを受けますが、館内はシックながらハイセンスなお部屋で気に入りました。

部屋の景色
今回は私だけが男性なので、この部屋を独り占め、ゆっくりとくつろいでしまいました。

和泉式部の墓
錦市場から徒歩4、5分に誠心院があります。ここは『東北』『誓願寺』などに取り扱われている和泉式部の墓があるところです。

和泉式部の墓
生憎、謡曲保存会の立て看板はありませんでしたが、墓は立派でかなり大きなものでした。

誓願寺
誠心院からすぐ近くに誓願寺があります。
ここには「扇塚」があり、多数の舞台人、舞踏家が芸道精進を祈願して扇を納めています。

三十三間堂
宮本武蔵と吉岡一門との決闘でも有名な寺ですが、意外と平清盛建立のこと、そして
近くの法住寺に後白河法皇の墓がひっそりとあるのは知られていないようです
千寿と湯谷(熊野)ゆかりの地投稿日:2006-07-16

平成18年6月30日、能『千寿』や『湯谷』のゆかりの地、磐田市の謡蹟めぐりをして参りました。
コースは磐田駅から千寿禅寺、傾城塚、朝顔の墓、行興寺の湯谷の墓、磐田伝統芸能館
の能舞台、最後は舘山寺九重ホテルまでと、およそタクシーで2時間の旅行となりました。
今回、千寿の墓の場所が判らなく、磐田市観光案内所に尋ねたところ、担当の坪井さんが
ご親切にたくさんの資料やパンフレットを郵送して下さいまして、それが役に立ちました。
ご親切感謝します。
謡蹟めぐりは辺鄙なところが多いため、今回もまたタクシーの貸切で効率良くまわることにしました。磐田駅で女性のタクシー運転手さんと1時間・¥5300で交渉成立。
早速「千寿禅寺、傾城塚、朝顔の墓に行って下さい!」とお願いしたところ、思った通り「あの??? 地図かなんかありますかね??」と少々頼りないお返事。観光案内所から頂いた地図を見せると、すぐに了解されて舘山寺までスムーズに二時間で回ることが出来ました。

千寿の母は永らく子どもに恵まれなかったので、千手寺にまつられている千手観音にお参りしました。しばらくして出産し、母は子どもの名前を千手観音に因んで「千手」と命名しました。
吾妻鏡などの文献では「千手」ですが、磐田地方では何時からか「千寿」と呼ぶようになったそうです。喜多流も能『千寿」ですので、ここではすべて千寿と記載させていただきます。

先の千手禅寺の住職が位牌を傾城塚から新たに千寿禅寺の本堂に移された由を、今のご住職、加藤幹人氏のお父様、加藤公男氏から伺いました。
このお寺は以前無人寺でしたが、最近住職ががお住まいになり管理されているようです。生憎ご住職は外出されていたのでお父上の公男様にご許可を頂き、位牌の撮影をさせていただきました。よく見ると新しい位牌であることが判ります。
場所、千手堂637―1

「傾城塚、千寿の前の墓」
磐田駅から南西へ約3キロメートルの野箱地内に傾城塚(千寿の前の墓)があります。
前には駐車場もありよく整備されています。
頼朝が12人の美女を揃えたという記録に「一番に千寿の前、二番に熊野の娘―――」とあるように、千寿は日本一の美女だったようです。このあたりの住所が白拍子町というのも千寿の影響でしょう。

「朝顔の墓」
松尾八王寺神社の近くに小さな祠がありますが、それが「朝顔の墓」です。とてもお寺や神社の敷地内とは思えない畑の真ん中にポツンと墓石があり、立て札に「朝顔の墓」と書いてありました。

「朝顔の墓」近影
小さな墓石です。枯れてはいましたがお花が手向けてあったのには驚きました。
朝顔は湯谷の母からの文を京都の宗盛邸にいる湯谷まで届けます。

「行興寺」
藤の季節は人でいっぱいになるほどの藤の名所ですが、私が行ったときは藤は終わっていて、人はなく、静かにお参りすることが出来ました。

「行興寺の謡蹟保存会の看板」
これがあるとほっとします。最近立てたものらしくまだ新しいものでした。

「墓の説明」
次回の『湯谷』演能の成功を祈願し、また朝顔の墓もここに来られればいいのに・・・と祈って合掌。

「湯谷と母の墓」
手前が湯谷の墓、奥は母の墓。いずれも立派な大きな墓です。

「磐田芸能資料館にある能楽堂」
見所が屋外ですので、お天気が悪いときのことが気になりますが、舞台は立派なものでした。
右手奥には資料館があり、『熊野』シテ・観世清和氏のビデオが流れていました。
中国、西安と北京の旅 ②投稿日:2006-03-16

平成14年7月9日より三泊四日、喜多流の、出雲康雅氏、粟谷能夫氏、長島茂氏と私の4名で中国、西安と北京に行ってきました。目的は兵馬傭坑と万里の長城の見学です。天気にも恵まれ、広大な中国の大地とスケールの大きさを痛感し、歴史ある史跡に感動してきました。
行程は初日が移動のみとなり、成田より北京経由にて西安に入りました。二日目、西安では華清宮、秦の始皇帝の兵馬傭、空海ゆかりの青龍寺(しょうりゅうじ)、阿倍仲麻呂記念碑、文字の博物館碑林、最後に大雁塔に登り、途中、強制的におみやげセンターに寄り道させられ、行程、おみやげ共にぎっしり詰まった旅でした。
三日目は朝6時起きで、北京空港に向かい、到着後直ぐに、明十三陵を見学して昼食をとり、万里の長城、八達嶺(はったつれい)から全員目標の見晴台まで無事に行ってきました。夕方には天安門広場を散策して、北京ダックのおいしい老舗、北京全聚徳飯店にて夕食をとり、夜は屋台の街を徘徊し試食してもいいかなと思いましたが、おなかを壊しそうな雰囲気でしたのでホテルに帰り、部屋で宴席としました。
帰国日は朝、天壇公園に寄り、故宮博物館を尋ね散策して帰国しました

北京空港に到着。マイクロバスを待っていると、空港警備員が駐車違反の車をレッカー移動し始めました。そうしたら軍人が大きな声を発しながら動いている車の屋根に飛び乗り、警備員と言い争いになりました。「白ナンバーは軍人です」とはガイドさんの第一声。

万里の長城、八達嶺に連なる天寿山の麓に点在する明十三陵の一つの定陵。

正門に向かう途中の橋より、前を撮影。

正門に向かう途中の橋より、後を撮影。

正面正門の地下27メートルのところに第13代皇帝神宗万暦帝の棺がありました。

正門に向かう途中の橋より、後を撮影。

正面正門の地下27メートルのところに第13代皇帝神宗万暦帝の棺がありました。

地下宮殿を造る時にこしらえたトンネル。

北京観光のガイド役の楊さん。

定陵の地下は撮影禁止でした。外の暑さを忘れるほど涼しかったです。

定陵の正門を横から見る。

万里の長城は登り口が幾つかありますが、今回は北京から北西の八達嶺に登りました。

望楼(砦)

八達嶺から西の砦を見る。

兵士が10人並べる広さにびっくり。

目指した見晴台(望楼)からの眺望

登った先にもずーと続く長城。

無事全員到着、記念撮影です。

万里の長城の雄大さには、月から見える建造物といわれるのも納得。

さあ下りです。慎重に急階段を下ります。

守衛の方も暑さにばてぎみ。

天安門広場前の道路から撮影。車、自転車、人の波、人口の多さを感じました。

毛沢東が眠る、毛主席記念堂。翌日はこの前に長蛇の列が出来ていました。

人民大会堂は日本の国会議事堂、5000人の収容宴会場があります。

夕食は全聚徳で北京ダックのコースをいただきました。

天壇公園にある皇穹宇(こうきゅうう)は祭祀の際、皇帝の位牌を置くところです。

祈念堂まで門がいくつもあります。

祈念堂への道。ここを通るとき、真中は皇帝、隣は皇后と決まっていたといいます。

道の端は宦官と定められていました。

祈念堂。

明、清の歴代の皇帝は五穀豊穣をここで祈ったといいます。釘を使わぬ建造物。

公園

公園には将棋をする人や歌を歌う人、羽を落とさないように蹴って遊ぶ人たちが沢山いました。

横縞の足を上げてる人は中国一の名人だそうです。羽を試しに一つ買いましたが、あっという間に羽が抜ける不良品でした。

午門は紫禁城の正門。

太和殿

太和殿前の外朝、広大な広場です。

体仁閣は正面横に見えます。

太和殿

皇帝の椅子(1)

宮殿は石を敷き詰めているため、植物は植えられません。

中和殿は皇帝が休むところ。

皇帝の椅子(2)

皇帝の椅子(3)

映画「ラストエンペラー」で皇帝が自転車に乗る場面はここで撮影されました。

皇極殿、珍宝館に入るにはオレンジ色の草履を買って履くことになっています。

規模は小さいが色が鮮やかな九龍壁。

皇極門の中は珍宝殿。

貴重品の殆どは蒋介石が持ち運びだしてしまったそうです。ですから中華民国、台湾の故宮博物館の方が、レベルが高いといわれています。

珍宝殿の天井。

西太后の椅子、ここで食事もしたらしい。

おしゃれな通り道

珍妃井

珍妃井は義和団事変の際 珍妃が西太后に強制的に投げ込まれた井戸。

故宮裏門の神武門

日本ではもはや見られぬ昔懐かしい、トロリーバス(1)

日本ではもはや見られぬ昔懐かしい、トロリーバス(2)

中国での最後の食事所、さすがに中華料理は飽きてきました。

食事を運んでくれるこの人は日本語が上手なので色々お話出来て楽しかったです。
中国、西安と北京の旅 ①投稿日:2006-03-16

平成14年7月9日より三泊四日、喜多流の、出雲康雅氏、粟谷能夫氏、長島茂氏と私の4名で中国、西安と北京に行ってきました。目的は兵馬傭坑と万里の長城の見学です。天気にも恵まれ、広大な中国の大地とスケールの大きさを痛感し、歴史ある史跡に感動してきました。
行程は初日が移動のみとなり、成田より北京経由にて西安に入りました。二日目、西安では華清宮、秦の始皇帝の兵馬傭、空海ゆかりの青龍寺(しょうりゅうじ)、阿倍仲麻呂記念碑、文字の博物館碑林、最後に大雁塔に登り、途中、強制的におみやげセンターに寄り道させられ、行程、おみやげ共にぎっしり詰まった旅でした。
三日目は朝6時起きで、北京空港に向かい、到着後直ぐに、明十三陵を見学して昼食をとり、万里の長城、八達嶺(はったつれい)から全員目標の見晴台まで無事に行ってきました。夕方には天安門広場を散策して、北京ダックのおいしい老舗、北京全聚徳飯店にて夕食をとり、夜は屋台の街を徘徊し試食してもいいかなと思いましたが、おなかを壊しそうな雰囲気でしたのでホテルに帰り、部屋で宴席としました。
帰国日は朝、天壇公園に寄り、故宮博物館を尋ね散策して帰国しました

華清宮は西安から30キロメートル離れた驪山(りさん)の麓にあります。3000年前西周の時代から温泉の湯元で歴代帝王はここで享楽に耽けっていたようです。能『殺生石』の謡に出てくる周の幽王は后を伴ってここで酒宴をし、秦の始皇帝も又この温泉に入ったと云われています。特に唐の玄宗皇帝はこの地に宮殿式建物を造営し「華清宮」と名付けました。前に見える池が華清池、奥に見えるのは驪山です。ケーブルカーがあり時間があれば乗って頂上に行きたかったのですが、今回は割愛しました

飛霜殿は玄宗と楊貴妃の宿泊所です。
この華清宮や驪山は謡にも出てくる有名な所です。
例えば
『楊貴妃』「昔は驪山の春の園に」や「げにや驪山の宮の中」
『湯谷』「驪山宮の秋の夜の月、終わり無きにしもあらず」
『遊行柳』「其の外玄宗華清宮にも、宮前の楊柳寺前の花とて」などです。

ちょっと夢が覚めてしまう様な楊貴妃の立像ですが、何故かここにて全員で記念撮影をしてしまいました。

華清池のまわりにある柳は情緒があって良い景色でしたが、建物の改装をしていたのが少し残念でした。

華清宮を見学の三人、(左より出雲、長島、能夫)左はガイドの張さん。

華清宮から驪山。驪山の山腹は蒋介石が張学良の護衛兵に捕まった所としても有名。

露天の風呂場に建物を建てたのは玄宗皇帝です。

宗と楊貴妃の専用風呂は海棠湯と蓮花湯です。

楊貴妃専用の風呂、大理石で蓮の形をしています。

玄宗皇帝の入った大きな風呂場、楊貴妃も一緒に入ったとか。とにかく広いです。(1)

玄宗皇帝の入った大きな風呂場、楊貴妃も一緒に入ったとか。とにかく広いです。(2)

玄宗皇帝の入った大きな風呂場、楊貴妃も一緒に入ったとか。とにかく広いです。(3)

楊貴妃は湯上がりにこの塔に上がり、好物の茘枝(れいし)を食べ涼んだといわれています。

リウマチに効く温泉が出ていましたが、有料なので素通りしました。

池の際に綺麗な花が咲いていました。植物がお得意の出雲氏より即答で「ブーゲンビリヤ」とご説明がありました。

華清宮の池。(1)

華清宮の池。(2)

水の流れ出すところは龍の頭を象っています。

ガイドの張さん、お世話になりました。

兵馬傭博物館、1号館

兵馬傭博物館、2号館

兵馬傭博物館、3号館。拝観は3号館の銅馬車から始めました。

3号館の銅馬車には一号車と二号車がありますが、写真は一号車です。
二千年前に作られたとは思えない程、精巧に作られていて、これは秦代の高度な冶金技術、車輪構造、工芸技術などの結晶といえます。

今回のメインの一つ、兵馬傭です。1号館の兵馬傭では坑の広さ、多数の兵馬傭に驚きました。

土壁で11の通路の溝を掘り、下に煉瓦を敷き兵馬傭を並べて埋めます。最後に上から丸木を差し渡し、その上に蓆を敷くのですが、蓆の上が土で覆われていたため最近まで存在が知られなかったのです。

この兵馬傭の発見者、楊志発さんは雨が降らないので、井戸を掘ろうとして、偶然見つけたそうです。楊さんは博物館売店で今はサイン入りの本を売っています。前は記念撮影にも加わってくれていたようですが、あまりのカメラのフラッシュの多さに目を患われ、最近は握手のみとなったそうです。今回のメンバーには記念撮影の希望者はいませんでしたが・・・。

前に学者がいるのが見えますか? 今も学者、調査隊は研究中、採掘中です。
兵馬傭は土に埋もれているときは、色彩鮮やかですが、掘り起こし大気にふれると、二日目には色が薄くなり、三日目には写真のように茶一色になってしまうのです。兵馬傭の顔はどれ一つとっても同じ物はありません。実際の人物を真似て作った為ですが、首のないものは、モデルが戦場に行ってしまい顔が作れなかったそうです。

馬傭を見て御満足の方々ですが、何故かこの写真、私にはみなさんが兵馬傭に見えるのです・・・。(1)

兵馬傭を見て御満足の方々ですが、何故かこの写真、私にはみなさんが兵馬傭に見えるのです・・・。(2)

西安のお土産センター。ガイドさん達は必ず一日に一、二個所、こういうところを案内してくれます。聞いてみたら、お土産屋でお客さんを案内したというサインしないといけないシステムになっているのだそうです。ですから「みなさん!何も買わなくても、いいですから!見るだけでいいですから!」というのですが、結局皆ここで買うことになりました。

高台にある空海ゆかりの青龍寺。遣唐使に随行した弘法大師空海はここで唐の名僧、恵果阿闇梨から真言密教を学び、3年後日本に帰国し、高野山に金剛峯寺を建立、真言宗を布教しました。恵果は空海との別れを惜しんだといわれ、帰国後まもなく亡くなられました。

青龍寺に現在、住僧はいません。この寺は、謡曲では『是界』にでてきます。

青龍寺(1)

青龍寺(2)

青龍寺(3)

青龍寺(4)

空海に因縁のある四国四県と日本真言宗門徒衆は中国仏教協会の協力の下に1982年に空海記念塔を建てました。空海は真言密教を中心に儒教、道教、医学、音楽、料理を勉強し、また漢字の草書体を利用して平仮名を作りました。

記念碑の前には展示室があり、空海とその関連文献などが展示してあります。

展示室となりには参拝者署名所があり、我々も署名してきました。署名は50年間保管され、次回訪れたときに、本人又は親類の者は希望すれば見ることができるそうです。

私の署名、記念になりました。

阿部仲麻呂の記念碑がある興慶宮、今は公園になっています。

大理石で作られた阿部仲麻呂記念碑。仲麻呂といっても知らない方もあるかもしれませんが、奈良の出身で遣唐使に従い留学生として長安(今は西安)に渡った人物です。この地に35年間生活し、祖国を偲んで、小倉百人一首で有名な「天の原、ふりさけ見れば春日なる、三笠の山にいでし月かも」を詠みました。
仲麻呂はあるとき玄宗皇帝の許可を得て、日本に向かいましたが、途中暴風雨に遭い、ベトナムに漂流。二年後に再び長安に戻り、唐の高級官僚として活躍し73歳で亡くなっています。
謡曲では奈良の春日を主題にした『野守』に「昔、仲麻呂が我が日の本を思いやり、天の原ふりさけ見ると詠めけん・・・」と謡います。
碑の側面には詩人、李白が仲麻呂の死を悲しみ歌を詠んでいます。

図書館といわれ入ってみたら、絵や字の売店でした。しかし今思うと、ここが一番良質で安かったようです。あー、あと二枚ぐらい買っておけば良かったと少し心残りでした。

西安碑林博物館。碑林とは文字や図像を刻んだ多数の石碑の集合を意味するものです。

西安碑林博物館(1)

西安碑林博物館(2)

ここに掲げる碑の字は卑の上の点がないのですが、これは字のバランスが良いということで取ってしまったそうです。

石台孝経は玄宗皇帝の自筆です。

鐘楼にあった鐘はここにおいてありました。

現地の中国人ではありません。出雲さん少しお疲れのようでした。

石碑のあった建物ですが、今は建物のみ。手前の芭蕉が立派で綺麗でした。

これはびっくり。木が屋根を突き破ったか、木を尊重して屋根をこしらえたか・・・。

大慈恩寺入口。

大雁塔は大慈恩寺の境内にあります。三蔵法師はこの大慈恩寺に仏像教典の保存を玄宗に願い出て許され、はじめは五層の塔を建てました。その後十層に大改造されましたが、戦乱で七層から上が崩壊し、今は七層が残っています。

大雄宝殿には釈迦如来がありますが、ご覧いただけるでしょうか。

講堂の前から正門を振り返る。

大雁塔入口、いやあ、高さを感じます。

法堂

これから3人で登ります。出雲氏は足をけがされていたので不参加でした。

頂上よりの眺めはすばらしく、良いのですが、登りが辛かった。(1)

頂上よりの眺めはすばらしく、良いのですが、登りが辛かった。(2)

頂上よりの眺めはすばらしく、良いのですが、登りが辛かった。(3)

頂上よりの眺めはすばらしく、良いのですが、登りが辛かった。(4)

頂上よりの眺めはすばらしく、良いのですが、登りが辛かった。(5)

頂上よりの眺めはすばらしく、良いのですが、登りが辛かった。(6)

天井に書かれていました。意味不明。

3層目にありました。釈迦の足型です。

釈迦の足型の説明板。

出口より

下りて出口から見上げて、二度と来れないなーと思いました。

大雁塔出口付近、綺麗に整備されていました。(1)

大雁塔出口付近、綺麗に整備されていました。(2)

「疲れをとるためにお茶にしましょう」と言われましたが、ここもガイドのコースのひとつでした。

おいしいいろいろなお茶を出していただきました。

もちろん無料ですが、そこは礼儀、少々の買い物をして出ました。

夕食は餃子でした(1)

夕食は餃子でした(2)

ギョウザその1

ギョウザその2

いろいろな形、味で面白かったですが、最後は飽きてしまいました。

中国ではあまりビールを冷やして飲まない習慣らしいですが、最近日本人が多く来るようになり、冷えたビールも飲めるようになったとか。でも味は薄いので日本のビールが恋しくなりはじめました。

スープギョウザ

我々はこのマイクロバスで移動しました。

夜の西安の街は屋台や食事の店で一杯です。衛生面では問題があるでしょうが
中国の人は道路に出て食べていました。私は残念ながら食べたいという気持にはなれませんでした。

中国の男性はすぐ裸になってしまいます。あちこち裸の男性が多いのも西安や中国の特徴かもしれません。
(左 長島氏、右 出雲氏)

一日の疲れは足裏マッサージが良いというので、試してみました(1)

一日の疲れは足裏マッサージが良いというので、試してみました(2)
美濃赤坂から湖北観音めぐり投稿日:2005-12-15

平成17年11月10日から二泊三日で、美濃赤坂からの謡蹟めぐり、そして翌日は琵琶湖湖北の十一面観音見物に行って来ました。
11月10日
JR大垣駅で下車し、まず今回の行程で一箇所だけ離れている「養老の滝」までタクシーで向かいました。片道30分ほどです。本来、参道を使い徒歩で滝壺まで行くべきでしょうが、時間の都合上、山頂まで一気に車で上り、タクシーを待機させて、逆に下りながら滝壷と、養老神社のお社を見学してきました。神社には能『養老』にまつわる「菊水泉」がありましたので試飲しました。春は桜の名所として大混雑だそうです。養老神社のすこし上から山頂まで濃尾平野を一望できるリフトがあったので、それに乗り、タクシーを待たせている山頂駐車場まで戻りました。
『熊坂』や『烏帽子折』で謡われる「赤坂の宿」を通り、子安の森の子安神社を経て、本日のメイン、朝長の墓にお参りしました。朝長の墓の道は二通りありますが、今回は裏道の朝長ルートで徒歩10分で到着しました。途中、足場は整理されていますが、マムシに注意の看板がいたるところにあるのは不気味でした。
昼食を時間節約のため、お墓をお参りしたあと刀置きの石近くでとり、下山して『熊坂』で謡われる「青野ヶ原」や「青墓の宿」を通り、「熊坂の物見松」に向いました。それから「垂井の宿」を通り、「野上の宿」で班女が化粧をしたといわれる池がある岩田千年氏(90歳)宅へお邪魔してお話を伺い、班女観音堂にもお参りして、最後は「関が原古戦場」を見て彦根のホテルへ帰りました。
11月11日
朝8時半にホテルを出発、多賀大社に行きました。荘厳で綺麗な社は貫禄があり伊勢大社の親とも言われています。社の右となりには現在はあまり利用していない能舞台がありました。二日目のメインは渡岸寺(どうがんじ=向源寺)の十一面観音像です。湖北は古いお寺が沢山あり、十一面観音の宝庫といわれています。
その後、石道寺から遊歩道を歩いて己高閣に向かいましたが、途中猿の大群が畑を荒らしているのに遭遇しました。さすがにあれほど多いとすこし怖くなります。己高閣の宝物館に石田三成の母の墓があったので謂れを聞くと、母の出身地だったようです。ですから関が原合戦に負けた三成は母の故郷の古橋村に落ち延びたのです。
説明を受けるうちに雨が降ってきたので、二日目の行程をここで終了することにして、京都のホテルを目指しました。夕食は八坂神社近くのととや魚長さんで今回の同行者4人で大宴会となり楽しい旅を終えました。

養老の滝
意外に落差のある大きな滝です。

養老神社
養老神社と、手前は謡蹟立て札です。

謡蹟立て札
最近立てられたようできれいな立て札でした。

菊水泉(掬水泉とも)
伝説は源丞内という者が、貧乏のため酒好きの父に酒を飲ますことができないでいました。ある日、山に薪を取りに行き苔石にすべり転んだところ、酒の匂いがしたので流れる泉を汲むとそれは酒でした。息子は毎日その泉を汲んで父に飲ませた、という話。これを聞いた帝が勅使を向かわせ、老人と男に会い泉の謂れを聞くというのが能『養老』です。ここは下から徒歩で登ると距離があります。もちろん泉は酒ではありませんが、長命になるというので試飲しました。味は別に変わりませんが、効果には期待したいと思いました。

神社から山頂までのリフト
あまり乗られていないリフトですが、今日の長い一日の行程を考え、つい乗ってしまいました。濃尾平野がきれいに見られました。

赤坂の宿
『烏帽子折』では金売り吉次や牛若丸がここで盗賊の熊坂長範に襲われますが、牛若丸は一人で見事に退治してしまいます。『熊坂』で「垂井青墓赤坂とて、その里々は多けれど」と謡われるように、昔は人が集まったにぎやかなところでしたが、いまは寂れた町となっています。

子安神社
『熊坂』「青野が原の草高く、青墓子安の森茂れば」のように、平安時代は鬱蒼として昼でも暗い子安の森であったようですが、今は昔の面影はありません。子安神社は子授けの神で、跨ぎ石を跨ぐとご利益があるといいます。

朝長の墓の入り口
墓までは二通りの道がありますが、裏からの近い道を選びました。

墓への道
道は整備されていますが、小川が流れているので湿地帯を歩く感じです。随所に「マムシ注意」の看板がありますが、どのように注意したらいいのかは書いてありません。

炭焼き小屋
ここまでが7割程度、あと少しです。近くに休憩所がありましたが、湿気があり、昼でも暗いところなので、とても腰を下ろして休む気にはなりませんでした。

岐路
あと少しで墓です。左は寺の跡ですが、今回はパスして右に曲がりました。上り坂があり、あと少しです。

刀置きの石
昔はこの石の上に刀を置いてお参りしたそうです。今回は私の懐刀の携帯電話を置いてみました。

朝長の墓
左から朝長、義朝、義平の墓です。入り口からは女性の足でも10分で着きました。

お参り
いつか演じるかもしれない『朝長』の上演も祈願して、合掌。

謡蹟の立て札
墓の前は狭く、立て札も道隅ぎりぎりに立てられていました。

大炊一族の墓
義朝をかくまった円寿の墓をはじめ大炊一族の墓がありました。

大炊家の説明
大炊家は長い歴史を持つ名家です。

帰路
次の垂井を目指し、軽快に坂を下る同行者の女性陣。

物見の松
熊坂の郎党は高い松に登って、襲撃する獲物の通行人を探したといいますが、残念ながらその松は今は枯れていました。二代目らしき松が横に植えられていましたが、隣に武内宿禰の墓がありました。

謡蹟立て札
この一帯を保存会の方が回られたようで、今回はみな新しい立て札でした。

班女の長者の屋敷跡、岩井千年氏のお宅。
ベルを鳴らすと、すぐにご老人が出て来られ、親切に中に入れてお話をして下さいました。

なぜか?縦笛
「信じる、信じないは別ですよ」と前置きがあり、「実はこれは班女が吹いた」と秘蔵の笛を見せて下さいました。千年氏は野上一帯を所有する地主で古文書も多くお持ちだそうです。班女の花子と吉田少将との間に生まれた梅若丸の木像もあるからと見せて下さいました。

岩井千年さん
前日転んでしまいお顔を怪我されたとのことで、このようにマスクをされていましたが、90歳でお元気です。いろいろご親切な説明と最後に庭も見せて下さいました。

庭
班女がこの水で化粧したといわれています。一部改修しましたが、池自体は昔のままであるとのことです。

班女の観音堂
国道の 「野上」と看板のある信号を新幹線側に入ると班女観音堂です。
昔の野上の宿は旧中山道にあり今の位置とは違うと岩井さんは説明されました。
実は岩井邸を探すときに道に迷い、見つけたのが岩出町。なるほどロンギの「岩出の森の下躑躅(つつじ)」はここの事と判りました。

班女観音堂
野上は東京から関が原に入る少し手前にあります。今回、美濃赤坂あたりの位置関係が少し判るようになりました。野上が栄え遊女がいたのは平安時代で、それ以降は段々さびれていったようです。

家康本陣
時代は戦国時代に変わり、天下分け目の関が原の合戦の東軍の初陣の桃配山です。西軍の陣構えを見るために頂上に上がり眺めてきました。

決戦場
東軍西軍の激戦地は今はのどかな野原となっています。

石田三成の旗印
私はこの面白いデザインが気に入っています。青空にマッチしていませんか?

笹尾山から桃配山を望む
石田三成の本陣は笹尾山です。ここまでかなり上がってくるので同行者もだいぶお疲れ状態でいやがっていましたが、是非ともここからの景色を眺めさせたく強制命令で上らせました。ここには布陣の図があり、どう考えても西軍の勝利のはずが、小早川氏の裏切りで西軍は敗北して石田三成は伊吹山を越えて故郷古橋村に帰ります。そこで村人の密告で捕まり、六条河原で斬首されます。それ以後、最近まで古橋村では外から嫁をとらない習慣が続いたと聞いています

多賀神社本殿
朝早いためか、人が少なく落ち着いた感じを受けた多賀神社境内です。

神社の神様の由来
古事記に記載されているほど歴史のある神社です。

能舞台
毎年正月には茂山家が翁(三番三)を奉納しているようです。それ以外は使っていないということでした。
裏には楽屋もあり、そのうち能が奉納されればと思いました。

地謡裏より
6枚の板に松が書かれている珍しい鏡板。

さざれ石
『老松』にも謡われる「さざれ石」。この「さざれ石」は立派です。

古橋村
石道寺から鶏足寺への遊歩道を歩くと古橋村に着きます。ここは石田三成が関が原で敗北して逃げて来たところです。数日近くの洞窟に隠れていた三成ですが、村人の密告により捕われてしまいます。

己高閣(ここうかく)
古橋村には国庫の補助を受けて建設された文化財収蔵庫、己高閣があります。中には本尊十一面観音、七仏薬師ほか重要な仏像が多数納められていて、古橋の村人がボランティアで説明、管理されています。
これ以後、降雨となり撮影が不可能になったため、写真探訪はここまでとなります。
湖西線の旅投稿日:2005-09-15

今年度(17年)の阪大喜多会の夏合宿は9月2日より3泊4日で、滋賀県安曇川(あどがわ)の丸三旅館で行われました。
折角、湖西近郊へ行く機会を得たのでいつもの謡蹟めぐりをと思いたち、湖西線近郊の謡蹟を尋ねてから、阪大の合宿に参加することにしました。
京都駅から湖西線に乗り換えて唐崎駅で下車し、『三井寺』で謡われる唐崎神社の「唐崎の一つ松」を訪ねることから始めました。
湖西線は昭和50年に開通したまだ新しい路線だと、後日、丸三旅館のご主人からお聞きしましたが、交通の利便性とは裏腹に、昔から営業していた沿線のもろもろのお店が次第に店をたたまざるをえない状況になったということでした。安曇川も以前は旅館がいくつかありましたが、今は一、二軒になったらしいです。
話を戻します。
唐崎駅前からタクシーを利用するつもりが、驚いたことに乗り場に一台も待機していません。地元の人に聞くと「呼ぶと西大津から来るから時間はかかるねえ」と言われ、仕方なく徒歩でいく覚悟を決めたちょうどそのとき、一台駅前に入ってきたので、もうすぐに両手を挙げて呼び止め、飛び乗りました。乗車して判りましたが、徒歩では少々時間がかかりすぎる距離でした。唐崎の一つ松のあとに坂本の日吉大社まで運んでもらうように交渉して、タクシーを待機させて松をゆっくり見物することにしました。
唐崎神社の一つ松はとても立派です。『三井寺』の謡に、「志賀唐崎の一つ松、緑子の類ならば松風にこと問わん」とあるように、狂女となった緑子の母は、遠くから見るこの一つ松が、わが子緑子と重なって映って見えたのでしょう。
琵琶湖に面したこの南部の場所は、近江八景の一つで「唐崎の夜雨」として有名です。因みに八景とは「比良の暮雪」「矢橋の帰帆」「石山の秋月」「瀬田の夕照」「三井の晩鐘」「堅田の落雁」「粟津の晴嵐」の八つをいい、中国の瀟湘八景に擬したものです。
最近はこの時期になると、藻の発生で湖水が濁り悪臭を放つようになってしまいました。のどかに写真撮影と思っていましたが、時折鼻をふさぎたくなるような臭いは、私を早々と坂本へ移動させてしまいました。
日吉大社の敷地は広大で大規模ですが、もとは唐松神社の方が古く、その後、分社として日吉大社が出来たといわれています。
日吉大社は全国3000余社の山王さんの総本宮で、入り口を入るとすぐに大宮川に掛かる石の橋があり、これは日本最古の石橋です。それより上り坂を上がると鳥居が見えてきます。中に入ると東本宮、西本宮、宇佐宮、牛尾宮、白山宮、樹下宮、三宮宮の七社の神が祭られている社殿があります。鳥居の近くに神輿庫があり七社の御神輿があります。平安時代、叡山の僧兵達がこの神輿を担ぎ、京の都に入り朝廷や平家に異議申し立てをしたのは有名な話ですが、よく京の都まで運んだものだと感心させられます。
この付近は『大江山』のシテ・酒呑童子が昔住んでいたところです。比叡山を開いたのは最澄ですが、能では土着民族を仏力で追いやる体制側に対して反対側からの視点で、追われる者の嘆きや敗北を演じます。
日吉大社の横には比叡山山頂へと続く山道があります。昔は信仰のため時間をかけて歩いて登っていたようですが、今はケーブルで山頂まで10分程で気軽に行けます。山頂に着くとさすがに涼しく、夜は温度もだいぶ下がるとのこと、さぞ冬の叡山は厳しいものがあると思われます。
比叡山に「延暦寺」という単一のお堂はありません。広大な比叡山そのものが延暦寺と呼ばれている聖域です。
『安宅』で「もとより弁慶は三塔の遊僧」とありますが、三塔とは東塔、西塔、横川のことで、弁慶は西塔に住んだと言われています。比叡山は現在三塔、十六谷七十三院百九坊の旧観を回復しました。
私は今まで根本中堂しか見たことがなかったので、今回は是非、武蔵坊弁慶に関わる西塔、『浮舟』にまつわる横川中堂と三塔すべてをまわるのが目標となりました。
坂本までお世話になったタクシーに山頂まで来てもらい西塔、横川とまわり、奥比叡ドライブウエイを堅田で降りて浮御堂を見学し、『竹生島』で「真野の入り江の船呼ばい」と謡われる真野海岸、そして脇能の稀曲『白鬚』の白鬚神社に参拝し、丸三旅館に夕方着きました。
では写真でご紹介します。

富山鉄道、東三日市の駅、左奥には黒部市民会館が見えます。

常世の遺跡は黒部市民会館の側にありました。

コラーレ会館に隣接した能舞台。大変失礼ながら、随分と使い勝手の悪い能舞台を創ってしまったと思いました。見所も少数しか設置出来ません。

梅田と桜井と松枝は遠く離れています。常世はどのように統治したのでしょうか、疑問が出てきました。

能楽堂よりコラーレを眺望。

意外と綺麗に磨かれている橋掛りや本舞台。

唐崎の一つ松
現存の松は三代目です。

唐崎の説明

日本最古の石の橋

日吉大社の鳥居

西本宮

東本宮

輿の説明

神輿近影

比叡山への道

叡山ケーブル

車内

文殊楼より根本中堂

常行堂と法華堂を渡り廊下で繋いでいましが、力持ちの弁慶がこの渡り廊下を天秤棒にしてこのお堂を担いだことから「弁慶のにない堂」と言われています

西塔の釈迦堂

修業中の御堂

横川中堂

横川中堂の説明

恵心院

恵心院の説明

浮御堂の入り口

浮御堂

真野入江

白鬚神社

湖上にある鳥居

白鬚神社全景
桜井の庄投稿日:2005-08-15

能『鉢木』は佐野源左衛門常世が所領を一族に横領され、上野国佐野に零落して生活しているところに、雪の降る一夜を、諸国廻国の僧(実は北条時頼)に宿を貸し、寒さを凌ぐために秘蔵の盆栽桜、松、梅を伐って火にくべて暖をふるまいます。また常世は僧が時頼とも知らず、「いざというときは馳せ参じる」と鎌倉幕府への忠誠心を語ります。後日、その事実を確かめるために時頼は鎌倉への参集のふれを出し、語った通り痩せ馬に乗って駆けつけた忠誠心あふれる常世に本領の返還と盆栽の木にちなんで梅田、桜井、松井田の三箇の庄を与えたという話です。
ワキの語りに「いで其の時の鉢木は、梅桜松にてありしよな、其の返報に加賀に梅田、越中に桜井、上野に松枝、合わせて三箇の庄、子々孫々に至るまで、相違あらざる自筆の状」とあります。越中の桜井は現在の黒部市三日市です。富山地方鉄道、東三日駅を下車すると、目の前に黒部市民会館があり、その横に「佐野源左衛門常世之遺跡」と書かれた大きな石碑がありました。
今回は黒部市国際文化センター・コラーレの開館10周年記念として「黒部 夏の能・狂言の会」が喜多流と和泉流にて公演されました。コラーレ会館に隣接して能舞台があったのには驚きました。
では写真でご紹介いたします。

富山鉄道、東三日市の駅、左奥には黒部市民会館が見えます。

常世の遺跡は黒部市民会館の側にありました。

梅田と桜井と松枝は遠く離れています。常世はどのように統治したのでしょうか、疑問が出てきました。

コラーレ会館に隣接した能舞台。大変失礼ながら、随分と使い勝手の悪い能舞台を創ってしまったと思いました。見所も少数しか設置出来ません。

意外と綺麗に磨かれている橋掛りや本舞台。

能楽堂よりコラーレを眺望。
曽我兄弟2投稿日:2005-08-15

お正月の箱根駅伝で有名な国道1号線の最高地点(海抜874メートル)の近くにある曾我兄弟と多田満仲の墓を探訪してきました。
元箱根から湯本へ下る1号線の右側に曾我兄弟の墓と虎御前の墓があります。
富士の裾野で父の敵、工藤祐経を夜討ちにして仇討ちを成し遂げた二人(能『夜討曽我』)ですが、兄の十郎祐成は新田四郎に討たれ、五郎時致は生け捕られ鎌倉幕府に送られ遂に斬首されてしまいます。兄弟の墓はここ富士の裾野の箱根に寄り添うように置かれていますが、兄の墓の隣には、生前愛した虎御前の墓もありました。この三つの墓を拝んでいると、ひとり大人になりきれなかった五郎の姿が目に浮かんで来て、哀れを誘います。
兄弟の墓から離れ、道路の下のトンネルをくぐると反対側には石仏石塔群がありました。
そしてそれよりすこし下ると、立派な多田満仲のお墓があります。
多田満仲は源氏の祖といわれ、能『満仲』(観世流は『仲光』)に登場します。
能『満仲』は家来の藤原仲光が主君満仲より美女丸を刺殺するように命を受け、苦渋の末わが子を代わりに手にかけてしまうという、現代では考えられない忠誠心の話です。家来という立場での悲しい状況を題材にした現在物で、父菊生の十八番でもありました。私もいつか演じたいと思っています。
では写真でご紹介していきます。

左に見えるのが国道1号線、右手前に曽我兄弟の墓が見えます

左に弟五郎、中央に兄十郎、その右隣に虎御前の墓。

供養塔の右に小さくある墓標。

曽我兄弟の墓の反対側に出るには最近完成したこのトンネルをくぐります。

トンネル内は意外と綺麗でした。

トンネルを出ると大きな岩に掘られている石仏が沢山見られます。

多田満仲の墓。

印塔の説明。

17年のゆかた会の翌日、観光日の写真探訪でした。あいにくその日は雨に降られてしまいました。
多賀城周辺と塩釜、松島の旅投稿日:2005-07-15

平成17年5月5日、前日の仙台みちのく明生会の稽古の翌日は仙台近郊の謡蹟めぐりに行ってきました。
仙石線、あおば通り駅より多賀城駅下車、『烏頭』に謡われる、「末の松山」「沖の石」を探訪し、午後に予定されていた松島の島巡りまで時間の余裕があったので、「多賀城政庁址」まで足を伸ばしてみました。
多賀城駅に一度戻り、再度仙石線に乗車、松島海岸駅にて下車し、「雄島」を散策し塩釜港行きの遊覧連絡船を利用して、点在する島々を眺めながら「塩釜神社」を目指しました。
塩釜神社は丁度、特別天然記念樹「塩釜桜」が満開で絶好の時期で、最後に御釜神社に参拝して、管理人の御婆様に実際に御釜を見せて頂き、説明していただきました。午後2時に一応予定されたものはすべて廻れたので、いよいよメインイベント待望の塩釜といえば寿司のとおり、寿司屋を一軒決めて打ち上げの一杯となりました。
今回の同行者はみちのく明生会の小島 誠氏と泉田成美氏(この方は男性)と男ばかり3人という色気のない旅でしたが、男性のお弟子さんと和気あいあいと旅するのも、またそれなりにいいもので、楽しく勉強になる謡蹟めぐりとなりました。お二人のご協力には感謝しております。
では写真でご紹介いたします。

末の松山
多賀城駅から徒歩8分ぐらいに寶国寺があり、その裏山に「末の松山」はあります。二本の大木の松があるこのあたりまで、昔は海だったようで、『烏頭』「末の松山風荒れて袖に浪越す沖の石」や『砧』「末の松山千代までとかけし頼みは徒波の」と謡われています。

沖の石
末の松山から下ると沖の石があります。海の中にあった奇岩も現在は住宅街の中にぽつんとあり、情緒はまったく感じられません。

多賀城址
『田村』の坂上田村麿が東夷を平定するための根拠地が多賀城です。
左に見える覆堂は壺碑(つぼのいしぶみ)で城の位置を記載した古碑です。

政庁址
日本三大史跡は太宰府と平城宮と多賀城政庁です、今年(平成17年)は9月に太宰府で薪能があり一年で三ケ所を見られることになります

雄島
瑞巌寺の修行僧が座禅をした島として有名です

卒都婆
雄島に渡る手前の岸壁には卒都婆の形に掘られた洞窟がある。

籬が島
塩釜港の手前には「籬が島」があります。小さなお社がありますが、写真では見辛いですが、融の大臣はこの塩釜の風景を真似して、京の都で汐を焼いて遊んだのですから、なんともスケールの大きさを感じます。

男坂入り口
塩釜神社には男坂、女坂があり、男坂は急坂で上るのが大変です。私たちは女坂を車で上ってしまい、楽が出来ましたが帰りはこの急坂をおりることにしました。

塩釜神社
ここの枝垂れ桜が終わる頃、塩釜桜の見頃となります。

男坂
下に見える鳥居をご覧いただくときつい勾配が御判りになると思います。

狛犬
「東北地方は狛犬のお顔が違うでしょ」の泉田さんの説明に、「なるほど!」と思い、パチリ!!

塩釜桜
丁度満開な八重桜の塩釜ザクラ

融が岡
源融がここに来たと言う「融が岡」。京の都からココまで道中大変だったと思いますが、どうも実際は来ていないようです。

御釜神社
鳥居の左には融の大臣が都で塩を焼いた竃の原形とされる大鉄釜が保存されている。

御釜
中は撮影禁止。4つの御釜があり底の浅いのが1つ、あとは深いらしいです。実際に海水が入っていますが、木の葉が落ちていて赤茶色に濁って見えたのは残念でしたが、本当は透き通るように見えますと、管理人の説明でした。

現在使用する釜
一年に一度、御神事としてここで藻塩を焼き塩釜神社に献上する

しらはた寿司の裏
打ち上げ場所のしらはた寿司は魚市場の裏になり、新鮮な魚が安く豊富にありました。
奈良・飛鳥の旅投稿日:2005-07-15

平成17年4月29日から5月1日まで、奈良大和路の飛鳥を中心に謡蹟めぐりの旅に出かけました。
能の作品は奈良地方を題材にしているものが多く、謡蹟の宝庫です。
飛鳥(明日香)まで足を伸ばすとさすがに時代が古く、なかなか謡蹟はありませんが、今回は謡と無縁な所も写真にてご紹介します。
まずコースからご案内します。
■初日のコース■
★奈良駅より法隆寺・中宮寺~龍田神社
JR法隆寺駅を下車、駅前より小型バスにて法隆寺門まで7,8分。法隆寺境内は広いので空身で参拝したく、門前で一時荷物預りを捜しましたが、残念ながらありませんでした。昼食をとったお店にお願いして荷物を置かしていただき助かりました。境内は撮影禁止が多くここでご紹介できませんが、南大門、五重塔、金堂を廻りました。やはりこの日の目的の第一は大宝蔵院です。玉虫厨子などが有名ですが、なんといっても「百済観音」です。あの長身でしなやかな身体のラインは魅力的でおもわず触りたくなります。
西院伽藍から東院伽藍に移動しますと、夢殿があります。能『夢殿』は故喜多実先生のお作りになられた新作能であり、以前、現喜多六平太宗家が実物の夢殿を背景に舞われたことがあります。今回はちょうど、秘仏「救世観音像」が見られる幸運な時期でした。夢殿の奥に中宮寺があり、本尊「如意輪観世音菩薩半跏思惟像」は神秘的なほほ笑みをたたえていて、これも私のお気に入りの仏像です。
法隆寺の近くに『龍田』ゆかりの龍田神社があります。聖徳太子が宮を造る地をさがしているときに斑鳩の地を御告げになったのがこの明神と言われています。またここは坂戸座申楽の発祥の地でもあります。
■二日目のコース■
★在原神社~結崎の面塚~補厳寺~石舞台~昼食~酒舟石~飛鳥寺~橘寺~長谷寺(湯本、井谷屋宿泊)
二日目は貸切りタクシーにて、マニアックな謡蹟めぐりから始まりました。
まず『井筒』ゆかりの在原神社です。「西名阪国道バイパス開通のため、その場所を少し移動させられた」と神社の広場にてゲートボールを楽しむ地元の爺様婆様達が教えてくれました。
次に結崎座(観世流)発祥の地と面塚に向かいました。場所は川西町の寺川の横に結崎公園として綺麗に整地され、観世流の意気込みが感じられます。次に田原本町味間の世阿弥夫妻が出家した補厳寺(ほがんじ)を訪れ、石碑を見るだけとなりましたが、貴重な資料が門のところに置いてありましたので頂いてきました。
(読みたい方は添付ファイルからご覧下さい)
補巌寺をあとに、飛鳥の石舞台に向かいました。昼食を済ませ酒舟石を見学、飛鳥寺に着くと、丁度飛鳥時代の蹴鞠の再現をしていました。服装やルールなど面白く見られましたが、蹴鞠の技術はまだまだ未熟で、保存会の方々も「練習不足やー」と照れておられました。時間に余裕があったので橘寺にもまわり、いよいよ初瀬の長谷寺に向かうときに飛鳥川を見るのを失念していたことに気づき、運転手さんにお願いしましたが、時間がギリギリですからとの返答で諦めました。
長谷寺は今回で3回目ですが、お気に入りのお寺の一つです。丁度牡丹まつりで満開の牡丹を堪能できました。そのため大混雑で急に疲れてしまいましたが・・・。下山途中の東道に『玉葛』の「二本の杉」があり、私以外の参加者全員で『玉葛』の一節を、人が来ないかびくびくしながらも無事謡い終えました。直ぐ隣には定家と俊成の墓もあり合掌して参りました。
■三日目のコース■
★長谷寺~奈良国立博物館(館内にて昼食)~白毫寺~新薬師寺~海竜王寺~不退寺~東大寺戒壇院~奈良
朝早く目が覚めてしまい、尾上の鐘や真言宗の読経が聞きたくなって、ひとり急いで長谷寺に登ることにしました。五時半はさすがに人が少なく、鐘の音や読経が聞けて気持ちの良い一日の始まりとなりました。本堂前にてお経を聞いていると、二名の参加者も早く起きたからとお参りにやってきました。
その後、全員宿を出て、近鉄奈良駅に移動し、奈良国立博物館の常設展「仏教の美術の名品」を拝観しました。またも運良く唐招提寺の「木心乾漆薬師如来立像」が特別出陳されていました。お昼に昨日のタクシーにまたお願いして「白毫寺」に登り、閻魔様にご挨拶して、「新薬師寺」に行きました。
ここの十二神将は有名でみな国宝ですが、一体のみ昭和の作であるため、それだけが国宝ではないのだとか。十二神将は十二支それぞれの守り神です。では昭和の作は何年でしょうか?
答えは 辰です。
海竜王寺を拝観し不退寺に伺うと、住職さんが親切丁寧に説明して下さいました。その説明の一部をご紹介します。
「不退寺は業平寺とも呼ばれ、在原業平が住まわれたところです。どうぞどんどん前へ出られて構いません。見て下さい。丁度業平画像がございます。ゆっくりもっと近くで見て下さい。えー男でしょ、56歳ですわ。本堂は右に春日大明神、中央に聖観世音菩薩立像、左に阿保親王座像と神仏混合ですわ。奈良ではそうめずらしいことではないのですわ」
「一つお聞きしていいですか?釈迦涅槃の時に何かがいなかったですね? なにでしたっけ?」
「猫ですわ。理由? いろいろありますが、絵師が中国人で中国に猫がいなかったとか……、ほな涅槃図説明しましょう!(中略)で……お母様の摩耶夫人が天からお釈迦さまにお薬を投げられたんですわ。でも沙羅双樹にひっかかってしもうて……それでお薬出すこと投薬いいますねん」
参加者皆「へぇ………………」
そして最後は東大寺戒壇院の四天王をお参りして旅は終わりました。
私は今年、50歳になります。いつかはじめてみようと思っていた朱印帖。
初めのページが法隆寺というのもいいかな……と今回決断しました。
「年寄り臭い、お金がかかる」と言われそうですが、最近ついこの間のことなのに、どこへ誰と行ったか、思い出せないことが多くなりました。まずい、危険信号です。自分の軌跡確認のためにも写真探訪をまとめていますが、そこに朱印帖も仲間入りさせては……ということです。
奈良のお寺の朱印は¥300,拝観料は¥300が普通です。
ところが最近東大寺や白毫寺は値上げして¥500です。それでも京都に比べたら、まだいいのですが、お寺参り、仏像鑑賞となると意外に物入りです。気づくのが少し遅いのかもしれません。
では写真でご紹介いたします。
一部写真でご案内出来ないところもありますが、ご覧下さい。

南大門
法隆寺で撮影が出来たのは、ここだけでした。

龍田神社
法隆寺から車で2,3分。能『龍田』の舞台ですが、誰もいない寂しい神社でした。

金剛流発祥の地の石碑
龍田神社前の古道は奈良街道と呼ばれ、市(いち)が栄えていました。その市を拠点に活躍した坂戸座申楽が現在の金剛流です。

綺麗に整備された龍田川
『龍田』は紅葉の名所の龍田川を渡ろうとする旅僧に巫女、実は龍田姫が渡るなと制しますが、どこあたりか気になります。

三室山
「神南の三室の岸や崩るらん」と謡われる、正面の小さいお山が三室山です。

謡曲史跡保存会の看板
神社の石碑には表に在原寺、裏には在原神社と書かれていました。場所は桜井線の櫟本駅(いちのもとえき)下車、徒歩10分。

『井筒』の井戸
西名阪道路側よりの撮影です。

井筒板井
大きな木蓋が置かれていましたが、ゲートボールをしていた地元の大先輩の方々が親切に開けてくれました。

「業平の~面影」のポーズ
井戸には水があり、少し汚いですが、ちゃんとお顔が写るのです。
そこで はい!ポーズ! 「見れば懐かしや」・・・。

一叢薄
「一叢薄の穂に出づるは」と『井筒』の初同に謡われている一叢薄が実際にありました。

面塚
寺川沿いに面塚公園が出来ており、隣接して面塚がありました。その奥には観世発祥の地の大きな石碑があり、廻りを囲む石の柵に観世流の方々の名前が刻まれています。正面入り口の右に東京・観世元正、左には観世銕之亟と、沢山の方のお名前があり、この石碑がご寄付から出来たものと直ぐに解ります。

補巌寺の世阿弥参学の碑
世阿弥夫妻はここで出家し禅を学び、至翁禅門、寿椿禅尼と呼ばれ供養されました。

三輪山
石舞台に向かう途中にジャンボタクシーから撮影しました。左下に小さく、実際は巨大な鳥居がみえます。

石舞台古墳
「石舞台というから誰が、何を踊っていたのかなあ…」と呟いたら、「あら、やだ! 蘇我馬子の墓ですよ…」と恥をかいてしまいました。
しかしパンフレットには、実際は誰の墓か確定しておらず、名称も此の石の上に上って、踊っていた人がいたため石舞台と呼ばれている、と記載されていました。裏に廻ると地下に潜れてその大きさを体感することができます。

飛鳥寺大仏
日本最古の大仏ですが、撮影自由です。思いっきり近づき撮影しましたが、これ以上近寄ると何か祟りがありそうに思えてきて、ここの位置でパチリ!

飛鳥時代の蹴鞠
保存会の方、大汗かいて健闘されていましたが、なにぶんもうちょっと蹴り上げている時間が続くといいのですが……。はっきり言って稽古不足!ですね。

橘寺の塔址心礎
五重塔の心柱を支える心礎です。土門拳の作品にこの写真があり、真似して撮影したのですが、写真を見てこうも違うのかとガッカリです。当たり前ですが、負けず嫌いの私、カメラのせいにしています。

二本の杉への看板
玉葛が母夕顔の侍女右近に再会した二本の杉、石段の第一段の途中、宗宝蔵の近くにこの看板があります。右折するとお墓に行けますが、まずここを右折する人はいないでしょう。長谷寺本堂までの長い石段はまだまだ序の口で、これから第二段、第三段と続きます。でも今回は牡丹が最盛期でした。

長谷寺本堂前にて記念撮影
半跏思惟の構えの筆者を囲んで今回の参加者一同。撮影者は写らない伊奈山氏です

二本の杉
「謡蹟めぐり・青木実著」では朱塗りの拝殿が撮影されていましたが、現存していませんでした。拝殿がないとなんだか異様な景色に見えるのですが……、私だけかな………。

保存会の立て看板
「こんなにお世話になっているから、いつか保存会に寄付なさったほうがいいじゃないですか!」と周りから執拗にいわれています。

立ち連吟『玉葛』
謡い出したら、あたりのことなど気にならないのでしょうか……。
大きな声で揃って上手に謡えました。ホッ!

定家(中央)と俊成(右)の墓
藤原定家はここの鐘楼を「尾上の鐘」と詠んだためにここに眠られているのでしょうか?もう少し立派でもいいのにと思いました。

古河野辺(ふるかわのべ)
『玉葛』に「古河野辺に君を見ましやと…」とあります。この下を初瀬川が流れ、能ではここまで小舟で上るように謡いますが、実際舟では椿市までしか上れないのです。こういうところがお能の世界のいい加減でありながら、よいところではないしょうか?

旅館井谷屋さん
二日目の宿は温泉旅館です。本日の疲れを千人風呂の温泉で癒します

長谷寺の尾上の鐘
前日見落とした「尾上の鐘」。しかしどこを見渡しても見つかりません。
ふと上を見上げるとありました。

天井裏にある尾上の鐘
朝6時と昼12時の二回だけしか打ちませんので、丁度聞けたのはラッキーです。

鐘楼遠景
絵馬堂横から見ると鐘の位置がはっきり確認出来ます。

不退寺
在原業平が住まわれたお寺です。お若い住職様はお話上手です。質問には丁寧にお答え頂き感謝しています。
以上で終わります。ご高覧有り難うございました。
能『藤戸』ゆかりの地を訪ねる投稿日:2005-05-15

平成17年4月15日、厳島神社御神能の前日に時間が出来て、お天気もよく桜もまだ咲いている様子でしたので、岡山県倉敷市へ謡蹟巡りに出かけました。
広島駅から新幹線で新倉敷駅にて下車、タクシー乗り場に行き運転手さんに、
「藤戸町に行って下さい、藤戸の渡り、乗りだし岩などが見たいので」というと、
「それなんですか?」と先行き不安なそっけないお返事。それでも、とりあえず乗車しました。
「『藤戸』という能の曲がありましてねえ。それに関連したところに行きたいのです。かなりマニアックなところですが、よろしく」
「??…??…まあ…藤戸町まで行ってみますね。そこら辺で聞けば判るでしょう…」
「大丈夫かな……」と内心思っていると、
「お客さんねぇ…、普通はここからは行かんですよ。倉敷からの方が近いけね…」と。
どうも新倉敷駅から藤戸町までのタクシー利用は珍しいらしい。今度はお財布が心配になり「料金は幾らぐらいかかるの?…」と聞くと、
「行くだけで4000円越えるよ!」の答え。
もうしょうがない、あきらめて「いいですよ、地図に書いてあるところ全部廻るから、よろしく! これがその地図です…」
「はあ…見てもわからんけに……」
以上が車中の会話でした。
「謡蹟巡り西日本編・青木実著」を頼りに、まず「藤戸の渡り」があったと言われる、倉敷市有城小瀬戸に向かいました。
地図の記載がおおまかで詳細な所在が判らないので地元の人に聞いてみることに。タクシーの運転手さんがガソリンスタンドに入り若者に尋ねてくれました。
「有城1348下電バス小瀬戸はどこ?」
「え…、そんなん知らんな…」
「お客さん、知らんっていいますが…」
「乗り出し岩というところなんだけどなあ……」と私。
すると突然、「あっ、そこや!」と直ぐ近く指さすではありませんか。乗り出し岩はまさしく目と鼻の先の街道に面している所にありました。その後も考えていた順番通りにはことは運ばず、あっちに行き過ぎ、こっちへ戻りと捜し廻る、まさに謡蹟をめぐる旅となりました。
ではここから、どうやら見つけることができた能『藤戸』ゆかりの地、「乗りだし岩」「経ヶ島」「藤戸寺」「浮き州岩」「先陣庵」を写真でご紹介します。

乗りだし岩
道路添いにある「乗り出し岩」に佐々木盛綱は陣を敷き渡海作戦を練ったといわれます。当時の海峡はほとんど埋め立てられ中世の海の面影は全くありませんでした。岩は大きく高台になっていたので盛綱は平家方を見ながらこれでは攻め込めないと悔しい思いをしていたのでしょう。その後、盛綱は浦の男に浅瀬を教えてもらい、戦功を上げますが、浦の男の悲劇につながっていきます。

乗り出し岩の看板
看板の下には小さな潅漑用水が流れています。この川のあたりも昔は海水だったのかと思われます。

乗り出し岩
小道の右側の岩が当時大きな岩であった乗り出し岩。岩の上に盛綱の石碑があります。

盛綱の石碑
岩の上にある小さな佐々木盛綱の石碑。

藤戸寺近辺の地図
謡蹟巡りの本では判らなかった位置関係も藤戸大橋のそばにあるこの看板地図で把握理解できました。浮き州の岩も通り過ぎてここまで来てしまいましたが、その後この地図を頼りに捜しあてることが出来ました。

盛綱橋
藤戸寺(盛綱が戦没者を弔ったといわれる寺)と経ヶ島を横切る倉敷川にかかる新しい盛綱橋。

佐々木盛綱像
新しい盛綱橋には盛綱像があります。この橋を渡ると経ヶ島です。手前が藤戸寺、奥が経ヶ島。

経ヶ島入り口
倉敷川添いにあり藤戸寺から盛綱橋を渡り徒歩5分です。

経ヶ島の由来
経塚と浦人の供養塔がありました。

経ヶ島の祠
この塚のあるところだけが岩石で盛り上がった地形で、当時は海の上に突き出ていたといわれています

盛綱橋遠景
盛綱が藤戸寺に向かって馬を走らせているように見えませんか?

盛綱像後方
橋の向い側に藤戸寺があります。

藤戸寺
「春の湊の行く末や藤戸の渡りなるらん」は『藤戸』の次第です。盛綱役のワキが謡います。
春の曲にふさわしく、この日もまだ桜が咲いていました。

謡曲保存会の立て看板
これがあるといつもほっとします。

藤戸供養塔
五重の石塔は盛綱が戦没者の供養のために建立したもの。

浮き州の岩
なかなか見つけられなかった浮き州の岩。まわりは何もありません。あたり一面海とたやすく想像出来ます。

浮き州の岩碑
浦の男は盛綱に殺され、この岩の近く水の深い所に沈められたのです。

岩の碑
現在京都醍醐寺三宝院の池水に置かれている「藤戸石」は秀吉の計らいでここから運ばれました。

合戦場跡の碑
藤戸寺と先陣庵を結ぶ道路添いにこの碑はありました。広い畑の中に少しずつ住宅が立ち並ぶ光景の中にぽつんとある碑。ここがかつて激戦地だったことを思い浮かべてみましたが……。

先陣庵
乗り出し岩から海を渡って軍勢はここに上陸しました。ここも高台で眺めはよく、広大な平地は昔海であったと想像出来ます。

史蹟保存会の看板
先陣庵を最後にこの謡蹟巡りは終わりました。いつか藤戸を勤めるときはこの日を思い出し、一度「子方出し」の小書で演じてみたいと思いました。
曽我兄弟と鎌倉武将ゆかりの地投稿日:2005-01-15

平成17年1月2日、3日は曽我兄弟と鎌倉武将の土肥実平や梶原景時などのゆかりの地を写真探訪してきました。富士の山には雲一つなく、すばらしい姿を見せ、私たちを迎えてくれているようで気持ちよい旅となりました。
初日は御殿場線の下曽我駅にて下車し、曽我兄弟が信仰していた力不動尊のある瑞雲寺、兄弟の墓のある城前寺へと徒歩にてまわり、一度国府津駅に戻り東海道線に乗り換え、湯河原駅にて、駅前ロータリーにある土肥実平館址、実平の像を記念撮影し、駅裏にある土肥実平、遠平親子の眠る城願寺を訪れました。
次に小田原駅まで戻り、小田急線にて箱根湯本駅近くの曽我堂を尋ね、最後は箱根湯本の湯を満喫して横浜に宿をとりました。二日目は横浜能楽堂近くにある御所五郎丸の墓を捜し、梶原景時ゆかりの地、鮫洲の海晏寺、西馬込万福寺をお参りし、写真は記載していませんが東京の大倉集古館、泉屋博古館分館にて大倉、住友の能コレクション(平成17 1/2~3/13公開)を楽しんできました。

国府津からの御殿場線は一時間に一本しかありません。乗り遅れると大変なので、今回は緻密に時刻表とにらめっこの旅となりました。

瑞雲寺や城前寺の場所が不明で困っていましたが、駅に案内があり助かりました。

瑞雲寺には曽我兄弟が念願成就のために祈願した力不動尊があります

祠に愛用のデジカメを入れ、レンズを回転させパチリ!

なんだかおかしな形のものがありますが、後ろに立看板が倒れていて「不動根」と書かれていて、読むと……。
男性には大きな力、たくましさを、子宝に恵まれたい女性はよい子を授けられます。男性は強く握って下さい、女性は跨いで下さいとあります。

城前寺は曽我兄弟の菩提寺です。曽我兄弟の育った曽我城の大手前にあるのでこの名があります。いつもは謡本が積まれている堂内が見られるといいますが、生憎、お正月でしたので閉まっていました。

城前寺より見る富士山。

左は兄弟、右は父祐信と母満江の墓で立派なものでした。

曽我家の家来団三郎、鬼王の碑。鬼王兄弟と記載されているのが私にはしっくりきません。能の世界では団三郎兄弟と謡っているためでしょうか。

この石は「五郎の沓石」といわれ城前寺の裏にあります。五郎が足を怪我し治った際、体力が衰えていないか心配になり試しに石の上で踏ん張ったところ、石が足形に窪んでしまい石の真ん中に足形が残っていると書かれていましたが、青木実著、謡蹟めぐりでは「時致の力石。五郎が身体鍛練のためバーベル代わりに用いていた」とあります。どちらが本当でしょうか?

下曽我駅前の正栄堂にて五郎力餅と曽我せんべいが売られており、名物のようです。名物にうまいもの無しというが、買い求めお餅は車中にて口にポイ!おいしいのだ!

湯河原駅前ロータリーには土肥実平像と館址の碑があります。土肥実平は頼朝の石橋山の挙兵に参じ敗戦するが頼朝を安房に逃すことになる、能『七騎落』のシテです。実平は頼朝再起に尽力し鎌倉幕府の重臣となり、「実平正しき忠勤の道に入る、弓矢の家こそ久しけれ」と謡われています。

城願寺は湯河原駅の裏山にあり見晴らしが良いところです。しかし徒歩でしか行けず、10分程度の登り坂ですがお年寄りには辛い場所です。

実平のお手植えといわれる、巨木のビャクシンは見事でした。

この保存会の看板を見つけると、ほっとします。

「はい! こちらが七騎堂です」。
能『七騎落』では「まず一番に田代殿、さて二番には新開の次郎、又三番には土屋三郎、四番は土佐坊、五番には実平候、六番には遠平、舳板には義實あり」と謡われますが、堂内には土佐坊の代わりに足達籐九郎盛長がありました。

土肥一族の墓。手前の左(少し茶色)が遠平、右端は実平の墓です。

箱根湯本駅から徒歩20分程で正眼禅寺に着きます。ここには曽我兄弟供養塔と曽我堂、五郎石突き石などがあります。

境内左手には、五郎が槍の石突で石を突き刺し強力を示したという石があります。
石は見たところどこを刺したかはっきり判らないものでした。

曽我堂へは少し坂道を上がって行きます。静かなところで、四季には様々な花が咲きそうです。

『夜討曽我』に登場する御所五郎丸の墓。この場所を捜すのに難儀したので、住所を記載します。横浜市西区伊勢町3-130。
御所五郎丸は曽我兄弟を祐経の館に導き見事仇討ちの本望を遂げさせ後、五郎を捕らえたとあります。能では女装してシテ五郎が油断したところを取り押さえると代わっています。

京急青物横丁、または鮫洲下車徒歩7分程で海晏寺がある。境内左手には囲いもない北条時頼の供養塔がありました。時頼は『鉢木』のワキとして最明寺殿といわれていた人物です。どうしてここにあるのだろうか?
梶原景時の供養塔を捜し、お寺の方にお聞きしたら「そんなもん知らんでーー」が返事でした。

馬込の万福寺には梶原景時の墓がります。

山門左手には名馬「墨麿=するすみ」の像があります。

能『箙』のシテ梶原源太景季はするすみを拝領しています。

梶原平三景時の墓。海晏寺の供養塔が確認出来なかったのは残念でしたが、万福寺の墓がたいそう立派なので安堵しました。梶原景時は『八島』『船弁慶』の謡にしか出てきませんが、お線香をあげてお参りし、今回の謡蹟めぐりはここで終了としました。
謡蹟巡り、木曾路の旅投稿日:2004-08-15

平成16年7月31日、8月1日と一泊二日で信州木曽路日義村に能『巴』の巴御前の故郷を訪ねる謡蹟巡りをしてきました。
東京よりJR長野新幹線にて長野へ、短い時間ながら善光寺にお参りし、篠ノ井線にて松本、塩尻を経て能『伯母捨』(喜多、金剛二流はこの字、他流は姨捨)の地、冠着山(姨捨山とも)のある姨捨駅で途中下車し長楽寺を訪ねました。姨捨駅は山の中腹にあるため、電車はスイッチバック方式と呼ばれる独特の運転で山を上ります。姨捨駅は電車の行き来も楽しめますが、ホームに降り立ったときの眺望のすばらしさは格別です。駅は無人、警報器もない踏み切りを横切り、先ず小高い姨捨公園で千曲川が流れる善光寺平の景観を堪能しました。公園から急な下り坂を500メートル程おりると長楽寺があります。この下り坂を歩きながら、同行のご高齢の方には帰りの上りがつらいのではと思い、途中で休んで待機されてはと申し上げましたが、皆さま頑張られ「棚田」などの名所を眺めることができました。中秋の名月ならばさぞ美しい景色でしょうが、この猛暑の中、汗を拭き拭き暑い暑いの姨捨で、それもまたよい想い出となりました。
再び乗車した電車は塩尻駅から中央本線へ入り、我々は日義村の宮ノ越駅で下車し、いよいよ今回の謡跡巡りのメインとなる『巴』や『兼平』そして喜多流にはない『木曾』にまつわるところをまわりました。
日義村は朝日将軍木曾義仲公の朝日の日と義仲の義をとり命名されるほど義仲贔屓の地で、義仲なくしては語れないほど、地元の人々に愛されています。宮ノ越駅からすぐ近くに木曾義仲の資料館「義仲館」があります。館のすぐ隣には義仲や巴そして家来達の墓がある「徳音寺」があり、山吹山に戻るように車を走らせると、巴御前が髪を洗ったと言われる「巴ヶ淵」があります。ここで参加者全員が『巴』を謡って供養し、義仲挙兵の地「南宮神社」と「旗挙八幡宮」にお参りし、最後に義仲の養父中原兼遠の墓のある「林昌寺」にもお参りしました。
宿泊地「駒の湯」は義仲が駒王丸と言われた若かりし頃、このあたりまで馬を乗り回していたであろうといわれるところで、静かな温泉地です。
翌日はこちらにも義仲の墓があるといわれる「興禅寺」にお参りし、能には関係ありませんが、江戸期に重要な役割を果たした山村代官屋敷跡を拝観しました。そして『兼平』『土車』に謡われる昔は難所の名所であった「木曽の棧」を見学し、喜多流にはない『寝覚』の舞台となる「寝覚の床」の景観を楽しみました。最後は上松(あげまつ)駅より南木曽(なぎそ)駅に移動し、妻籠宿を散策してこの旅を終えました。
涼しい、清々しい木曾路の旅を想像していましたが、今年の暑さは格別で、かなり疲れる旅となりました。それでも朝夕は気持ち良く、旅の疲れは同行の明生会社中の方々と温泉につかりながら・・・ということで、楽しい旅となりました。

暑い快晴の夏の日の姨捨駅。姨捨駅は全国でも珍しいスイッチバック式停車と列車給水の駅として明治33年(1900年)に開通しました。

姨捨駅ホームの右の線路は松本方面への下り線。

スイッチバック方式とは急勾配の途中に停車場を作るとき、本線から一旦分岐して折り返し停車する折り返し方式のことをいいます。写真で説明いたしましょう。まず松本からの電車は一旦駅をやり過ごします。

電車はバックして戻りホームに停車し、また方向を変えて中津川、名古屋方面に向かうというわけです。

姨捨公園より善光寺平の眺望。鏡合山から上る月がゆるやかに里に続く棚田や千曲川に映る美しさ。古来よりこの地を「田毎の月」と呼んでいます。一度秋に来てみたいものです。

長楽寺は決して大きなお寺ではありませんが、松尾芭蕉が更級紀行で名月の感動を歌に詠んでいます。

謡曲史跡保存会の立札、これを見つけると何故かほっとする。

駅近くにある丘陵地特有の棚田

姨捨駅は無人駅です。警報器のない踏み切りを渡る明生会社中。あるのは大きなミラーのみ。

電車のオレンジのラインと看板のラインが偶然一致しました。下車したのは我々10人だけでした。

宮ノ越駅近くにある義仲館には等身大の義仲の人形や絵画がありました。

義仲は平家物語では美男子と書かれています。この銅像もなかなかいい男。巴も美人で有名ですが、こちらはちょっと現代的な感じがしました。

義仲館の隣にある徳音寺は、義仲が母小枝御前を葬った寺で一族の菩提寺とされています。

境内には中央に義仲の墓、右側に小枝御前、家来の今井四郎兼平、左側に巴御前と樋口次郎兼光の墓碑があり、落ち着いた静かなお寺です。

義仲の墓

巴御前の墓には龍神院と書かれています。そのわけは?

巴淵は巴ヶ淵(ともえがふち)と呼ばれています。

巴御前の詳細が記されていますので、ご覧下さい。

山吹山の麓を迂回して形づくる深い淵に神秘的な渦がまくといわれています。眼下に見える淵の手前に浅瀬があり、巴御前にちなんで髪を洗えるところがあります。

周りに誰もいなかったので、安心して全員で『巴』の一節を謡い手向けました。

社中の方に、今回能『巴』を勤めると心に決めた方もいらしたようで、先が楽しみです。

義仲の戦勝祈願所。元は義仲の館を構えたところにあったようですが現在の場所に移されました。寂しい感じのする神社でした。

治承4年、源行家は以仁王の令旨を義仲に伝えました。平家追討の旗挙をして、この境内で戦勝祈願をしたことから「旗挙八幡宮」と呼ばれています。

拝殿脇にそびえる大欅は樹齢千年で幹の周囲は10メートルを越し日本古木の一つとして数えられていますが、近年落雷により二つに割れてしまいました。幸い片方の幹から緑の葉を広げ大木を今に残しています。

林昌寺は中原兼遠の菩提寺。墓地より木曾の山々が美しく見えます。

中原兼遠の墓。兼遠は巴の父であり、木曾義仲の育ての親でもあります。義仲の父、源義賢は武蔵大蔵庄にて源義朝の奇襲をうけ、その子悪源太義平に討たれます。義仲の母小枝は二歳の駒王丸を連れて畠山重忠を頼りますが、結局齋藤別当実盛によって木曾の中原家に届けられます。能『実盛』では「木曾と組まんとたくみしを…」と老兵実盛は自ら助けた木曾殿に首を打たれたかったようで、それを暗示しています。

宿泊地「駒の湯温泉」

興禅寺はきれいに整備されたお寺で義仲公の墓もありました。

義仲の墓。義仲は粟津が原で義経の軍に破れ31歳で世を去りました。その時の護衛はわずか5騎とも13騎ともいわれていますが、その中に巴の姿がありました。義仲は「死に臨み女を従えるは後世の恥」といって遺髪を巴御前に托します。ここにこの遺髪が納められているといいます。生憎今回は拝見出来ず残念でした。

木曾の棧は木曾街道の命がけの難所といわれ、木曽川の断崖に平行して掛けられた木の桟道でした。江戸期に消失してから石で補修し、今はその一部だけを見せていますが、謡で謡われた当時の面影を残すものは残念ながらありませんでした。

石が積まれているところが棧です。『兼平』のワキの道行には「信濃路や木曾の棧、名にしおふ」、『土車』では「殊更、当国信濃路や、木曾の棧かけてげに」と皆恐れながらここを通過したようです。

寝覚の床は木曽川の奇岩とエメラルドグリーンの水面が美しい名勝で、喜多流にはありませんが能『寝覚』の舞台です。延喜の御代に寝覚の床の三帰(みかえり)の翁が寿命めでたき薬を服し三度若やぎます。やがて天女や龍神が三帰の翁と共に現れ、薬を勅使に与え木曾の棧を打ち渡り、明け方の空に消えたという話です。また、竜宮城から戻った太郎が諸国を旅してまわり、途中で立ち寄った寝覚の里の美しさにひかれここに住んだといわれます。ある日昔を思い出し、床岩と名付けられた岩の上で玉手箱を開けた途端300歳の老人になったと伝えられています。岩の上の松の間には小さな祠の浦島堂がありました。

妻籠宿は全国ではじめて古い町並みを保存した宿場町です。この旅の最後はここでおみやげ三昧となり、無事旅行は終わりました。
駿河の国投稿日:2004-07-15

平成16年5月1日2日に明生会社中の有志にて企画された「三保の松原にて『羽衣』を謡うツアー」に行って参りました。また『羽衣』に因んだ場所や『三井寺』に関連する清見寺(せいけんじ)や『七騎落』にゆかりのある佐奈田霊社などの謡蹟も尋ねてきました。
能『羽衣』のキリの謡は「天の羽衣浦風に棚引き棚引く、三保の松原浮き島が雲の、愛鷹山や富士の高嶺…」とあります。この「浮き島」は富士山の噴火により出来上がったといわれる愛鷹山が太平洋との間に作った湿原地帯のことをいいます。このあたりは古代人の住み処でもあったようで、歴史資料の宝庫と聞いています。

沼津より三保の松原に向かう国道一号線の富士市付近の車窓から右手奥に富士山、手前に愛鷹山が見えました。浮き島とは国道と愛鷹山との間の一段低くなった湿原一帯のことです。

沢山の立派な松が群生しています。

天女が羽衣を掛けたと言われる「羽衣の松」。風の影響でしょうか、幹は大きくかなり曲がっていて松葉が少ないのが気になりました。能では漁師(ワキ)の名前は白龍(はくりょう)と書きますが、現地では伯梁(はくりょう)の字を当てています。

清見寺(せいけんじ)は東海道線興津駅の近くにあり、線路に面しています。
宗派は禅宗臨済宗で本堂は石を敷き詰めた中国式の形となっていると社中の松下宗伯氏が説明して下さいました。

丁度ツツジが見ごろでした。近くに「清見潟」というバス停がありましたので、昔はこのあたりも海岸であったと思われます。

左の塔が『三井寺』にでてくる鐘楼

清見寺の由緒

『三井寺』のシテは「常は清見寺の鐘を聞きなれしに」とこの鐘を聞いていたのです。

鐘楼からは太平洋が一望できますが、今は埋め立てが進みその景色は昔とはだいぶ違うようです。

『三井寺』の子方は「何のう清見が関の者と申し候か」と母に謡いかけます。ここは昔から重要な関所だったようです。

東海道線の根府川駅を下車して車で5分ほど早川の方に向かうと石橋山合戦場があります。「佐奈田霊社に訪れる人などいないでしょう?」とタクシーの運転者さんに尋ねると「いやー歴史愛好家が今でも沢山きますよ」と返事が返ってきました。

石橋山合戦と佐奈田霊社の説明。

佐奈田(真田とも)与一の塚。『七騎落』にツレの老兵岡崎義実が「自分の息子が佐奈田与一であり、頼朝に命を捧げた」と謡っています。

佐奈田霊社の全景です。

石橋山合戦の模様

戦いの時の与一の手形といわれる石。

これが与一の手形。本当かどうかは、わかりませんが、見ていると与一25歳の青年の無念な叫びが聞こえてきそうです。
謡蹟めぐり 大阪近郊投稿日:2004-05-15

16年3月15日、住吉大社、浅澤神社、遠里小野(おりおの)、仁徳天皇陵、道明寺のコースで謡蹟巡りをしました。
津の国住吉の里は、昔住之江、墨江などと呼ばれ、能『高砂』の待謡「はや住の江に着きにけり」にある通り、難波の入り江は住吉大社近くまで迫り、大社前には燈篭がいくつもありました。今は埋め立てがすすみ住吉大社前は大きな住吉公園となって昔の面影はありません。
住吉大社近くの道場館の人に、浅澤神社や遠里小野への道を教えてもらい、昔を偲ぶ風情でもと、遠里小野らしい写真欲しさに、少し期待しながら熊野街道を歩きました。電車で4駅分もの長距離を歩いても、それらしき景色はなく、あきらめて堺市と住吉市を渡す「遠里小野橋」から路面電車に乗り住吉大社まで引き返しました。
昼食後、仁徳天皇陵へ向かいました。月曜日のため博物館、日本庭園は休館とは知りながらも、やはり近くまで来ると拝観出来ないのが心残りでした。
百舌駅から天王寺駅まで戻り、道明寺へ向かいました。道明寺は道明寺天満宮と寺と二つに分かれていますので、お寺から先に参りました。看板にご本尊十一面観音の記載があり、喜んで本堂に行くと拝観は18,29日のみとあり落胆しました。それでも絵はがきを買いお話を伺ううちに、自分が能楽師であると明かし、能『道明寺』のなかで謡われている木ゲン樹のことなどに話が及んでくると、「特別に拝観させてあげましょう」との尼僧のお言葉。大喜びして拝見いたしました。御堂で、尼僧が道明寺の歴史などいろいろ説明して下さり、実りある一日となりました。
天満宮はお寺の隣にあり、敷地は広く桜も咲き始めていました。本殿の前には能舞台が有り、5月には天神能が催されるようです。梅園は花の時期を過ぎていましたが、シーズン中はなかなかの混みようだろうと推察出来ました。
今回の旅では奈良や京都に比べ、謡蹟保存会の立て札も無く、昔を偲ぶ旅にはなりませんでしたが、楽しい一日を過ごすことができました。

住吉高燈篭は今は住吉公園近くの交差点にあります

急坂な太鼓橋の上より住吉大社。
昔は西の海に面し前には広大な松原があったようです。
『高砂』は「岸の姫松幾世経ぬらん」「松影もうつるなる」などこの地の松に縁があります。
他に『岩船』『住吉詣』にもゆかりの地です。

四社ある本殿は住吉三神と神功皇后が合祀されています。
『雨月』の西行法師もここに参詣しています。

浅澤神社は杜若苑ともいい、空濠には杜若が植えてある小さな社です。
『富士太鼓』『梅枝』の富士の妻とその子供を祀っているといわれています。

遠里小野にある街道石碑。家が建て込んで、能『雨月』の村雨の風情を感じるところではないと思いました。

今も街道は狭い。

遠里小野(おりおの)は能『雨月』では(とおざとおの)と謡います。

住吉大社に戻る車中。

路面電車

仁徳天皇陵

道明寺

小さくても品のある山門。

境内は静かで広い。

道明寺の解説。

十一面観音が安置されている本堂。

杏子と山門。

能『道明寺』のワキの夢枕に出た「モクゲン樹」。この木の「木の実」で数珠を作ります。夢はこの数珠で念仏百万遍を修業すると往生できるというもの。

道明寺天満宮

『老松』にも謡われる「さざれ石」。

「さざれ石」はいくつもの小石が集まり出来たものです。

橋掛りのない能舞台でした。

「白太夫が小忌の袖より取るや笏拍子…」の白太夫社。能『道明寺』の後シテは白太夫の神です。楽を奏し木の実を振るい落としたと見ると、僧の夢は覚めました。

本殿後ろに梅園があり、梅の香が匂う時期にまた来たいと思いました。
沖縄公演と観光投稿日:2004-03-15

平成16年2月28日、29日は「国立劇場おきなわ」の開場記念公演として「沖縄の伝統芸能に影響を与えた本土の芸能 能楽」と題し、観世流、喜多流二流の公演が催されました。喜多流は28日、半能『石橋(連獅子)』シテ香川靖嗣、ツレ塩津哲生、29日、能『船弁慶(真の伝)』友枝昭世の番組でした。
28日の喜多流の『石橋』は夜8時頃からの公演のため、昼は喜多流有志でマイクロバスをチャーターして、那覇市内を観光しました。
沖縄みやげ話
今回、食べ物の注文の仕方に驚きました。
普通「トンカツ」と注文したら「トンカツ」一品が出るものですが、沖縄では「トンカツ」といったら「ごはん」と「みそ汁」はセットになっています。
本土の人が、「トンカツ定食」を食べようと、メニューを見たら「トンカツ」としか書かれていないので、お店の人に「トンカツ」と「ごはん」それに「みそ汁」もと注文しました。店の人は少し驚いたようですが、注文した人が大変太っていたので、注文通り、品物を出すことになりました。
さて運ばれてくる品々を見てびっくり!「みそ汁」と「ごはん」が山のように並んだのです。
何故なら、頼んだ「トンカツ」には元々「ごはん」と「みそ汁」があり、本土の「トンカツ定食」にあたります。
しかし太った注文人は、ご丁寧に「ごはん」と「みそ汁」もと注文してしまったから大変です。まず「ごはん」が別に持ってこられ、「みそ汁」も注文したので、「みそ汁」が一つ出てくればよいのですが、「みそ汁」にも「ごはん」が付いているので、運ばれた「ごはん」は3杯となったのです。
つまり注文した人の前には「トンカツ」1つに「みそ汁」2杯、そして「ごはん」3杯が並んだということです。沖縄の「みそ汁」は大どんぶりに盛られてきます。後ほど写真をご覧下さい。
以上はタクシーの運転手さんが市内を説明しながら話してくれた、面白い話でしたが、まさか私たちが同じことを経験するとは思いませんでした。
今回の写真探訪は27日の沖縄入りから28日の那覇市内観光、そして能楽師の舞台裏までをご紹介いたします。

午後2時に那覇空港に到着、どことなく外国を感じる景色です。
空港を出てホテルに向かうタクシーからまず一枚、パチ!

我々(能夫氏と私)は、先発の出雲康雅氏、谷大作氏と今は少なくなった公設市場で待ち合わせ。待ち合わせの場所の目の前には、豚さんがいました。

海産物売り場で買ったものは二階の食堂で料理してくれるというので、試しに渡り蟹と伊勢エビを注文。お買い上げ!¥6000。

二階の食堂でビールを飲みながら待つこと4~5分、まず伊勢エビの刺し身が運ばれました。頭はみそ汁に、これが抜群においしかった。
魚を持ち込むと食堂では手数料として¥500といわれたので、「まあー仕方がないか」と我慢したら「一人¥500」というので驚きました。もちろん「安くして」と値切り、それでも一人¥400。土地の人は市場は観光客用なので、ちっとも安くないといって、行かないそうです。

国際通りにある、むつみ橋通り街の中に公設市場はあります。

骨董通りの中には三味線を作る店もありました。

宿泊地ロワジールホテルの夕食後、目の前のスーパーマーケットで酒と肴のお買い物。東京で¥4000ぐらいかなと思ったら、なんと¥2400!
レジの女性に「おー安い! 間違いじゃないの」といいましたら、「間違いじゃないよ、沖縄はものが安いの」とのお返事。

那覇市内観光バスの中。皆、元気です。

琉球王室、尚氏の墓室の玉陵(たまうどぅん)。

中央の女性は友枝雄人夫人。今回は友枝夫妻がツアーのお世話をして下さいました。

正面より、一同礼をして入りました。

玉陵の中。墓室は三つに分かれています。沖縄決戦で大きな被害を受けましたが、今は往時の姿を取り戻しました。

玉陵から徒歩3、4分で首里城公園です。入り口近くでは琉球衣装を着た女性が必死に記念写真の勧誘をしてきます。

門に向かう

友枝雄太郎君と私

金子敬一郎氏、出雲康雅氏、長島茂氏

首里城関係者は皆さん琉球王朝時代の衣装を着ています。

首里城は山の頂にあります。
「階段を見ると万里の長城を思い出すなー」と長島氏。
後ろ姿に早くも疲労が見られると思うのは私だけでしょうか?

首里城宮殿前の広場にて、中村邦生氏、粟谷能夫氏、友枝雄人氏。

広場では一日3回4つの琉球舞踊が無料で見られます。

宮殿全景

宮殿内の手洗いはお洒落。獅子の口から水が出ます。

快晴の観光日和でした。

この日の首里城は能楽師だらけ。宮殿を出た喫煙所でよくお見かけるする面々と遭遇しました。(左から)下掛宝生流の宝生欣哉氏、大日方寛氏、梅若の角当直隆氏、山崎正道氏に下掛宝生流の御厨 誠氏。

粟谷能夫氏

沖縄独特の屋根瓦の前で中村邦生氏。

「いろは亭」で沖縄家庭料理をいただきました。

沖縄のビールはこれ!さっぱり系で飲みやすいオリオンビールです。

何を食べようとすると、この顔になるのかなー?
狩野了一氏と出雲康雅氏

昼食後、識名園を観光。 識名園は琉球王家の別邸。

お茶のお点前に参加した友枝雄太郎君。お行儀よくお作法していました。御立派!

廻遊式庭園は広く、池の中には六角堂や石橋があります。
観光は2時に終了して一度ホテルに戻り、公演に備えました。

『石橋』の装束着付け、楽屋が狭く大変でした。

二日目、昼食の楽屋弁当に食堂でみそ汁を頼んだ出雲康雅氏と私。
このあと大変なことが!

国立劇場で出された弁当。これにみそ汁一杯をつけたつもりがー。

豚汁定食が出てきた! 確かに販売機で買う時¥450は少々高いなーとは思いましたが。

沖縄公演終了後、観世流の方と夕食会。場所はステーキハウス「碧」。
ここはスタッフが女性のみという珍しいお店。
参加者、観世流、武田宗和氏、岡 久広氏、関根祥人氏。
喜多流、粟谷能夫氏、出雲康雅氏、谷大作氏、長島茂氏と私。

能楽協会東京支部長、武田宗和氏が夕食会を手配して下さいました。

ワイン片手にごきげんな出雲康雅氏と岡 久広氏。

長島 茂氏と関根祥人氏。
これ以後の写真はホームページでは公開出来ませんので、ここで終了とさせていただきます。
ご高覧有難うございました。
奈良、京都の旅、15年秋投稿日:2003-11-15

15年の秋の紅葉の時期、今年も謡蹟めぐりに奈良、京都の旅を楽しんできました。
今年の天候は11月に入っても温暖な日が続いたため、京都の紅葉は生憎今一つでしたが、奈良は綺麗な紅葉が始まっていて、特に談山神社の紅葉は期待通り、見事でした。
いつものとおり、謡蹟めぐりを主に動き回る奇妙な旅ですが、今回は同行者に仏像フリーク、仏像大好きの方がいらっしゃったので説明を聞きながら、普通見ない所まで足を延ばし、くたくたになるほど歩き回り堪能してきました。
今回の旅のお目当ては、世阿弥が藤若と名乗っていたときに参勤したと言われている多武峰談山神社への参拝でしたが、スケジュールを組んでいるうちに聖林寺の十一面観音菩薩、浄瑠璃寺や岩船寺など、なかなか行けないところにも足を延ばしたくなり、また幾度と行っている、『頼政』や『浮船』に縁のある宇治も再度訪れたくなり、今年限りの清水寺奥の院の秘仏特別公開を見逃してはいけないと思ってと、かなりハードなスケジュールを組んでしまいました。それでも無事行って参りましたので、写真で一部をご紹介いたします。
(行程)
11月6日・初日
談山神社~聖林寺~安倍文殊院~奈良国立博物館(正倉院展)
11月7日・二日目
浄瑠璃寺~岩船寺~円成寺~般若寺~転害門~正倉院
宇治橋姫神社~平等院~青蓮院
11月8日・三日目
清水寺===大江能楽堂 高吟会出演

談山神社十三重塔
白鳳7年創建の藤原鎌足供養塔で現存唯一の木造十三重塔

拝殿
朱塗りの舞台作りで、ここで大倉源次郎氏が奉納しています。

権殿
ここで世阿弥が舞ったといわれています。今は閉鎖されていました。

権殿 2

東大寺転害門
『大仏供養』は喜多流では久しく出ていませんが、
シテの景清が社人の装束で箒を持って登場します。

東大寺転害門 2

橋姫神社
『江口』に「また宇治の橋姫の訪はんともせぬ人を待つも、
身の上と哀れなり」と謡われています。

橋姫神社 2

平等院
近年改修工事が完了して綺麗になりましたが、
公園のように整備されたのは少し残念です。
また入場料の高さに驚きました。
鳳凰堂に入るには別途支払いが必要です。奈良に比べて京都は高いと同行者は嘆いていました。

平等院 2

扇の芝
頼政が自刃した扇の芝は平等院に入りすぐ左側にあります。
扇と言われる通り三角の形をしていますが、後ろからご覧になると判りやすいです。

扇の芝 2

扇の芝 2

扇の芝 3

観音堂
『頼政』の「また釣殿と申して面白き所」とはこの観音堂を言います。
扇の芝の隣にある地味な建物で見落としてしまいがちです。

頼政公墓
墓は平等院鳳凰堂裏の景勝院の中にあり、立派に整備されていました。

頼政公墓 2

頼政公墓 3

宇治川の後方の朝日山
『頼政』で「名にも似ず月こそ出づれ朝日山」と謡われています。
朝日山の左には「いかさま恵心の僧都の御法を説きし寺」と謡われる恵心院があります。

宇治川は宇治川の合戦で有名です。
先陣争いの勝負に負けた梶原景季は能『箙』に登場します。

宇治川先陣の碑

恵心院
平等院より宇治川を渡ると恵心院があります。お花が沢山ある小さなお寺です。

恵心院 2

恵心院 3
奈良の旅投稿日:2003-05-15

平成15年2月1日は全日空のキャンペーン、一万円一日乗り放題がありました。どこに行っても一万円! これを見逃す手はないと思い、奈良に日帰りの旅に出かけました。
相変わらず、能に関連した謡蹟めぐりという、特殊な旅行でしたが、写真にてご紹介いたします。
まず、今年10月の粟谷能の会に演能する『采女』、また『春日龍神』にも謡われる猿沢の池を皮切りに、興福寺の五重塔、東金堂や宝物館を訪ねました。
今回の目的はこの宝物館、私のお目当ては阿修羅像でしたが、拝観していてびっくり仰天、『海人』に謡われる、銅造華原磬(どうぞうかげんけい)と石造泗濱浮磬(せきぞうしひんふけい)が目に飛び込んできました。謡本にも「二つの宝は京着し」と興福寺にあることは謡われていますが、実際に本物を目の前にすると、その素晴らしさに興奮しました。もちろん、ほかにも興味は尽きない名品が沢山ありましたが、この二つの宝が見られたことは何よりで、はるばる奈良に来た甲斐があったと満足しました。
喜多流の謡では、「しひんふけい」を、「しびんせき」と何か下腹部が痛くなるような名前ですが、実際は「しひんふけい」が正式のようです。宝物館の中は撮影禁止のため、この宝をご覧頂くことは出来ず残念です。是非本物をご覧になることをお勧めします。いずれまた演じる『海人』のイメージが膨らみ、良い思い出となりました。
また『三輪』の玄賓僧都の像もあり、充実した拝観でした。
宝物館をあとに、『氷室』『野守』にゆかりの氷室神社、『野守』『春日龍神』に謡われる飛火野、そして金春流が参道で翁を奉納する春日大社、謡曲に直接関連はありませんが、東大寺二月堂、途中で偶然にも三条小鍛冶宗近ゆかりのお店にも立ち寄り、最後は場所が解らず苦労した『百万』ゆかりの西照寺を探し当て、供養塔にお参りしてこの旅行を終わらせました。

采女神社
猿沢の池のそばにある見逃すほどの小さな社ですが、
中秋の名月の夜には采女の春姫を追悼する采女祭が催されます。

采女神社 2

采女神社 3

猿沢の池
徒歩で五分もあれば一周出来る小さな池です。
『春日龍神』では「龍神は猿沢の池の青波蹴立てて」と謡われます。

猿沢の池 2

五重塔
長い歴史を感じる塔。

氷室神社
『氷室』に「まずは仁徳天皇の御宇に、
大和国闘鶏(つげ)の氷室より、供え初めにし氷の物なり…
末代長久の氷の供御の為、丹波の国桑田の郡に氷室を定め申すなり」と、
謡われていて、この氷室明神は闘鶏の氷室明神を勧請した社です。

氷室神社 2

氷室神社 3

鷹の井
『野守』の語りにある、御狩にて見失った鷹を翁が水に映る木にとまった鷹でありかを教えた故事の井です。
「鷹乃井」と刻まれています。

若宮御旅所
春日大社参道の途中にある、御旅所では能も演じられると
巫女さんが説明してくれました。

若宮御旅所 2

飛火野
飛火野は春日野の別称で、
枯草、雑木を積み上げ烽火を上げて外敵に備えたことからいうようです。

『野守』の舞台となった飛火野にある、謡蹟保存会の立て札

春日野
平城京防備の烽火の番人を「飛ぶ火の野守」といい、
謡曲にはよく出てきます。

春日野 2

昼食は春日大社の参道にある食事処に入りました。温かいお粥膳は冷えた身体を暖めてくれました。

温かいお粥膳

春日大社本殿
春日大社の創建は『采女』に神護景雲二年と謡われています。
丁度結婚式が行われていました。

能『小鍛冶』の京都、三条小鍛冶宗近の末裔の家が奈良にあるのは発見でした。

表札
この家の名字が小鍛冶には驚きました。

お店内部
ご主人が包丁に銘を打たれていましたが、撮影はしませんでした。
店内には刀、包丁、はさみなどいろいろ。

東大寺二月堂

東大寺二月堂 2

二月堂階段
「御水取り」では、僧侶はこの急階段を駆け登ります。

二月堂階段 2

西照寺
場所が解りにくかった能『百万』の百万の供養塔がある西照寺。
丁度ご主人が出ていらして、説明して下さいました。

西照寺 2

供養塔 立派な大きな供養塔でした。
「たまに能を舞われる方がお参りにいらっしゃいます」とはご主人の弁。

供養塔 2
能楽協会アーツプラン愛媛公演内子座から投稿日:2003-04-15

平成15年2月25日から三日間、能楽協会アーツプラン愛媛公演がありました。演目は三日間とも『景清』で、初日は八幡浜市にてシテ・粟谷菊生、二日目は内子町にてシテ・塩津哲生、三日目は丹原町にてシテ・香川靖嗣で公演いたしました。
中でも二日目の会場となった内子座(うちこざ)は大正天皇ご即位を祝って創建され、歌舞伎も文楽も公演可能な木造劇場です。一時老朽化により取り壊しになるところを町民の熱意により復元し、昭和60年10月に再出発しました。現在は年間7万人もの人々が訪れています。
今回のように、内子座での能の公演は大変珍しく、貴重な体験となりましたので写真でご紹介いたします。

内子座へは大型バスが通れるような広い道がないので、
出演者は皆、市役所でバスを降り、徒歩で向かいました。

内子座は木造劇場(収容人数 650名)です。

内子座の由来

大正時代、当地が生糸や木蝋の生産で栄えていた時、
芸術、芸能を愛してやまない町の人々の熱意で建てられました。

花道に立つ藤田六郎兵衛氏、狩野了一氏、友枝雄人氏。

歌舞伎劇場の特色を最も表している花道。

当日シテツレ(金子敬一郎)とワキツレ(則久英志)は
この花道を橋掛りのように使い登場しました。

裏にあるこの扉が楽屋口です。入るとすぐに井戸や釜があり、
昔ながらの情緒を感じさせる建物でした。

出演者、スタッフは舞台の下見に余念がありません 2

検察台。昭和の戦時中は芝居の内容を見守る役人、
警官が座っていました。

出演者、スタッフは舞台の下見に余念がありません 1

奈落への階段は狭く急な勾配でした。
奈落とは舞台や花道の下の地下室のことです。

舞台下の奈落への道。降りてびっくり、
大人一人がやっと通れるぐらいの狭さです。

二階席から見る舞台。二階席正面には大向(おおむこう)といわれる
低料金の客席があり、常連や劇通が多く座ります。
「大向をうならせる」とは芝居が上出来ということです。

奈落の説明。

奈落の下。舞台中央の円形部分は人力で回転します。

「すっぽん」とは花道の七三の位置にある切穴のことを言います。
この場所からせり上がり登場出来ます。

三日間の本公演の日の昼は学生のためのワークショップが開かれ、
装束の着付けやお囃子の道具の説明、
そして体験教室も行われました。
お囃子は大野誠氏、曽和尚靖氏、柿原光博氏、前川光範氏の4名でした。
二日目終了後、参加者への慰労会がありました。
写真は乾杯の音頭をとる藤田六郎兵衛氏。

高安流大鼓の柿原光博氏(東京在住)

幸流小鼓の曽和尚靖氏(京都在住)

金春流太鼓の前川光範氏(京都在住)
実盛の兜(多太神社)と仏御前ゆかりの地投稿日:2002-10-15

平成14年8月8日から10日にかけて、大阪大学喜多会の夏の合宿が加賀温泉、山代にておこなわれたため、前日の自由時間を利用して、前回見落とした多太神社の実盛の兜、仏御前の墓などを探訪することにしました。
先年、『実盛』演能を機に、「首洗い池」や「実盛塚」などを見て廻りましたが、その折、多太神社に保管されている実盛の兜を見逃し心残りでした。機会があれば是非一度見ておきたいと思い、多太神社に連絡を入れました。ご長寿で有名な93歳のご住職は残念ながらお亡くなりなられ、今はご子息が跡を継がれ神社を守られているようです。
通常、団体の予約でなければ開けてくださらない宝物館ですが、特にお願いして特別に開けていただき、貴重な兜などを見ることができました。
また喜多流では参考曲扱いの能『仏原』の仏御前のお墓も近くにあると知り、足をのばして見てきましたので、写真でご紹介いたします。

多太神社

多太神社の鳥居

鳥居横にある石像の兜

石像の解説

石像の解説

芭蕉の句「むざんやな かぶとの下の きりぎりす」が石碑に刻まれている

恒例の謡蹟保存会の立て札

多太神社本殿

斎藤別当実盛の兜の説明

兜 近景1

兜 近景2

兜 近景4

兜 近景5

具足

義仲公の矢

鎧 1

鎧 2

髭を墨で染める絵

仏御前を祀っている民家

民家

仏御前像を祀って守り続けているのは一般の民間の方です。
文化財でないため国からの援助がないのには驚きました。

仏御前像

仏御前は左端にありました(祭壇)

林 美枝(はやし よしえ)様83歳(当時)
この方が説明をして下さいました。

墓の看板

墓の説明

仏御前の墓(右端)
千秋公園の蓮と、中世の館「唐松城」能楽殿投稿日:2001-09-15

2001年9月2日に秋田県協和町まほろば唐松城能楽殿にて、喜多流の公演がありました。番組は能『枕慈童』(シテは友枝昭世氏)、能『葵上』(シテは粟谷能夫氏)、狂言『萩大名』(大名は野村万作氏)です。
私は前日の夕刻に秋田入りし。ホテルに向かう途中、千秋公園の綺麗な蓮の群れが目に止まり、思わずシャッターを押しました。しかし暗くて思うような撮影が出来ず、翌朝改めて撮影に出かけました。
能と蓮の関係で思い起こされるのが『羽衣』です。喜多流では『羽衣』に小書きが付くと、牡丹の花を頭につけますが、これは多分伝承の間違いで、本来は蓮だと思われます。他流に蓮をいただくところもありますし、宗教的な意味合いからも蓮の方が似合うような気がします。最近、私は意識して白蓮をつけていますが、平成5年のまほろば公演の『羽衣』舞込(菊生の代演)では、従来の牡丹をつけて勤めています。(次の写真)。それから『当麻』『誓願寺』なども蓮が似合う曲目だと思います。

平成5年 『羽衣』舞込 粟谷明生

翌朝撮影の蓮

中正面より舞台

中世の館、まほろぼ唐松、唐松城能楽殿の遠景です。
この能楽殿は平成2年に完成し、私はここで『羽衣』『鬼界島』『石橋』連獅子を勤めてきました。

正面入り口より

切戸口より舞台

後見座より地謡裏。風通しが良く開放感のある景色がたまらなく気持ちが良い…

三の松より正面席

舞台裏

切戸口への廊下