守山から鏡の宿

平成23年5月2日、守山で『望月』の甲屋、鏡の宿にて宗盛胴塚や義経ゆかりの謡蹟を訪ねて来ました。写真でご紹介します。

「謡蹟めぐり」(青木実著)には「甲屋之址」の石碑があると書かれていますが、石碑は現存せず、建物は中山道街道文化交流館となっています。守山一丁目8番付近。
中山道街道文化交流館の側に『望月』の話は架空のため甲屋がないことを説明する駒札が立っています。
国道8号線の野洲市・大篠原北に平宗盛胴塚があります。宗盛は能『湯谷』のワキとして登場します。野洲市は「幾瀬渡りの野洲の川」と『船橋』の脇の道行に謡われるところです。目印はキョウエイの看板で小道を少し歩くとすぐにあります。
義経は平宗盛、清宗父子を護送して鎌倉に出向きますが、頼朝との面会が許されず、京に引き返すことになります。鏡の宿は自分の元服の地のため、少し京に近づいた大篠原にて、義経は二人を斬首し、首を京に、二人の胴は一緒にして埋めたと言われています。
近くにあった首洗い池の「蛙なかずの池」は現在は埋められたようで見当たりませんでした。
鏡の宿は現在の道の駅「竜王かがみの里」あたりです。義経がここで元服して赤坂の宿にて盗賊熊坂長範を討つ能が『烏帽子折』です。
道の駅から8号線向かい側に「義経元服池」の石碑が見えます。
義経は元服の時にこの池の水を使ったと言われ、またその姿を水面に写したとも言われています。
元服池から8号線を彦根方面に歩くと、直ぐに鏡神社があります。義経が元服の折、参拝して源氏再興と武運長久を祈願したところで、八幡神社には祭神・源九郎義経公となっています。
烏帽子掛けの松は、義経が鏡神社に参拝する際、この松の枝に烏帽子をかけたと言われています。明治6年、台風で倒れたため、株上2.7メートルを残し仮屋根をつけて保存されています。
掛けの松の隣に謡蹟保存会の駒札があります。
神社には義経が元服の時に使用した盥の底板が残っていますが、残念ながら見ることは出来ませんでした。
義経は奥州下向の途中、当時の宿駅の長であった澤弥伝の「白木屋」の旅籠に泊まりました。茅葺き屋根の白木屋は台風のため壊れてしまい、現在は取り除かれて館跡の石碑があるだけです。
道の駅から鏡山が見えます。『盛久』では「瀬田の長橋うち渡り、立ち寄る影は鏡山」、『三井寺』では「月は真澄の鏡山」と謡われています。