壇ノ浦近郊

平成21年8月1日、山口薪能の演能翌日、新山口駅を経由し新下関駅からタクシーを利用して源平合戦最後の地、壇ノ浦近辺を写真探訪して来ました。
源氏方が兵舟を隠していた満珠島と千珠島、平家一杯水、壇ノ浦古戦場跡、七盛塚と安徳天皇をお祀りしている赤間神社を参拝し、対岸に見える和布刈神社へ、関門トンネルをくぐり九州門司へ渡り参拝して来ました。
では写真でご覧下さい。

満珠 千珠の島
曇天のため視界が悪く、画像が良くありませんが、画面右が満珠島、左が千珠島。源平の戦で、源氏方は一時戦況不利となり、この二つの島まで追い込まれてしまいますが、義経が平家の梶取をねらい射るように命じたので平家方は大混乱となりました。
平家一杯の水 敗れた平家の武将は泳いで陸に辿り着き、この井を見た者は真水と信じてこれを貪り飲んだといいます。しかし井水は鹹水(かんすい=海水)だったため飲んだ者は命を落とし、気が付いて吐きだした者は命が助かりました。
平家一杯の水(後方より)
ちょうど潮が引いていたので海側からの撮影です。
平家一杯の水(上から)
現在、井戸はご覧の通り鍵が掛けられ、底は見ることができません。
御裳濯川(みもすそがわ)
能『小原御幸』では「今ぞ知る、御裳濯川の流れには、浪の底にも都ありとはと」と謡います。御裳濯川は小さな川で以前は海に流れ込んでいたのが見られたようですが、現在は道路の下を流れるようになり残念ながら見られません。その代わり観光用に橋が作られています。
御入水処の碑
二位殿が安徳天皇に「この国は逆臣が多く、浪の底にも都がありますから、そちらに参りましょう」と入水したところは、この石碑から向かいの地へ100メートル先と言われていますが・・・。
御入水処
「自らも続いて沈みしを」と建礼門院も続いて入水しますが、源氏方の武士に熊手で引き上げられて助かります。
赤間神宮の水天門
昔は阿弥陀寺と言っていましたが、明治になり、赤間神宮となりました。
明治9年、昭憲皇太后宮が「いまも猶、袖こそぬるれ わたつみの 龍の都の御幸思えば」との御歌を詠まれ、昭和33年世界唯一の竜宮造りの御造営となった。御祭神は安徳天皇、御祭祀は安徳天皇神鏡です。
水天門全景
平家一門の先祖は龍神であると考えていたため、海底への入水は死というよりも、都に帰る思想があったとも言われています。
安徳天皇御陵
幼くして亡くなった安徳天皇のお墓で、西日本ではただ一つの御陵です。
平家一門の墓
神社本殿を左に入ると、耳なし芳一の像の横に平家一門の墓は並んでいます。
七盛塚
壇ノ浦合戦に亡びし平家一門の武将を祀る、と赤間神宮略記に記載されていますが、右から二番目の平清経は壇ノ浦合戦には参加していないので、ここに祀られているのはおかしいと疑問に感じるのですが・・・。
墓の方々
前段には平氏一門、後ろにその配下の者の名前があります。 後列右端の伊賀平内左衛門・平家長は知盛の傳子(めのとご)で、『小原御幸』では弓を取り交わし死出のお伴に入水した人です。 この中で謡に登場する者は、清経、教経、経盛、知盛、家長、時子です。
教経・資盛の碑
能『小原御幸』では教経は、安芸の太郎兄弟を道連れに入水したと語ります。
和布刈神社(めかりじんじゃ)
関門海峡の門司側にある和布刈神社。能『和布刈』のワキはこの神社の神主で、松明と鎌を持ちワカメを狩ります。シテは竜神を勤めます。
和布刈とは
和布は万物に先んじて芽を出し自然に繁茂するので幸福発生の姿があり、また神の依代(よりしろ)との考えから神前に備え、お祭りをすると、神社の説明にあります。そのときに神職の者が鎌と桶を持ち、松明で社前の石段を照らして下り、厳寒の海に入って和布を刈る神事があるそうです。 それにしても、能『和布刈』はあまり演じられない脇能です。喜多流での演能は未だ見たことがありません。
保存会の駒札
写真探訪には欠かせない謡蹟保存会の駒札は神社本殿の前にあります。
九州から見る「平家一杯水」
和布刈神社から300mmの望遠レンズで本州側の平家一杯の水を撮影、曇天のため鮮明に撮影出来ませんでした。
細川忠興公寄贈の灯籠
和布刈神社前の関門海峡の海流が激しいところに立派な灯籠がありました。