『蝉丸』を勤めて

『蝉丸』を勤めて
異流共演と狂女・逆髪

能には、心の中が屈折している主人公を扱った演目が多くあります。「第106回 粟谷能の会」(令和6年3月3日)で勤めた『蝉丸』のシテ・逆髪(さかがみ)とシテツレ・蝉丸は屈折の特上クラスの人物で、しかも姉弟です。今回、弟の蝉丸を観世流の観世銕之丞氏にお引き受けいただき、姉の逆髪を私が勤める異流共演が実現しました。

実は数年前、大槻能楽堂自主公演で銕之丞氏と私の異流共演『蝉丸』が企画されましたが、折悪しくコロナ禍で、公演中止となりました。この企画を是非復活したく、今回の「粟谷能の会」で出来ないものかと銕之丞氏に相談しましたところ、快諾してくださり実現に至りました。大槻能楽堂自主公演では観世流の地謡で、私一人が異流で加わる演出でしたが、今回は喜多流の地謡となりました。この異流共演で舞台上になにか面白い化学反応が起きるのではないか、と期待していました。予想通り、ご覧になられた方々からは、二人の個性のぶつかり合いがとても面白かったとご感想をいただき、企画実行出来たことを、改めて喜んでいます。

私の記憶に残る異流共演は、観世銕之丞氏のお父様と私の父が以前中尊寺の白山神社能舞台にてシテ・建礼門院を先代・観世銕之亟先生、ツレ・後白河法皇を父菊生が勤めた『大原御幸』です。今、無事に終えると、今回はあの衝撃的な『大原御幸』の続編のようにも思えて、思い出に残る舞台となりました。また『蝉丸』の異流共演はシテ・逆髪を友枝昭世師、蝉丸を大槻文蔵先生が勤められた映像が、とても勉強になりました。

先日、写真の整理をしていましたら、祖父・粟谷益二郎(本名・益次郎)が『蝉丸』の逆髪を勤めている貴重な写真がありました。姉弟の再会場面、「互いに手に手を取り交わし」と手を差し出す益二郎に「姉宮かと」と受けておられる蝉丸は金春流の桜間金太郎先生でした。このモノクロ写真は、祖父が大正時代に既に『蝉丸』で異流共演を勤めていたことを教えてくれ、今回の企画が特異なことではないと証明してくれました。それで俄然、逆髪を勤める気持ちが強くなり自信にも繋がりました。

はじめは異流共演に不安を感じていましたが、『蝉丸』は観世流と喜多流で詞章の違いがさほど多くなく、それほど演りにくいことはありませんでした。ただ一点、藁屋の作り物が脇座から笛座前に置き替わると、藁屋を見て謡を覚えている私には最初、どうしても違和感があり、謡を間違えることが多く、正直慣れるのに時間がかかりました。

今回、クセの上羽(クセの中でシテが謡うところ)「たまたま言訪ふ ものとては」は、喜多流ではシテの謡ですが、ここは蝉丸の心情ですのでツレが謡うように変えました。
またチラシや番組に記載しませんでしたが、銕之丞氏から「替の型」で勤めたいとの、お申し出がありました。「替の型」は喜多流には無く、観世流にある小書(特別演出)の一つで、蝉丸の位が上がりシテと同等に扱われ、作り物(藁屋)の位置が変わり、蝉丸の装束が大口袴から指貫になる、など演出が変わります。本来、脇座前に置かれる藁屋は、大小前に置くこともあるようですが、今回は銕之丞氏のご希望で笛座の前に斜めに置きました。蝉丸がシテと同等になるため、観客からよく見えるように、目立たせる演出です。逆髪と蝉丸の両シテの意識は、まさに異流共演に相応しい演出となりました。

私の『蝉丸』の演能はツレ・蝉丸役が2回、シテ・逆髪役が1回です。今回、逆髪の再演にあたり、屈折した逆髪をどのように演じたらよいか悩んでいたところ、鑑賞講座(1月18日開催)で話された銕之丞氏のお言葉で、逆髪の輪郭がはっきりし、悩みが消えました。


 
能『蝉丸』は皇族として生まれながら不遇の境遇にある姉・逆髪と弟・蝉丸の悲運の物語です。逆髪は毛が逆立つ狂女、蝉丸は生まれつき盲目の身です。
盲目の蝉丸は父・帝の命令にて逢坂山で出家させられ捨てられます。供してきたワキ・清貫が勅命とはいえ蝉丸を出家させ捨ておかなければならないことの悲しさに沈んでいると、蝉丸は「これは前世の戒行がつたなかったゆえ、この世で過去の罪障を償い、後世で救われるようにとの、父帝の思し召し、真の親の慈悲だから嘆くことはない」と清貫を慰めるほど、多分に仏教的で内省的、運命を受け容れる諦念が見えます。それでも清貫一行が立ち去ると、さすがに寂しく、泣き悲しむ蝉丸です。

それに対して姉の逆髪は違います。生まれつき逆立つ髪を、宮中の女官達から白い目で見られ、陰口を叩かれていたかもしれません。実際に髪が天に向かい生え伸びるなどあり得ませんから、きっと現代のイメージでは天然パーマ、縮れ毛、その程度のものと思いますが、真っすぐな髪がもてはやされた時代に縮れ毛は異様に見られ、敬遠されたのではないでしょうか。そんな環境下にあった逆髪の心は屈折し、時には自閉症のように、また逆に落ち着いてじっとしていられない性分もあったのかもしれません。外と内への心のバランスが崩れ、最終的には自分の思うままに宮中で行動し、遂には放浪の旅にも出てしまうのです。

逆髪は登場すると自分の髪は逆さまに生え上り、いくら撫でつけても下がらないと謡い、童どもに笑われると、身分の低い者が私のような高位の者を笑うなんて、あなた方が逆でおかしい、と嘲罵し、あっけらかんとしています。周りから何を言われても、自分を正当化し、気にせず勝気な性分です。弟と再会して、お互いの境涯を嘆き合いますが、時が経つとまた逆髪は彷徨いたくなるのです。蝉丸が引き留めても、行く当てが決まっているわけでもないのに、立ち去ります。自分の気持ちに正直であり、その意識はまっすぐでも一方通行です。このあたりが周りから狂人と見られる所以ではないでしょうか。そのような逆髪をどのように演じたらよいのか分かりませんでしたが、銕之丞氏の「能『蝉丸』は姉と私なのです」の一言で判りました。

作者・世阿弥はハンディキャップがある二人の姉弟の悲劇を、勝気な姉と内省的な弟という性格や行動の違い、動と静、陽と陰を描き分けて作りました。蝉丸の琵琶の音にひかれて、二人が再会する劇的な場面で観客の涙を誘い、最後は、藁屋に蝉丸一人残して、会者定離の理をも表し、また涙を誘う、さすが世阿弥と感心させられます。このような昔話ですが、現在の我々の生活とかけ離れたものではありません。ハンディを背負った人、悩みを抱えている人達がそれぞれの性格に合った、それぞれの生き方をしていけば良いのでは?と、語りかけているように思われます。能は現代にも通じ、決して古臭いものではないのです。

では能役者として動的で勝気な逆髪をどのような格好(面・装束)で演じたら良いのか、
また逆立つ髪をどのようにご覧にいれたらよいのか、いろいろ悩みました。

我が家の喜多寿山の伝書に
「シテ(逆髪)ノ出立、玉葛ノ後ト同事、但シ左右共髪ヲ分ケ前ヘ下ル」
とあります。『玉葛』の後シテは唐織着流姿で片方(左)だけ髪を前に垂らしますが、逆髪の出立は唐織肩脱着流姿に鬘を前に左右に分けて垂らすのが喜多流の基本形です。しかし近年、鬘を黒頭に変えたり、唐織ではなく摺箔に大口袴、または緋色の長袴などに替える出立も多くなされるようになりました。

喜多流の基本形である鬘を左右に分けて垂らす姿は綺麗ですが、勝気な狂女としての逆髪を想像いただくには難しいと思い、今回は黒頭をつけることにしました。黒頭の代わりに観世銕之丞家より馬毛頭(ばすかしら)を拝借する選択もありましたが、次の演目の『融』に馬毛頭を使いたいこともあり、出る寸前まで悩んだ末、先に紹介した祖父・益二郎の黒頭の写真の姿が力となり黒頭に決めました。

袴は宮中の人らしく緋色の長袴にしました。都から逢坂山に放浪の旅をする逆髪が、引きずるほどの長い袴を穿くのは理にあわず、不適かもしれませんが、そこは写実ばかりではない、能ならではの演出と割り切ることにしました。ただ今回、右足の長袴がからまったまま出てしまい、とても動きにくく往生しましたが、それも最終的には自己責任、自分自身の注意不足と反省し、以後気をつけたいと思いました。

面は、本来喜多流は「小面」ですが、狂女の逆髪には可愛らし過ぎると思い、愛用の石塚シゲミ打の「増女」を拝借しました。「小面」より少し大人で、艶がある表情がとても好きで気に入っている面です。

今回は銕之丞氏がしっとりと内省的な蝉丸を演じてくださったので、その対照を鮮やかに観ていただきたく、舞の動きも謡も、やや快活に勤めました。

銕之丞氏の圧倒的な存在感は、観る人を魅了したことは間違いありません。朝早くから楽屋入りされた銕之丞氏のお陰で楽屋の空気がきゅっと締まって緊張感が漂いました。とてもよい空気感で一日が始まり、公演が終わるまで緊張感が持続したことに感謝しています。
地謡の面々も、特別な緊張感でエネルギーをもって謡ってくれました。
異流共演の試みは、いろいろな意味で素晴らしい効果をもたらし、実現出来て本当によかった、と喜んでおります。

観世銕之丞先生、いろいろお世話になり、厚く御礼申し上げます。
また、大鼓の亀井広忠氏、小鼓の鵜澤洋太郎氏が、銕之丞氏の謡には観世流に合わせ、私の謡には喜多流でお付き合いいただくという、巧みに打ち分けられた技に、改めて感謝と御礼を申し上げます。『蝉丸』の出演者の皆様、異流共演を盛り立てていただきありがとうございました。              (2024年3月 記)

写真撮影 新宮夕海

(なお、ツレ・蝉丸を勤めたときの演能レポート「『蝉丸について』」(平成19年3月)も合わせてご覧いただけると幸いです。)