『蝉丸』について

『蝉丸』について

粟谷明生

愛知県豊田市にある豊田能楽堂3月能公演で『蝉丸』シテ粟谷能夫・ツレ粟谷明生を勤めました。実はこの企画は三年前に一度ご依頼をいただき、そのときは、当方の諸事情によりお断りしたのですが、再度、是非お二人でとのご要請をいただき今回お受けすることになりました。交渉は2年前でしたので、地頭は父粟谷菊生、副地頭に友枝昭世氏という豪華メンバーでの地謡を考えていましたが、昨年父が亡くなり我々の思い通りの形で実現出来なくなったことはとても残念に思えてなりません。

能『蝉丸』は、主人公のシテが延喜帝第三皇子逆髪であり、蝉丸はその弟で盲目の青年という設定です。能にはこのように曲名にある人物が主役でない場合がいくつかあります。例えば、喜多流では『満仲』、シテは藤原仲光ですが、曲名は仲光の主人多田満仲です。同じく、『葵上』のシテは六条御息所、『小督』のシテは源仲国、『張良』のシテは黄石公、『望月』のシテは小沢友房です。

能『蝉丸』は流離された身体に障害を持つ不遇な姉と弟の皇子の苦難の悲劇です。
申楽談義に「逆髪の能」とあるので世阿弥作と言われていますが、謡の詞章のすばらしさのためか、江戸時代は『砧』『小原御幸』『蝉丸』の三曲を能としては演能せず、謡だけで楽しむ曲にしてしまいました。これらの作品は能役者の謡の力が試される曲といえるでしょう。動きの型よりも謡の力を重視した曲ですので、謡のうまさが必須です。
うまさとは、技術的には音程が正確でしかも発声は綺麗で聞きとりやすいこと、そして観客へ訴える力、つまり謡の意味を伝えようという意識と説得力が加味されていなければいけません。これらを体得しはじめて蝉丸の役が降りてくるのだ、と先輩から教えられてきました。

戦前から戦時中は、二人が皇子という理由で不敬になると上演が禁止されていましたが、現在はそのようなことはありません。この重く悲しい世界、能だからこそ表現出来る世界ではないでしょうか。

私はツレの蝉丸を平成5年(第4回粟谷能の会研究公演・シテ 粟谷能夫)にはじめて勤め、その後、広島花の会では中村邦生氏にツレをお願いしてシテを勤めました。
今回は能夫との再演で、一回目のツレとシテの経験をもとに自分なりにレベルアップした役作りを心がけてみました。
盲目の青年皇子をどのように演じるか?
謡での表現はもちろんのこと、盲目の動き、殊に面遣いを意識して、私なりの工夫を凝らしてみましたが・・・・。
さて、それがどれほどのものであったかは、ご来場頂いた方々にご判断いただければと思います。

この曲では、ツレ蝉丸がワキと次第で登場してから最後の逆髪を見送るまで終始舞台にいます。ワキの藤原清貫は前場で退場し、シテも後場にしか登場しないので、この曲を支えているのはツレ役といっても決して過言ではないと思います。それだけにこのツレ役は重要で大事に位重く扱われています。

舞台進行は、盲目の皇子蝉丸がワキの清貫一行に連れられ都から逢坂山までの道中を謡い逢坂山に到着すると、勅命により出家させられ、この山に捨てられることになります。
ワキの道行が済むとツレは地謡前に移動して座り、おもむろに静かにしかし張った声で「いかに清貫」と清貫に呼びかけます。前半の作品の出来不出来を示唆するほどの一句です。盲目の青年は周囲の雰囲気を察知し「さて我をばこの山に捨て置くべきか?」と清貫に問いかけます。清貫も勅命で同行してきたことを嘆き、こころの動揺を隠すことが出来ないでいますが、蝉丸は自らの過去の行いが悪かったのであろう、きっと来世の為にとの父親の慈悲であるから恨むことはないと、逆に清貫を慰めます。このあたり、蝉丸の凜とした人物像を謡や座っている姿で表現しなければいけないところです。ここを上手く演じられると、次の落胆の場面とのギャップが大きくなり、観ている人の蝉丸への哀れみの気持ちも増す、というからくりでもあるのです。蝉丸役者の前半の仕事はここに集約されるので、ここをどう演じ切れるかが、私の課題の一つでもありました。

「御髪を下ろし・・・」と清貫に告げられ物着になります。狩衣を脱ぎ、髪を取り、角帽子をつけますが、これら物着の作業が後見二人によって舞台上でスムーズに行われると、それ自体にまた悲しみが込められるという演出です。いかに綺麗に的確に処置出来るかが後見の腕の見せ所といえます。今回は中村邦生氏と友枝雄人氏が手際よくやって下さったことに感謝しています。


物着が済むと「此は何と言いたることやらん」と先ほどよりもやや気弱な心持ちで、しかし強い意志で謡うのが教えです。実際に簑は着ませんが、蝉丸は簑を着て笠と杖を持たされ、清貫一行は都に帰ってしまいます。逢坂山にただ一人残された蝉丸は、杖にすがり琵琶を抱いて泣くばかりです。通常は舞台中央で下に伏してシオリをして泣く型となりますが、私は前回の時に「盲目にシオリ無し」と注意を受けたことがあったので、敢えてシオリをしませんでした。何でも医学的に・・・涙腺がどうのこうの・・・と説明を受けた覚えがありますが、演技的にも確かに手で涙を押さえる型より、何もせずに面遣いだけで深い悲しみを表現出来れば、その方がより強い表現になるのではないでしょうか。

アイ(博雅三位)は初同が終わると登場し、捨てられた蝉丸を見つけ藁屋へと案内します。このアイの名乗りや、ツレへの問答、ふれの言葉は多く時間がかかります。もう少し整理されてもいいように感じますが、これは蝉丸役者だけの感想でしょうか。 
「源平盛衰記」では蝉丸が博雅三位に琵琶の秘曲をここで伝授したようですが、能ではそこは触れないでいます。

アイが退場すると漸くシテの登場となります。
一声で髪が逆立つ異体な姿で現れ、都から逢坂山までの放浪をカケリや道行の仕舞で演じます。
逆立つ髪と言っても能では、鬘の両鬢を垂らしたり、時には黒頭を付けることで髪の異常さを表現します。
道行が終わり、ツレの「世の中はとにもかくにもなりぬべし、宮も藁屋も果てしなければ」の謡の聞かせどころとなります。シテ逆髪は弟の声を聞きつけ、ここに姉と弟の再会場面となります。シテとツレの掛け合いは、徐々にお互いの謡の声や音の高さ、速度、張りなどを駆使し高揚させて絶頂に持っていき、地謡の「共に御名を木綿附の」にと繋げます。うまく繋がると、この再会の場面、自然と涙腺が緩むところです。


今回の演能にあたり、シテからの要望もありお互いに相談して、喜多流としては新たな演出を試みてみました。再会したあと通常は、蝉丸は藁屋の中に居続けますが、今回はツレが序で藁屋から出る演出にして、姉と弟の距離感を密なるものとしました。苦境にあるクセ謡の上羽「たまたま言訪ふものとては」を現行ではシテ謡ですが、意味あいから本来は蝉丸の言葉であるのでツレが謡うことに変え、また中啓を遣い琵琶を弾く型も取り入れ、謡だけの世界に少し視覚的な要素も入れてみました。


そして終盤、ロンギになり、シテとツレの最後の別れの場面、クライマックスとなります。
ここもまた能役者の力量が試される所です。
演者は単に作品の持つ力に頼りきるのではなく、謡と型の演技力で観客自身が感動のスイッチを自然と押してしまうほどのものを提供しなければいけないでしょう。
絶望感あふれる蝉丸の謡、それが判りながらどうしようもなく去らなければならない姉の逆髪。
お互いの謡の力と微かな動き、あとは観客の想像力にお任せしますが、そこまでの舞台作りをしてこそ一人前の能役者と呼べるのではないでしょうか。またそこまで求めているのが能『蝉丸』であり、世阿弥の思いだと思います。果たして私たちがそこまで出来たのかは気になるところですが、能夫と二人真摯に精一杯勤め、志があったことは確かです。

去る姉に弟は杖を突きながら、足弱く追いかけ見送ります。
「そこは右耳で聞く、そしてちょっと面遣いをするんだよ、それが出来るかどうかなんだ、そこが勝負だよ!」が父の言葉です。
これからも演能のたびに父の言葉を思い出し、父の顔が浮かぶことでしょう。父から教えられたもの、父が大事にしてきた先達の能、脈々と続く粟谷の能を伝承し、そして、粟谷明生の能というものを確立していきたいと生意気にも思っています。そうでなければと、能『蝉丸』の蝉丸が教えてくれたように思えてなりませんでした。 
(平成19年3月 記)

写真提供 石田 裕