『大江山』を勤めて

『大江山』を勤めて
騙されるのは鬼 騙すのは人間

鬼退治を題材にした能『大江山』を喜多流自主公演(令和4年12月18日)で勤めました。『大江山』の初演は平成11年6月、同じ喜多流自主公演で、今回は実に23年ぶりの再演です。お相手のワキ(源頼光)は初演のときと同じ殿田謙吉氏で、お互い23年の齢を重ねての共演となりました。

まずは、物語のあらすじを簡単に記します。
「大江山の鬼を退治せよ」との勅命を受けた源頼光一行が山伏姿に変装して大江山に向かいます。大江山に着くと、血染めの衣を洗う女(アイ)の案内で、鬼の頭領・酒呑童子(前シテ)に近づき、一夜の宿を乞います。童子は出家の人には手を出さないと決めているとして、一行を素直に迎え入れ、酒宴を開き歓待し、やがて泥酔して寝室で眠りにつきます。
(中入)
夜更けを待って、武者姿となった頼光一行が寝室に討ち入ると、童子は身の丈が2丈(6メートル)の鬼(後シテ)になっていて、自分を騙したことを怒り、凄まじい勢いで襲いかかります。しかし、ついに鬼は首を討たれ、頼光一行は喜び勇んで都に帰ります。

酒呑童子は『大江山絵詞』や『御伽草子』、『酒呑童子絵巻』などに、財宝を盗んだり、京の女をかどわかしたり、悪事を働く鬼として描かれています。ゆえに「大江山の鬼を退治せよ」との勅命が下り、鬼退治の武勇伝が出来るのも自然です。

しかし、能『大江山』の前場の酒呑童子にはその悪い鬼のイメージがありません。お酒が好きで呑むと赤ら顔となり、童心を失わず、無邪気で、敵意も害意も示さず、素直に心開いて身の上話をし、自ら歌い舞って酒宴を盛り上げます。このあたりが、この能の見どころにもなっています。私も酒好きなので、酒呑童子の気持ちになって楽しく勤める事が出来ました。

さて、童子の身の上話に耳を傾けてみると、どうやら、彼らはもともと比叡山を栖にしていた先住民族のようです。そこに大師坊(天台宗の開祖・最澄)という似非者がやってきて、根本中堂(延暦寺)を建て、麓には七社の霊神を祀り、仏たちも組みして「出て行け、出て行け」と責め立てるので、ついに追い出されてしまい、それからは飛行して転々としたが、都が懐かしくなって都にほど近い大江山に隠れ住み着いた、と語ります。

この経緯を素直に読めば、悪は大師坊となりそうですが、追い出された大江山の童子たちが、悪事を働くと悪者にされ、退治される運命になります。しかも、退治する側の頼光一行は武者であることを偽り、山伏姿になって近づき、うまい酒と偽って、鬼が飲めば五体の自由を失う酒を飲ませてしまいます。また、隠れ家は人に知らせないから安心しろ、と約束しながら、それも守らず鬼退治です。

このように、騙されるのは鬼 騙すのは人間、です。
無邪気に山伏達を信じ歓待した鬼は怒りに震え「情け無しとよ、客僧達。偽りあらじと云いつるに。鬼神に横道無きものを」の名セリフを吐いて襲い掛かります。
しかし、最後に勝つのは騙す側で、騙される側は退治されてしまいます。なんという理不尽。ときの権力者が領土拡大をしようとするとき、そこに住み着いていた先住民族や抵抗勢力は邪魔者です。そのとき、邪魔者を悪者・鬼に仕立てあげ、排除すべき存在として正当化し、追い出すというのは権力側の上手いやり方、現在にも通じるかもしれません。

能の作者はパトロンでもある体制側に逆らうことはできませんから、『大江山』では後場で胸のすくような鬼退治を見せて、体制側に軍配を上げます。それでも、前場で、退治されるべき鬼をただ悪者にするのではなく、愛すべき存在として描くことで、権力に対し秘やかな抵抗を試みている、と私は思います。

とはいえ、能『大江山』は物語がシンプルで、動きもあり素直に楽しめる能です。
ワキと従者(ワキツレ)の六人が舞台狭しと向き合って連吟するスタートは、勇壮な鬼退治の物語の始まりを予感させます。大師坊が追い出しを謀ったときに、童子が抵抗して「一夜に三十余丈の楠となって奇瑞を見せよう」とした話や、比叡山を出てから霞に紛れ、雲に乗り、筑紫や彦山、大山、白山、立山、富士と飛行した話など、空想的、童話的な要素もあり面白いところです。アイの洗濯女と剛力のやり取りも、おとぎ話そのままで面白く楽しめます。もちろん、後場の鬼と頼光らとの戦いぶりは見ていて心躍るところです。
ご覧になる方には、この鬼退治の能をただただ楽しんでいただければ良いのですが、ここに書いたような裏話を少し心にとどめて見ていただけたら、と、これは演者としての思いです。

今回前場の装束は、初演のときと全く同じでは面白くないので、半切を変えてみました。
面は粟谷家に、かわいい顔の出目半蔵打の名品の「童子」がありますが、酒呑童子の本性が見え隠れするような表情がほしくなり、少しひねくれた感じの「童子」を拝借して勤めました。
謡い方も、本来は面の「童子」に合わせて謡うべきですが、この曲は特別で、体の内に鬼という荒い正体を抱えているイメージが観る側に伝わらないと演者としては失格です。やや荒く強く「童子なのに、なんだか不気味」と、思っていただけるような謡い方が吉だと思います。

後場の装束も、以前勤めた『羅生門』と同じでは代わり映えしないので、金地に紺色の派手な法被を拝借して、面も通常の「顰(しかみ)」ではなく、よりスケールの大きな「大顰(おおしかみ)」を拝借しました。
鬼の動きは豪快に荒く、大きな動きで演じるのが心得ですが、ともすると速く動けば良い、と誤解しがちです。鬼は適度なスピードと型の切れが演じるうえで大事です。動き過ぎるとかえって小さく見え逆効果になることを、演者は早めに体得することが大事だと思っています。

今回、久しぶりに『大江山』を勤めて、私自身は楽しく勤められました。幽玄の能とは違って、演技的にはストレート勝負ですが、この曲に込められた裏側を知っていただけたら、酒好きの酒呑明生としては、とても嬉しく心地よい酔いに浸れそうです。

写真提供 
新宮夕海 前島写真店 (2022年12月 記)