『竹生島』を勤めて 「女体」という特別演出

『竹生島』を勤めて
「女体」という特別演出

琵琶湖内の北側にある小さな島、竹生島を舞台とした能『竹生島』を秋麗特別公演(第一部)(2021年10月8日、於:喜多能楽堂)で勤めました。
『竹生島』は初番目物(脇能)で、島の寺院に祀られている弁財天や水中にすむ龍神が登場し、衆生済度、国土守護を約束する祝言能です。

脇能とは『翁』の脇に置かれ、神をテーマにした作品で『高砂』『養老』などがポピュラーです。江戸幕府が奨励した江戸式楽の正式な番組は『翁』付脇能(一番目物・神)から始まり、修羅物(二番目物・男)、髷物(三番目物・女)、四番目物(狂)、五番目物(切能・鬼)の五番立てで、各曲の間にはそれぞれ狂言が入り相当な時間がかかります。現在は正式五番立てが行われるのは稀になりました。
今回は、五番立てのうち、最初の一番目物のブロックを正式にお見せしよう、と企画され『翁』、能『竹生島』、狂言『大黒連歌』の番組となりました。

(写真 秋麗特別公演番組)

『翁』は「能にして能にあらず」と言われ、猿楽の能を奉納する前の御神事です。喜多流では千歳が面箱を持ち上げて先頭に登場し露払いの千歳之舞を舞うと、翁太夫が舞台上で翁の面を付けて翁之舞を舞い、面を面箱に戻して退場します。次に三番叟(三)がもみの段と鈴の段を舞い神事は終わりますが、すぐに続いて脇能『竹生島』が始まります。そして最後はおめでたい内容の脇狂言『大黒連歌』、これを一気に通して行います。

(写真 粟谷明生素袍姿 厳島神社にて)

『翁』は太夫以外は皆、囃子方も地謡、後見も侍烏帽子を被り素袍姿となりますが、続く『竹生島』も『大黒連歌』もそのままの姿で勤めますので、この珍しい光景も見どころのひとつで、このような正式な形をご覧いただけたのは意義があった、と思っています。

さて能『竹生島』の話をいたします。
今回は小書(特別演出)「女体(にょたい)」で勤めました。
通常は中入で、前シテツレ(女)が宮に入り弁財天に変身し、前シテの老人は本幕に入り龍神に扮して登場します。
それに対して、喜多流の「女体」(観世流とも共有)では、後場の配役が逆になり、シテの老人が弁財天を、シテツレが龍神を勤めます。
弁財天といえば七福神の神様の一人、琵琶を片手にした紅一点で、女神のイメージですから、老人(男)が逞しい龍神に、女が弁財天に変身するのが自然で、「女体」になり、男が女神になり女が龍神になるというのは、ねじれた印象がぬぐえません。地謡が「社壇の扉を押し開き御殿に入らせ給ひければ」と謡っているのに女が宮(御殿)に入らず幕に消え、「翁も水中に入るかと・・・」と謡われているのに宮に入るのも不自然です。その点、金剛流の「女体」は、前の老人をツレ、女をシテと、前後両方の役柄を変えて理に適うようにしています。

ではなぜ、喜多流は後のシテとツレを入れ替えるだけ、敢えてねじれたままにしたのか、今回その謎解きができたような気がしました。

(写真 宝厳寺弁財天)

竹生島にある宝厳寺(ほうごんじ)の本尊は弁財天です。そのお姿は変わっていて、一見、美しい女性の姿に見えますが、腕は八本、頭の上に小さな鳥居と男の顔が見られ、蛇も載っています。蛇を男性自身とも解釈すると竹生島の弁財天は女のようであり、男のようでもある、両性具有の神、つまり男とか女とか、そういう性を超越した存在なのかもしれません。そう考えると、老人が弁財天になっても何の不思議もなく、金剛流のように理に適う演出にしなくても済むのかもしれません。今回、そんな神々の世界が面白く思えました。

この小書「女体」は井伊掃部頭(かもんのかみ)直弼が創案したものです。直弼公は大変な能の愛好家で、能面や能装束も多く収集していたようで、知識も豊富だったものと思われます。竹生島の弁財天への信仰も厚く、病気平癒のお礼に能面を寄進し、宝物館にはその能面が展示されているほどです。また井伊家の能面や能装束は現在、彦根博物館に所蔵・展示されてもいます。

直弼公は「女体」を作るにあたり、いろいろな工夫をしています。
まずは『翁』付きに限ってですが、シテの出を通常の一声ではなく、真之一声の囃子に変えて能『白髭』の「釣りの営みいつまでか、暇も波間に明け暮れん、棹さし馴るる蜑小舟、渡りかねたる浮世かな」の謡を入れています。これは『翁』付脇能の場合、シテの登場は真之一声、という約束事から考えられた演出です。
今回は、このコロナ禍の時期に、『翁』から狂言まで休憩なしの連続長時間公演では、ご覧になる方のご負担も大きいだろうと思い、可能な限り時間短縮を図りました。
『翁』や狂言での短縮は難しいので、能『竹生島』を短縮しました。アイ語りは、その間、宮の中で装束を替えなければならないので短くすることができません。そこで、真之一声の最初(掛り)を囃し(能『白髭』の謡はなし)、その後通常の一声につなげる形にしました。

また、後シテの弁財天の舞(楽)を本来の五段構成から三段に短くし、直弼公の創案された通り盤渉調(ばんしきちょう)で勤めました。盤渉は水に関連した作品に囃され、音色が高くリズムも乗りよくなるので、今回の演出に似合っていたと思っています。

話は前後しますが、最初に舞台正面に運ばれる宮の作り物についてです。一畳台の上に宮を載せるのが本来ですが、今回は一畳台を省いて宮だけにしました。実は私の足の不具合があり試演してみました。通常の一畳台の上での装束替えはシテが高いところにいるので、後見にとって大変付けにくく苦労します。今回、物着に関してはスムーズに出来ましたが、一畳台がないと、やはり少し華やかさに欠けて見えたかもしれません。気になるところです。

また通常、前ツレと後ツレは同一人物が演じますが、「女体」では別々になります。今回は前ツレの女を佐々木多門氏、後ツレの龍神を友枝雄人氏が勤めてくれました。「女体」のツレは中入りしてから十分に時間があるので、別人が勤めなくとも可能ですが、これも直弼公のお考えなのでしょうか。私は同一人物でも可能だと思っています。

(写真 能面三光尉 増女)

後場の龍神は勇壮に舞い、豪快さがあって見栄えが良いですが、舞は舞働で短く、物足りなさを感じ、弁財天を後シテにする「女体」が考えられたのでしょうか。
「女体」では弁財天にシテらしさ、シテとしての風格を出すために、後半を少し作り変え工夫しています。弁財天の舞が終わると、早笛に乗って龍神が出現し舞働を舞い、通常は早めに弁財天を送り帰し、龍神が脚光を浴びる演出ですが、「女体」では、弁財天が留まって最後まで中心的な役割を演じます。通常、龍神が謡う「もとより衆生済度の誓」を弁財天が謡い、その後の「或いは天女の形を現じ・・・」、「又は下界の龍神となって」の地謡に合わせ、国土を守っているのは私なのだと、大らかに説明し、舞台上で堂々たる、ゆったりとした動きを見せます。最後、龍神が勢いよく幕に入った後も、弁財天がどっしりと私が一番偉いのだと主張するかのような終曲です。

後シテ・弁財天の面は、石塚シゲミ打の「増女」を拝借しました。冠には「月輪(がちりん)」を挿し、瓔珞を垂らすのは常の通りです。

今回は『翁』付の正式な一番目物の試みと、特別演出「女体」のことを中心にレポートしましたが、前場の長閑な春の風情、琵琶湖を船で竹生島まで漕ぎ渡るときの湖上の風景を謡い上げるところなど、なかなかの名文で聞かせどころです。十分に楽しみ味わっていただきたいところです。

(写真 竹生島全景)

現在、竹生島までは長浜港や彦根港からの航路があり、25分~35分で行けますが、この能では志賀の真野のあたり、琵琶湖の南の方から乗船しているようで、かなり長距離の航路です。老人が漕いで行くには少々難しいのではないかと思っていましたが、当時は帆船もあったようで、それならば渡れると納得しました。
(竹生島を訪ねた、写真探訪「竹生島参詣」をご覧ください。)

今はJR湖西線ができ、琵琶湖の西側を北上する電車がありますが、それに乗って琵琶湖を眺めていると、まさに、能『竹生島』の謡の景色が、志賀の浦、近江の江、花はさながら白雪のよう、山は都の富士のよう、春の日に比良の嶺颪(ねおろし)などが自分の中に見えてくる感じがします。京都や琵琶湖周辺の、その地の位置関係を熟知している人にとっては、身近な心地よい船旅が想像でき、楽しい気分にさせられるのではないでしょうか。

能では、竹生島に着く前に、「月海上に浮かんでは兎も浪を走るか」(月の影が湖上に浮かべば、月の中の兎も浪の上を走るかのようだ)の謡があります。昔は月に兎がいる、と思っていたため、このような詞章が生まれたのでしょう。
「釣り船を漕いで白波が立ち、そこに兎がぴょんぴょん飛び跳ねるのを追うように面を切るんだ!」と、父が教えてくれたことを思い出します。

昔、中学生のころ、「女体」の2文字を見ただけで、なんとも不思議な気分になり、男子校の仲間と「にょたい!」などと口にしてクスクス笑いあったことがありました。あれから50年! 毒舌漫談の綾小路きみまろの「あれから40年!」ではないですが、月日の経つのが早いのに驚かされます。2002年に『竹生島』を勤め、およそ20年後に井伊直弼公が創案した「女体」を勤めることが出来、能楽師人生、ありがたいことだと感じています。

ご報告
この度の能『竹生島』の演能写真は、主催の能楽協会と協会依頼の撮影者との契約にblog、SNS等での公開が含まれていないため、現在のところ、演能レポートへの掲載が許可されずにおります。

私が個人的に依頼した撮影者の写真であれば、掲載も可能だったのですが、今回、依頼していた方が前日体調を崩されて撮影ができませんでした。

今後は協会に契約内容の変更を申し入れたり、当日、不都合が生じた場合は代行者を立てるなどして、一期一会の演能写真を皆様にご覧いただけるように対処して参りたいと思っております。

(2021年10月 記)