竹生島参詣

平成14年9月、広島花の会で『竹生島』を舞うにあたって、滋賀県近江の竹生島に参詣に行ってきました。
竹生島は能『竹生島』『経政』にゆかりある地で、この二曲を軸に探訪してきました。

能『竹生島』は醍醐天皇の臣下(ワキ)が四の宮、逢坂の関を越えて琵琶湖湖畔、志賀の里に着き、漁翁(シテ)の釣船に便船を願います。
ここで笑い話を一つ、『竹生島』の次第は「竹(たけ)に生まるる鶯の、竹に生まるる鶯の、竹生島(ちくぶしま)詣で急がん」ですが、ある人が最初に竹(たけ)を(ちく)と読んでしまった、聞いていた先生は怒りたかったが、まー返し(二回目)には気が付くだろうと黙っていた、しかしこの人、返しも(ちく)と謡ったから、さあーたいへん! 先生、怒り出し、怒鳴って「こらー、たけだーっ」と…するとこの人、竹生島(たけぶしま)詣で急がんと平気で謡ったとか…。
能『竹生島』に話を戻します。シテ(漁翁、実は龍神)とツレ(女人、実は弁財天)は釣船を浮かべ、浮き世の業を悲しみながらも、春の長閑な景色を眺め、湖畔から声の掛かるのに気付いて舟を寄せます。
ここのところを謡曲では
「真野の入り江の船呼ばひ、いざ漕ぎ寄せて言問わん」とありますので、志賀の里、真野あたりで乗船させたことになります。「所は湖の上…」からの謡では左に比良叡山を眺め、満開の桜の花であたかも雪が降っているようだといいますから、春爛漫長閑の極みで能『竹生島』の一番の聞かせ所です。
しかし、謡の言葉通り櫓で漕ぐ舟では志賀から竹生島は余りに遠く、現実には無理です。フェリーの船長さんにお話をお聞きしたところ、昔、竹生島北側の半島から櫓を漕ぐ舟で、一時間もあれば着くことが可能な航路があり、当時は風を利用して行き来していたということです。
このフェリー会社も実はそこが起こりと仰ってましたので、航路としてはこちらが本当らしいですが、今は謡ならではの航路と思われます。

つまらない、くだらないの前評判でしたが、私自身はいろいろ勉強になり楽しい一日となりました。
皆様も一度は、御足の丈夫なうちに行かれると良いと思います。

長浜港より12時15分の乗船予定が、不手際により長浜港に着いたとき、丁度船が出発したところでした。港の方に「次の竹生島行きは何時ですか?」と聞けば返ってきた言葉が「あれが本日の最終便」。目の前真っ暗になりましたが彦根港より竹生島行きの船があることがわかりタクシーを飛ばして彦根港へ急ぎました。ちょうど30分前に到着出来、出航まで他の客を待ちました。しかし待てども客は一人も来ない。驚くことに我等一行のみの乗船で完全貸し切り状態。照れくさいようでもありましたが、気分は爽快でした。
能『竹生島』の謡に「月海上に浮かんでは兎も浪を走るか…」とありますが、私の見た物は海鵜の小鮎を狙う大群で、船が近づいても驚きもせず海面を漁っている姿でした。
竹生島までは彦根港より35分、長浜港よりは25分で着きます。都久夫須麻(つくぶすま)神社が見えてきました。
能『竹生島』では「舟が着いて侯、御上り侯へ」となりますが、このフェリー桟橋には防波堤が無いため、この橋桁がかからなくなる波の高さ、1.5メートルを越すと欠航になるようです。実際翌日は台風の接近もあり欠航でしたので、上陸出来た喜びもひとしお、幸運でした。
港からの全景です。とにかく、坂、坂の急勾配ですので、足の不自由な方、お年寄りには、骨が折れ一苦労だと思いました。
竹生島神社の鳥居です。これを直進して登れば宝厳寺(ほうごんじ)に着きますが、先に都久夫須麻神社にお参りしたいため、順路を逆に進みました。
能『竹生島』に縁のある黒龍大神です。下界の竜神が現れた所です。

竹生島は能『経政』の平経正にも関連があります。
寿永二年、木曽義仲が五万余騎の軍勢で都に攻めるとの情報を得た平家一門は維盛、通盛を大将軍に、経正、忠度他を副将軍としてこれを迎え撃つこととします。平家の軍が海津、塩津に控えた日、詩歌管弦に長じた経正は渡島参詣をして弁財天に戦勝を祈願します。
僧たちは経正が琵琶の名手たることを知っており、仙童の琵琶を参らせたので、経正は上玄石上の秘曲を弾きます。弁財天は感応にたえず経正の袖の上に白龍が現れたとは「平家物語」の中に出てくる一部分です。
眼下に見える景色と遠く連なる琵琶湖近郊の山々を眺め、平家の公達も合戦の前に幽美な雰囲気を味わっていたのでしょうか。
都久夫須麻神社の本殿
この廊下は観音堂移築と同時に掛けられたもの。秀吉の御座船「日本丸」の船櫓を利用して作られたそうでなかなか趣のある廊下でした。
唐門。京都東山の豊国廟の極楽門を移築したもので、観音堂に続いて建てられた桃山様式を示す貴重な門です。
唐門

宝厳寺に到着したのが夕方4時。島には我々ぐらいしかいないので、管理されている方が扉を閉めかけていたところでしたが、事情を説明し開帳していただきました。
弁財天。この島の弁財天には手がたくさんありました。
閉館していた宝物館も開けていただき、見ることができました。中には能面もありました。第十三代彦根藩、井伊直弼公は竹生島弁財天への信仰に厚く、安政二年弁財天へのご祈祷により病気が回復した旨の礼状を寄せられ、井関の面、小尉と小面一対を寄進されたということです。井関家は桃山時代から江戸時代にかけての能面打ちの家系で室町末期に活躍、三光坊の弟子で代々近江に住んでいましたが、四代目家重は江戸に出て「天下一河内」と呼ばれました。蛇足ではありますが、父菊生愛用の小面は堰と書かれており井関家の作であるようです。
経政が弾いた琵琶は火災のため焼失しましたが、撥のみが現存していました。また仙童の琵琶を玄上の琵琶ともいうそうです。
経政の人物画
二股の竹。能『竹生島』では間狂言がワキに、竹生島にゆかりのある宝物をみせます。まず宝蔵の鍵、次に天女の持つ数珠、そして当島第一の宝、二股の竹などを見せ、最後に岩飛びをして帰ります。その二股の竹が本当に見られるとは、驚きました。
二股の竹とは、葛城、大峰山で藤の皮や松の葉を衣として練行し、神変不思議の術を得て修験道の祖とされている役の行者の小角が、島の岩窟で苦行し、ついには弁財天の霊験を得、持っていた竹杖を地に立て、「もしこの地仏法興隆の聖地なればこの竹生長すべし」と祈願されたところ、竹杖はたちまち二股に割(さ)け枝葉を生じたという由来のものです。行者が島に残した「二股の竹」から竹生島の名が生まれたと伝えられています。

経塚の石。昭和47年の集中豪雨の時、崖崩れの跡から数多くの石経(鎌倉期)が発見されました。薄く平たい石に一個一文字の墨字の経文が記されています。能『鵜飼』にも待謡でワキの僧侶が読経しながら一石に一字を書き経をよむところがでてきます。
宗近の鎧通、 三条小鍛冶宗近作。能『小鍛冶』に宗近が帝の命により天下守護の剣を鍛える(打つ)ことになり、伏見稲荷に祈願し、精進の結果、稲荷の神の加護によりめでたく神剣を鍛え得たことを謡っています。
急遽、彦根港行が我ら一行の希望をかなえてくれ、帰りの長浜港行きにつなげることができました。
長浜港に到着、正面の白い建物が、ゆかた会会場の、長浜ロイヤルホテルです。