我流『年来稽古条々』(24)

我流『年来稽古条々』(24)

   研究公演以降・その二
『井筒』『弱法師』について

粟谷 能夫

粟谷 明生

明生 今回は第二回研究公演で取り上げた曲について話してみたいと思います。平成四年六月、能夫さんが『井筒』、私が『弱法師』を勤めました。『井筒』は三番目物の代表的な曲。能楽師の憧れの曲ですね。

能夫 そう、僕には憧れがありましたね。

明生 あのときの『井筒』が能夫さんにとっては披きですね。四十二歳、当然もっと前に勤めていてもいいのに・・・、憧れがあったから大事にとっておいた訳ですか? 実は私も『井筒』を披いたのは遅くて、ようやく二年前(五十一歳)です。喜多流では『野宮』はとても大事に扱いますが、『井筒』は意外に若くても出来るのではないですか? 型付通りに動き、謡えばそれなりの格好になりますから。でも私はそれが嫌で拒絶していました。

能夫 『野宮』は相当な覚悟がないと太刀打ちできないね。曲自体が演者を寄せ付けないところがあるけれど、『井筒』は確かに、あまり考えずに型通りやれば格好になってしまうあまさがあるからね。本当は後場なんか、情感とかいろいろ要素が必要だと思うけれど。

明生 そうです。私は『井筒』という曲を意識しない者が、「え?、まずはお試しコースの『井筒』あたりから・・・」という考え方が嫌ですね。安易に取り組まないでほしいです。私は『井筒』を大事にし、し過ぎてしまい機会をだいぶ遅らせてしまった訳で・・・(笑)。

能夫 なかなかこれぞという『井筒』には出会わないよね。本当にそういう面では『井筒』は難しい。あまり巧みすぎてもダメだし、坦々と演じるところも必要な気もするし。

明生 『井筒』の型付は定型の動きの連続ですね。しかも作品の完成度が高いから安心してしまう。でも、そこに演者が寄りかかり状態になってはいけない、演者の思いが彷彿されるような舞台を志す、私はそう思っていますよ。

能夫 そうだね。

明生 当然、舞歌の技術を獲得してからという大前提はありますが・・・・。

能夫 喜多流が劣っているとは言わないが、観世寿夫さんの能を観たときに、『井筒』への、曲への思い入れにずいぶん違いがあると感じたよ。

明生 喜多流の先人たちは『井筒』のような三番目物よりはドラマ性がある四番目物のように、型を利かせるような曲がお好み、という傾向でしたね。それは多分に名人十四世六平太先生への憧れからでしょうか。

能夫 寿夫さんの『井筒』を観たとき、こんなに面白い曲だったのかと感動したよ。それまで墨絵だった能が極彩色に見える、奥行があって、立体感がある。情念、怨みつらみといったものが押し寄せてくる。そういうものを観せられたわけ。あのシンプルな『井筒』の中に。それは憧れてしまいますよ。能の面白さは、ああいう『井筒』のような三番目物にもあると感じたよ。初めてね。それはドキッとしたよ。

明生 私は奥手で、ようやく、最近ぼちぼちと三番目物の魅力に惹かれていますが・・・(笑)。

能夫 あの『井筒』を観たときはまだ若造だったけれど、これからはこういうものを演らなければ! と思ったよ。当時は父たちが元気で演能していたから、それにも携わらなければいけないけれど、内心どこか違うなと思っていてね。今ならいろいろなアプローチの仕方が考えられるが、昔は父たちのやっていることに否定的でね。方法論はいろいろあるけれど、まずはあの『井筒』のなかに憧れるものがある、深いものね。すぐに獲得できるわけではないけれど、その方向でいくと、答えがあると思っていたからね。

明生 ずっと憧れをためていたわけですね。それで、いよいよ研究公演で『井筒』! 能夫さんは小書「段之序」で演りたいと言われて、ところが父に「なにも最初だから、小書なしでいいじゃないか。能夫ならまたすぐにチャンスがあるよ」と止められ、仕方なく断念したでしょ。あれ悔しかったですね・・・。研究公演は、流儀内の閉鎖的な縛りからはある程度自由であったはず、単に稽古したものを先生にお見せする会、そんな主旨の会ではないつもりだったのに・・・と。実際、それから十年以上の月日が経ち、ようやく平成十四年、横浜能楽堂のかもんやま能で「段之序」が実現出来たわけですが。波風立てないでじっと我慢することの勉強だったのでしょうかね?(笑)

能夫 どうかね(笑)。その「段之序」ね。普通はシテが「懐かしや、昔男に移り舞」と謡って、地謡が「雪を廻らす花の袖」と謡って序之舞に入るところを、「段之序」は「雪を廻らす・・・」もシテが謡うでしょ。一声からのシテの謡が段々盛り上がって、高揚していく、そして「懐かしや・・・」「雪を廻らす・・・」と区切りながら、全部シテが謡い、シテ自身が序之舞の位を作っていく感じで、これがいいんだな。

明生 「花の袖」の節扱いは素声(シラコエ)で積み上げ固めたものを、柔らかく溶かすような感じでここが上手に謡えると、いいですよね。この演出、私はいいと思いますが、そうでもないという意見もありますね。通常序之舞の導入部分は、シテと地謡が詞章を分け合い、互いに盛り上げる、という作り方ですが。

能夫 「段之序」はシテが主導権をもって引っ張っていく。囃子方とだけで高揚していく、特別だね。

明生 ですから、シテの謡い方が大事ですね。張りとメラス(?)、謡に変化を付けないといけない。

能夫 『道成寺』の乱拍子の中の和歌もそうだけれど、たたみ込むように謡うことで、エネルギーの爆発を、じっと押さえ、その思いが遂に溢れ出るようなイメージなんだ、似てるでしょ?

明生 「段之序」の歴史は、小鼓方大倉流と喜多流の間に昔からきちっとした約束事がかわされていて。先日、大倉源次郎さんが大倉家の伝書を見せて下さいまして。

能夫 ちゃんと話し合いがなされたということが、残っているんだね。

明生 そうです。『井筒』という曲で、喜多流特有の「段之序」のような、シテ自身が少し高揚していくやり方があるということは面白い事ですよ。本来、昔は、カケリを入れる演出だってあったぐらいですから。

能夫 そういうわけで、後日、「段之序」も演らせてもらったけれど、研究公演の『井筒』では、憧れの曲を、どういう思いを込めるかを考え、『伊勢物語』を読んだりしてね。僕にとっては、『井筒』が原点というか出発点みたいな意識がすごくあるね。シカケ・ヒラキといった技術のうえに、何か物語を作っていくという意識が芽生えた。ものを表現しようという原点みたいなものを感じたね。『井筒』は難しい曲で、いまだに結論は出ないけれども。でもいい時期に、若気の至りみたいな時期だけど、寿夫さんの刺激的な『井筒』を見せてもらったお陰ですよ。もう、目が輝いていた時代だから。

明生 その思いをためて、研究公演で勤めたわけだから。

能夫 そう。研究公演は最初、青山の銕仙会の舞台を拝借して催したでしょ。あの本当にお客様と近いところで、『井筒』ができた喜びもあったね。

明生 さて、私の『弱法師』ですが、これは根底に技術至上主義みたいなものがないと出来上がらないですね。

能夫 そうね。『弱法師』は単にシカケ・ヒラキだけでは通用しない、技と心だね。

明生 なんといっても盲目の杖の扱い方が難しいですね。喜多流の杖扱いは独特で、パチパチと音を強く立てるようにして突きます。杖の先が体の正面中央にあるべきなんですが、ところがなかなか、うまくいかない。左か右に多少ずれてしまいます。上手な方の杖はラインがきちっと、よいところに決まり綺麗で、力をも感じられます。綺麗過ぎて、この人、本当に乞食の少年なの? と思ったりして(笑)。

能夫 長刀や杖という特殊なものを持つときは、まずはきちんとした技術力の修得が必要だよね。

明生 ですからまずは早めに一度経験して、杖の技をきちっと身につけなくてはいけないと思い、早くやりたい、と。それも父から止められて・・・。

能夫 そうだったね。明生君が研究公演の第一回で『弱法師』をやりたいと言ったね。「まあまあ、もう少し後で」と僕も言って、でも二回目には演ったね。

明生 なんでも準備が整えば、早いうちに一度演るべきという考えは生意気かもしれませんが、変えるつもりはありませんよ。技術力がどのくらい大変かを早く知り、早めに稽古に取り組む。年をとると、もう手足だけでなく、頭までも、すべてが鈍くなりますから(笑)。早く手がけて技術をマスターする、プロなら当たり前のことだと思いますが。そこを楽屋内の雰囲気を気にして怠る、遠慮する。それでは不健康でしょう、次が見えてこない。

能夫 杖でも長刀でも同じ、新しい道具が出てくると、その使い方ばかりに気をとられてしまうね。
僕が若いときに見ていた流儀の『弱法師』というものはね、ただ「貴賎の人に行きあいの」のぶつかる型だけの印象なんだよ。あそこだけ(笑)。

明生 ハハハ。私の好きな型は「紀の海までも見えたり、見えたり」と、盲目の目にも難波の風景がありありと見えると手を伸ばすところ。手と顔の向きを正反対にするタイミングがコツだと父は教えてくれましたが、そのあと、少しはしゃぐ風情で舞台をめぐる、しかし、盲目の悲しさで、その場に大勢いる人たちにぶつかり、よろけ、人々に笑われ、確かにここの印象しかなかったですね(笑)。最後にはへたりこんでしまう場面ですよね。

能夫 そう、あの大事な場面ね。寿夫さんの『弱法師』だと、そのぶつかるまでに心の陰影があって、ドラマというか志が立ち上がってきて、ぶつかることが必然だなと感じさせるものがあったんだよ。ところが喜多流のだと、ただぶつかるだけ。陰影も無ければ、心の動きも僕には見えなかったよ。寿夫さんのは、僕がまだ若造で、百%喜多流の意識で見ているから、なんてすごいんだと思ったよ。ああ、これが『弱法師』なのだ、これがお能なんだとね。それまではシテ柱に杖をカチッと当てる格好良さとか、型のことだけ考えていた若造でしたから。あれから自分の能に取り組む姿勢を考える、きっかけの曲となったね。

明生 能楽師は型を追求するだけで終わってしまってはだめですね。登場人物がどういう気持ちでいるか、なぜそのようになるかを知り。そう、なぜ俊徳丸が盲目の境涯になったか、日想観をすることで、目が見えていた時代に立ち返り、晴れやかに心の目で景色を見る、しかし現実の厳しさにふと我に帰る、最後は父・通俊と出会うわけですが・・・、そういうドラマですよね。
舞台になっている四天王寺、その裏手にある悲田院は今もありますが、家族や世間から捨てられた人が施しを受けにやってくる場所だったんですね。以前に行ったとき、詞章にあるようにまさに「踵をついで群集する」という感じで、貧しい人たちが大勢いましたが・・・。二年前に行くと、その人たちはいなくて、景色が変わっていましたよ。

能夫 何かの政策で、移動させられたのかな・・・。

明生 どうでしょうか。『弱法師』という曲は、そういう世間から捨てられた人の物語ですよね。そういうドラマを表現するためにも、早いうちに一度演って、技の修得をしておく。そして次に自分なりの『弱法師』の曲づくりですよ。十郎元雅作の名曲ですから、遣り甲斐と手応えのある曲ですから、若者が早めに一度。
私は研究公演の後、平成十五年八月に、秋田県のまほろば能で『弱法師』を小書「舞入」で勤めました。「舞入」は右手に扇、左手に杖を持って舞いますが、やってみて想像以上に難しかった。左手は一般に利き腕ではないから、思うようにいかない。まあ、それが出来るようにならなくてはいけないので集中して稽古しましたが、一度研究公演で勤めていたからある程度は楽でした。
はじめて勤める時に父から「最低これぐらいのことはやってくれよ」と言われまして。父は技術的なことばかり教えてくれましたよ。

能夫 技術的なこと? はじめての、研究公演の時だね。

明生 そうです。杖の扱い方ですね。この時の杖は右で顔が左、シテ柱に杖を当てたら顔は左、その時やや顔を斜に構え、なんて細かく具体的に教えてくれましたよ。でも挑んだから教えてくれたので、待っていても教えてはくれないんだ、ということが判ったのが一番の収穫かな(笑)。父にとっての『弱法師』は、ある程度技術力を高めることで作品は完成するという考え方だったのでしょう。とにかく技を正確に上手く、使えるように習い、稽古しろ、ということだったのかな。

能夫 『弱法師』は若者にとってすごいプレッシャーの曲、憧れの曲でもあり、挑戦のしがいもある曲、技術力もいる曲だね。だからこそ、次の世代の人たちの俊徳丸が早く観たいよね。(つづく)

コメントは停止中です。