我流『年来稽古条々』(23)

我流『年来稽古条々』(23)

   研究公演以降・その一
『三輪』『熊坂』について

粟谷 能夫

粟谷 明生

明生 今回からは青年期以降のことを話していきたいと思います。青年期の様々な課題を終えて、能楽師としてどう生きていくか、第二のステージに立たされるとき。能夫さんと二人で研究公演を立ち上げましたね。第一回は平成三年で、能夫さんが四十一歳、私は三十五歳でした。

能夫 研究公演は明生君が言いだしたね。当時は粟谷能の会でも父や菊生叔父が頑張っていたから、僕らは初番かトメに出してもらうぐらいだったでしょ。曲目の選択の余地はなかったし、僕ももっとたくさん舞いたいと思っていたところだったからね・・・。

明生 私は将来の見通しというものが気になる性質(たち)で・・・(笑)、十年後十五年後は、どのようになっているか心配症で、推測してしまう性分で・・・。もちろん推測ですからハズレも無駄もあります。不謹慎ですが、そのうち父も新太郎伯父もいない時代が来る、そのときを見据えて、今から力をつけて準備しておかなければいけないと・・・三十代になって危機感を持つようになったのです。

能夫 明生君の覚悟みたいなものを感じたよ。実際、十五年後にはその通りになったからね・・・。

明生 力をつけるにはどうするか。青年期を過ぎたら、曲とどうのように出会い、対処するかが重要だと思います。難易度の高い曲を披きという形で挑戦したり、あるいは一度勤めた曲を小書によって視点を替えて取り組む、あるいはよく演じられる曲についても、能役者が自分の成長にあわせて、その年々に曲とどう出会い、どう掘り下げるかを問うべきだ、と思います・・・。

能夫 それをやってきたのが研究公演だったね。「研究」と名がつくだけに、師や親に言われるだけのものではない、自分たちの思いや志を形にする、研究的に取り組む姿勢だよね。曲の読み込みを主として、己の能を自分なりに考え創り上げていくことが第二ステージには必要でしょう。

明生 青年期までの能の習得はまずは基本形、第一ステージから入り、謡と型を体の器官に叩き込む、という方法で技を修得します。体に染みこんだものは老いても忘れないという教えからで、能を志す者はこの方法で鍛え上げられます。基本は大事なことです。しかしその段階をクリアーしたと満足していては不十分と気がつかないといけないでしょう。第二ステージからは作品の読み込みが不可欠で、体に叩き込んだあと次の段階に何をするかが大事ですね。

能夫 そういうことだね。小書については、やれ特別演出だとか、目新しいことをすればいいと考えるのは問題だ、と苦言を呈する方もいるね・・・。

明生 確かにそうです。小書を四つも五つも並べるのは趣味じゃないですが、でも作品の読み込みに、小書は一つの良い手段になります。一応、初演は小書なしで勤め、次に小書で挑戦する、すると新たに見えてくるものがあります。たとえば『安宅』で、普通にお披きをしてから「延年之舞」という小書に挑むのであって、いきなり「延年之舞」はあり得ません。つまり「延年之舞」は作品をより深く読み込む投薬になる可能性がある、最終的には、小書をつけなくても作品の真髄を表現出来るようになれたら、最高位だと思います。「却来(きゃくらい)」とは・・・、最終地点がともするとスタート地点に近いところにある、という考えだと勝手に解釈しているのですが・・・。私個人の意見としてですが、能役者が原点に戻る一つの手段として小書演出に取り組むことは大事なことだと思います。いろいろな発見がありますから。

能夫 明生君はこれまで小書に意欲的に取り組んできたけれど、そういう思いはなんとなく感じていたよ。

明生 研究公演の第一回の番組に「様々な試みを研究し、私たちのよりよい演能を!」という、我々のモットーのような一文がありますが、あれ、気に入っていまして、まさにその通りで、演ってみたい曲に取り組み、小書など様々な演出や工夫を試みる、そんな拘束されない会にしたかった。自分たちの会ですから、少々冒険をしても許してもらう、自由に思い切りやろうと・・・。

能夫 燃えていたね。明生君はこの当たりから本当に意識的に能に取り組むようになった、昔と変わったね、成長したなと思ったよ。喜ばしいことですよ(笑)。

明生 それで、この当たりから振り返ってみたいと思うわけです。実は、研究公演についてはホームページのロンギの部屋で「研究公演つれづれ」として掲載しています。今回多少重複するかもしれませんが、研究公演で取り上げた曲を手がかりにして、その後の展開や能への思いなどにも広げて話し合っていけたらと思いますが・・・。

能夫 研究公演で取り上げた曲は、いずれも思いのある曲ばかり。その曲を手がかりにするのは話しやすいね。

明生 ということで第一回の曲からはじめましょう。

能夫さんが『三輪』、私が『熊坂』でした。能夫さんは『三輪』でも当時は珍しい「岩戸之舞」の小書で勤めましたね。『三輪』の小書といえば「神遊」です。私も「神遊」には憧れがあって、昨年粟谷能の会「粟谷菊生一周忌追善」で披きました。「神遊」は『道成寺』を披いてから許される位の高い小書で、流儀の者ならば憧れる小書ですね。それをあえて「岩戸之舞」にこだわったのはどうしてですか。

能夫 それは以前からの志、ということかな。「岩戸之舞」という小書について、我が家の型付には二通りあることを僕は早くから認識していたんだ。ところが先人たちは一方の型しかやらない。僕はもう一方のものを掘り起こしてみたいと思っていたんだ。

明生 そのふたつの型はどのように違いますか。

能夫 よくやられる型は天照大神がどこに隠れているのかと、暗闇の中を探す型でイロエの型が入る。もう一方の型は神々が神楽を奏し舞うと、天照大神が天の岩戸から出るというとても原始的なもの。天鈿女(あまのうずめ)が岩戸の前で舞ったという神話があって、それが芸能の始まりともなっているわけでしょ。そういうとても原初のものが喜多流にもあるということを演っておきたかったんだよ。

明生 『翁』にあるような型をしますね。

能夫 そう。扇で口元を隠し、袖をかづく型で太陽の出現を表したり、また左袖を巻く、喜びの型もするんだ。来年、僕は『葛城』を勤めるけれど、それにも「岩戸之舞」があるよ。観世流には『葛城』に「大和舞」という素晴らしい小書があり憧れてしまうが、それに匹敵しないまでも、同じような舞です。岩戸の前で舞った原始の舞だよね。

明生 それにしても『三輪』という曲は原始というか、いろいろなものが入り混じっていて、複雑な曲ですね。

能夫 神婚譚が出てきたと思ったら、天の岩戸を開く話になり、話が前後したり重複したり、関連がなかったり、何か変だよね。それらを重層させることが、一つのまじないのようであり、呪術性が出るかもしれないけれどね。

明生 複雑ですが、一つの表現方法ですよね。原初の神、神話に出てくるような神は、一般的な神の存在意識よりも、もっと身近なものとしてあったのではないですかね。

能夫 肉感的であり、現実的なものだっただろうね。神様だって男もいれば女もいるしね。

明生 崇め奉るような高みにあるようなものではなく、結婚もすれば性交もする、不思議なエロチシズムがあって、とても身近で、人間的・・・。でも能はそれらをうまくオブラートに包んでいますね。そのあたりに気がつくのは、ある程度年を経てからかもしれないなあ。

能夫 『三輪』の後シテは緋色大口袴をはいて、鬘帯をして出てくるというのが普通のイメージでしょ。でも観世寿夫さんは、小書「素囃子(しらばやし)」で原始的な出立ちで出てこられてね、それが素敵なんだ。そのイメージもあって、原初にかえる曲創りをしてみたかった。

明生 私は昨年、憧れの「神遊」を勤めて、正直『三輪』はもういいかなと思いましたが、ここで話していたら「岩戸之舞」で新たな工夫をして演ってみたくなりました。思い切りわがままにね。もう少し年を経てからがいいかな・・・。
今度は私の『熊坂』の話にしましょう。能夫さんが選曲してくれましたね。

能夫 『熊坂』ってたいへんな曲だからね、ちょうど挑戦するのによい機会だと思ったんだ。

明生 自分の会で、『熊坂』に挑むとなると、俄然やる気になりました。三役も自分たちで決めて交渉係は私、番組作成も。二回目からは新しい形にしたいとグラフィックデザイナーとも相談して・・・、自分自身でプロデュース出来る貴重な会として、実に面白いと思いましたよ。

能夫 それが「人任せ」の会とは違うところだね。すべてを学ぶことになるね。

明生 『熊坂』の中入りの型は常座で廻返シと型付にはあります。披きではありましたが、そこを、父の薦めもあって、スーッと消えていくように、何もせずに幕に入る替えの型で演りました。それをご覧になられた銕仙会の笠井賢一さんに「あの溶けて消えていくような感じを表現するには、シテ方と囃子方とが双方もっと何かする余地がある。菊生先生の謡と明生君の動きが、ちぐはぐに感じたのはどうしてだろうか?」と言われました。

能夫 単に型を替えるだけではなくて、その舞台全体でムードを替えなければならないということかな。

明生 そうですね。父の地謡は従来の廻返シに似合った謡い方で押し通して、そこに力量不足な私がスーッと消えようとしても効果が上がらなかったのだと思います。後日、父に「何もせずに中入りする場合は、常の廻返シの時とは違うように工夫し、謡わないとだめみたい」と話したら、父がいやな顔しながら、ごもっともだな、と答えたのが印象的で、型を替えるならば、囃子方も地謡も全部が協力して創り上げていかなければ無理だということを学びました。当たり前のことですが、肌で感じた勉強でしたね。そして、演者サイドばかりで話すのではなく、笠井さんや見所の第三者にも指摘してもらうことの大事さも知りました。

能夫 僕は『熊坂』をその後、喜多自主公演(平成十七年十一月)で演っているね、もう、三年前!か

明生 『熊坂』は、若造では勤められない曲だと思います。後場で長刀を振り回し、動き廻るので、あまり年をとってから勤めるのは苦労するかもしれませんが。

能夫 でも、菊生叔父も演っていたね、観世銕之亟先生も晩年になさっている。僕も『熊坂』という曲は本当は若造ではできない曲だと思うよ。だからみんな、五十歳を過ぎてからやり直すというか再挑戦している。その姿を見ていたから、自分も・・・と思った。演ってみると、いやあ面白いんだね。もちろん若い頃ほど体は動かないよ。でもそれでもスタンスを替えて挑戦する、これはまさに『熊坂』のシテ・熊坂長範なのよ。その悲惨さみたいなものが、その年になってしみじみとわかるようになる。体を通して表現できるようになるというのかな。先輩たちもそういうものを目標にしていたと思うね。

明生 体の動きが鈍くなり、そういう体力的なものに追いつかなくなるジレ、それがかえって作品を引き立たせるのかもしれません。もちろん、歳を経ねば何事も・・・ということではないのですが。

能夫 動けなくなったときの喪失感だね。

明生 でもそれには、若いうちに、動いて動き廻っておかなくては成就しませんね。年をとって、さあ本物を演ってみようとしても、そりゃ無惨ですからね。

能夫 最初から動けないのはダメだよ。年月が経ち、前みたいに動けない、でも必死になって挑むというムードね。肉体はついていかないけれど、精一杯やっているという中から出てくる表現だね。

明生 老いの抵抗? 必死なもがきみたいなものが喪失感を溢れ出すのでしょうか。私も二、三年のうちにもう一度演ってみようかな。

能夫 体が動かなくなったとき、永年培ってきた精神力というか、精神性、いろいろな思考がマッチしてきて、舞わせてくれるんじゃないかな。

明生 『熊坂』に長裃という仕舞の小書がありますね。

能夫 僕は後に研究公演でやったよ。『熊坂』の仕舞を長裃をつけて舞うんだ。昔、意地悪なお殿様が、わざと難しい注文を付けて演らせたのかもしれないね。長裃は裾さばきが難しいから、飛んだり跳ねたり、飛び廻ったりするのができない、別な表現方法が必要になるんだ。僕も演ってみてそう思ったよ。

明生 新太郎伯父は長裃でも飛んじゃいましたね。追悼号の「阿吽」に掲載された写真が『熊坂』の長裃姿ですね。

能夫 ああ、あのときは菊生叔父が謡ってくれてね。父は長裃の扱いに自信があったんじゃない。同じような趣向で『谷行』の素袍という小書もあるね。父が演るにあたって、実先生に教えを乞うたら、「私は知らない。後藤の兄が六平太先生から伝承しているから兄に聞け」と言われて、習いに行ったよ。僕もその稽古に付き合っているから型は知っている。『谷行』の素袍は後藤得三先生から新太郎、そして僕へと、伝承されているというわけなの。裾さばきに独特な工夫があるよ。

明生 能は高年齢になっても、いろいろ条件をつけてやり様があるということですね。

能夫 能はその人の生き様みたいなもので、表現できる範囲がいくらでも広くなるということですよ。それができるためにも、早くから曲の読み込み、研究、工夫が必要だね。

(つづく)

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