我流『年来稽古条々』(20)

我流『年来稽古条々』(20)
 ?青年期・その十四?
   『翁』について(1)

粟谷 能夫
粟谷 明生

明生 これまで『猩々乱』から始まって、青年期に重要な披きについて話してきました。今回はその披きの流れからいって、青年期より上の年齢での披きになりますが、『翁』について話し合っておきたいと思います。私の披きは平成七年、宮島の厳島神社・御神能のときで、三十九歳でした。能夫さんは何歳のときですか。

能夫 僕も同じ御神能のときで、三十四歳だね。『翁』の披きは通常は四十歳前後ということじゃないかね。


明生 『翁』は能以前の段階で神事として執り行われ、今につながっているので、特別ですから軽くは扱えませんね。

能夫 各流儀とも、昔も今も大切に扱っているね。


明生 以前は流儀の長老か代表役者が勤めるという風潮で、若手では『翁』を披くことは難しかったような印象を受けていますが。もっとも最近はそのような制約を払拭しつつあるようにも思えます。現に一月の初会では今後順次に若手にも順番が廻ってくるようですから…。

能夫 一時、日本能楽会会員になるには『翁』を披いていなければ云々ということがあって…、それでそういう配慮をしよう、という風も起きたね。


明生 そういう縛りがあったためか、『翁』を披いていない人は自分の会で披かざるを得なかったということもありました。でも自分の会で多大な投資をしてまでする曲ではないというのが、私の本音です・・・。

能夫 そうね。でも今は日本能楽会会員になるためという条件は外れたんでしょ。


明生 なくなりましたね。女流能楽師の入会が関係しているでしょうか…。

能夫 それにしても、我々は厳島神社の御神能で勤める機会があるからありがたいね。


明生 本当にそうですね。厳島神社の御神能は、毎年四月十六日と十八日を喜多流が担当していますが、初日の翁付脇能を隔年に執事の出雲康雅氏が、その間を能夫さんと私で勤めていますから、このところ我々は四年に一回、『翁』を勤める機会に恵まれていますね。

能夫 父はこの御神能が好きで愛着があったな…。晩年にはまた来年これるかなとよく言っていたよ。四月というすがすがしい季節で、とても気持ちがいいよね。一年息災に過ごし、今年も無事ここにやって来ることができました。ありがとうございましたと、自然と神に感謝する気持ちになるよ。


明生 四月十六日が一年の始まりのような、厳かで新鮮な気持ちにさせられます。我々はここで『翁』を披いたと考えていますが、こういう野外の神事で行う能では正式な披きとはいえないという意見もあるようですが…。お相手の狂言が素人だったりすることもあるからかもしれませんけれど・・・。

能夫 確かに御神能は全体に素人の方が多くなさって、我々がお手伝いする格好だし、参拝者がゾロゾロ歩いていたりするわけで・・・、でもそんなことがちっとも気にならないじゃない。何しろ厳島神社というのは『翁』を勤めるにはいいロケーションですよ。やってみるとわかるんだな。四月、若葉がもう萌え出していて…。幕を開けて一足出ると、空気は澄んでいるし・・・。もう、こんなに大夫冥利に尽きるところはないですよ。


明生 燦々と輝く陽の光とか海の匂いとか・・・もう自然を感じますね。自然の力に圧倒されるんですよ。装束だって陽に照らされた色を見ると、極上の綺麗さでしょう。能夫さんがよく言っていますよね。自然の神々しさ、木々の生命力、そういうものに訴えかける気持ちもなければ駄目だって・・・。

能夫 そうだよ。『翁』では我々は神にならないといけないんだから。


明生 宮島はその気にさせられる絶好のロケーションですね。

能夫 もともと『翁』というのは五穀豊穣、天下泰平を祈る祝言性の強いもので、一般の能とは違うよね。


明生 「能にして能にあらず」ですから。古い芸能の形ですね。「とうとうたらり」とあの訳の判らぬ呪文めいた謡も然り、「天下泰平、国土安穏。今日の御祈祷なり」と謡い舞うわけですから、演劇性はなく、「祈り」のパフォーマンスですかね…。

能夫 昔は、『翁』には特別な意識があって、勤める前には精進潔斎をしていたわけでしょ。


明生 勤める前日に沐浴して身を清め、食事も「別火」にして作るとか、私、恥ずかしながらしたことはありませんが…。楽屋は今でも女人禁制になりますね。

能夫 前の日は自宅に帰らず、別世界にいるような意識だろうね。銕仙会の浅井文義さんが銕仙会の舞台に泊り込んで精進潔斎をされたと聞いているけれど…。なんでも親父さんの書き付けがあって、それには翁汁という小豆汁のようなシンプルなものを食べて禊をするとあるらしいよ。


明生 そうですか。貴重な体験ですね。

能夫 そうね。厳島神社の御神能では、楽屋に翁飾りの祭壇が作られ、演者はその前に並ぶでしょう。


明生、そう。普通はまず太夫にそして三番叟、千歳、そしてお囃子方へと、後見二人がお神酒と土器を持ってお酌に廻りますが、後見が動かず演者が交代で移動してお神酒を頂くのは御神能の特徴かもしれませんね。

能夫 翁は元はといえば御神事そのものだったわけよ。それを芸能にしたのは観阿弥といわれている。あの有名な今熊野で大和猿楽四座が催した能のときね。


明生 鬼夜叉(世阿弥の幼少の呼び名)が足利義満に見出されたときの、あの歴史的な催しですね。

能夫 そう。あのときは、義満の側近である南阿弥という人が企画して、猿楽というローカルなものを中央に持ってきて将軍に見てもらおうとしたんだ。そのとき観阿弥に『翁』をやらせた。当時は『翁』といえば、その座の長がやることになっていたわけだけど、結崎座として、長老ではなく、一座のスターであった観阿弥が勤めた。その観阿弥の芸を、もちろん眉目秀麗だった鬼夜叉への寵愛もあったけど、義満が気に入るところとなったわけ。『翁』を長老ではなくその一座のスターがやるというのは、異例なことだったんだ。


明生 そのとき、観阿弥・世阿弥は何歳でした?

能夫 観阿弥が四十二歳、世阿弥は当時は鬼夜叉だけど、十二歳だったかな?・・・。


明生 観阿弥が四十二歳か。私たちが『翁』を披いた時期と同じくらいですね。長老でなくトップスターが勤めるにしても、四十歳ぐらいというのは適当かな…。

能夫 長老がやるのは神事という位置づけだけれど、一座のトップスターがやるのは芸能という位置づけになる。だから観阿弥が神事を芸能にしたんだと聞いているよ。もちろん、昔ながらの神事をそのまま継承した流れも、明治時代ぐらいまではあったようだけれど…。神事を芸能にしたというのは、芸能者が厄を祓い福を呼び寄せるという役目を担うということで。芸能は瓦乞食の所業と言われながらも、必要とされ今日まであるのは、人々を代表して厄を引き受け、福を祈るというところにあるんじゃないかな。


明生 そもそも、我々がやっている芸能の根っこはそういうところもありますね。芸能の力は祝言の力というか・・・。五穀豊穣や天下泰平という祈りから始まって、人間の悲しみ、苦しみ、すべてそういう普遍的な負を背負って、それを提示し、その苦しみから救済するという役目だと思います。

能夫 そう、それが芸能の根源。我々が能役者としてやっている根拠なんだよ。


明生 『翁』は能の根本芸ということになりますね。それにしても、お能の歴史の始まりといってもいい、あの記念すべき今熊野の能で観阿弥が『翁』を勤めたとは・・・。『翁』という曲の見方が少し変わりましたね。

能夫 あれがなかったら、今の我々もなかったかもしれない。その後、世阿弥が数々の台本を書き、能を発展させていくことにつながっていくわけだから。


明生 そう考えると、『翁』を単に儀礼的にやるだけではいけないことになりますね。

能夫 祝言性なりを体に引き受けていないとね。


明生 五穀豊穣や平和を祈るという芸、その根本にあるものがどこかで生きていないといけませんね。舞台に出て翁の面をつけることによって、神となり、人々を代表して厄を引き受け、福をもたらすという意識かあ…。

能夫 翁という存在になって、エネルギーを持って演じないとね。芸能者が神に通じる何かを感じて演じなければいけないということだね。


明生 でも、『翁』は全部で一時間ほどでしょう。その中で三番叟(大蔵流では三番三)が三十分ぐらい占めますから、我々翁大夫(シテ方)が演じる時間はとても短い。出入りの時間を引くと正味十五分ぐらいのものでしょうか。型付だけを見れば、まあ簡単にできてしまい安易に考えてしまいがちです。これが我々能楽師の陥りやすいワナで、一番悪いところですね。

能夫 そうだよ。型だけではない、精神性が大事だよ。もっと『翁』の根源的なことを意識して、それを体に入れてやらないとね。

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