続・面について

続・面について

粟谷能夫

父新太郎がいつも好んで掛けていた小面があります。先輩のお世話で手に入れたものですが、父が最初に集めた面で、我が家の小面の中でも一番年増の表情をしています。同じ小面と呼ばれる面でも表情や年齢に幅があり、この曲なら、この小面が相応しいとか、この小面なら演出の幅がここまで出来るなど演能意欲をかきたてられます。
私も当初あまりふくよかでない清楚な表情をした小面ばかりを使っていました。その大人びた印象に引かれたのだと思います。やがて自身の成長と共に様々な発想が生まれ、曲趣といおうか、その曲にふさわしい面を選択するようになりました。
時が経ち『野宮』を舞うことになりました。シテの深層心理の複雑さを考えると小面では成り立たないところがあるような気がして、たいそう悩んだ思いがあります。当時は喜多流の専用女面は小面を使う厳然たる流是があり、小面以外の選択肢は考えられませんでした。『野宮』に使えそうな小面を二、三面手にとり、結局、父が好んで使っていた小面といたしました。何か小面の創成期に近い古風な表情をしており、中に強靭な意志を含んでいるような力強い小面です。また一方でつややかさもあり、ひとことでは言い表せない深みのある面です。
能を舞う時には、どの面にしようか、装束は何にしようかと、まず第一に面の事が頭に浮かびます。観世寿夫先生は「面は安心して己の全部をゆだねられるものであってほしい、と同時に思い切って闘い合える相手でもなければならない」と書いておられます。この言葉は肝にめいじておかなければと思っています。
面と向かい合う機会が増えてゆくと面の裏の様子や刻印、面目利き極め書にも目が行くようになり、面打師の事にも興味を覚えるようになりました。
能面伝書によると、桃山時代から江戸時代になってくると、世阿弥が挙げた十人の能面作者は「十作」、室町末期までの六人の名人を「六作」と称するようになって、江戸期になると世襲能面打家が確立していったようです。
また九代目喜多健忘斎古能の著した「仮面譜」や「面目利書」を通して、能面の名称の起源、焼き印の形、彩色、かんな目の特徴などいろいろのことを学びました。健忘斎藤古能は多くの伝書を残してもいて喜多流にとっては中興の祖であります。広島の厳島神社所有の能面の中にも裏面に喜多古能の花押のある極め書があるものが多数あり、古能の面に対する造詣の深さを見て取れます。
家伝の面の焼き印や目利き極めに是閑、大和など多数の作者名を見出し、古面(新作面に対する)を持つことの豊かさをかみしめています。同時に、父の七回忌の今年、一面一面コツコツと集めてきた、祖父や父の仕事の大きさに、改めて思いをいたしているところです。

写真 『卒都婆小町』17年3月6日 粟谷能の会 撮影 東條 睦
小面 粟谷家蔵 撮影  粟谷明生

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