松風を終えて

松風を終えて

粟谷明生

 松風 この曲は道成寺より難曲であることを強く感じました。
 道成寺の場合、静の乱拍子、動の急ノ舞、それからクライマックスの鐘入りと続き、中入りはシテ一人で鐘の中で装束を着替え、蛇体となり現れ、祈り祈られ最後は幕の中に走り飛び込む。まことに技の極みの連続でありますが、この鐘入りの作り物の中というのはある短い時間ではありますが、それまでの緊張が解け自分に帰り、しばしの休息がとれる逃げ場があるのです。
 それに引き替え松風は、真の一声の二人の海人乙女の侘びしさを嘆く謡から始まり、月光の中での塩汲みの段、ワキとの問答からクドキ、舞台上での物着、そして恋慕の狂乱の舞、キリの仕舞どころ、と劇として一曲全体の心憎い程の巧みな構成の中で、演者の精神と体力の持続がいかに辛く、困難で、大事な事かを演じ終えてはじめてわかりました。
 先達の、その辛く、難しい、苦労を少しも感じさせない舞台の凄さに改めて低頭するばかりです。

 私は今まで数回、シテ連(村雨)をやらせて頂きましたが、その都度、シテ連としての重要性を痛感いたしました。
 父菊生のシテ連は三回いたしました。私は父の松風はいつも小面の中から見える一センチ四方の世界で感じてきました。謡い方、歩む速度、間のとりかた等、ただシテの力に乗せられて動かされていたように思います。
 演じている時は、ここはシテ連としても自己主張しよう、もっとはって謡おう、位をもった歩みをしよう等と、思って演じてはいるのですが、今考えてみると悟空がお釈迦様の手のひらで好き勝手に飛び回っていたようにしか思われてなりません。父をはじめ先輩の方々は、私の思いの外で大きな力を持って演じられていた事がシテを勤めてはじめてわかりました。

 松風という曲に憧れを持ちはじめてから、印象に残る一つは、伯父新太郎の松風でした。松模様の古い紫長絹で舞っている姿に、いつか自分も──私のは寸法が小さいのではと思っていた松模様の長絹がどうにか着れて、鏡に映った自分の姿を見たとき「これで装束は良し」と思わず笑みを浮かべてしまいました。装束は決まり、いざ面となると、なかなか決まりませんでした。粟谷家には松風に使える小面は数面ありますが、その中の一面、井関の小面─これは父以外、誰も使用しないという暗黙の了解の小面なので、気に入っているのですが父の元気なうちは使わないと思っています。
 実は昔一度この井関でもめた事があるのです。十五年前父の承諾なしに船弁慶に使用した時でした。私には何も文句を言わず伯父新太郎に「あれはおれの面だ、どうしてだした」と噛み着いたようです。私はその話は後日、伯父より聞かされましたが、父のこの小面に対する愛着心、執着心はわが子でも、触らせたくない、貸したくないという程の気持ちであることをその時はじめて知りました。

 今回は、伯父所有の、媚と銘のある小面を使う事といたしました。この面は艶のあるお顔で、目がものをいうようなすばらしい面です。今、大変気に入っている面です。
 そのうち、これは明生しか使わない、という演者に自分もなりたいと思ってますが、私の心の片隅にいる浮気虫が「井関の面をかけてやってみろ」といわれるのを待っているようでもあります。

 これからも自分を鍛え、力のある、大きな存在感のある能役者になりたいと思っています。


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