母の残してくれた私の演能記録を見ていましたら、十三歳の時、第一回粟谷能の会(昭和三十七年十月七日)に父の『景清』でツレ(娘・人丸)を、同年十二月に『烏帽子折』の子方を勤めておりました。当時、学校から帰宅すると、喜多実先生のお宅へ伺い稽古をして頂く毎日でした。
『烏帽子折』は子方(牛若丸)が平泉を目ざす道中、鏡の宿で平家方が牛若を探索していることを知ると、姿を変えるために烏帽子を求め、また赤坂の宿では盗賊、熊坂を討ち取る活躍を見せます。この曲で子方卒業と言われております。そして能楽師としての本当の修行が始まるのです。
其頃父から太鼓の稽古に行くように言われました。自宅から歩いて通えるお宅で、太鼓金春流の柿本豊次先生の稽古を受けました。いざ太鼓を目の前にした時、太鼓の皮の真中に撥革(この上のみ打つ)がはってあり、正確に打てるのかと不安でした。其後、小鼓、大鼓と稽古を受けるようになり、謡の地拍子の理解に役立ちましたし、お囃子の方々のご苦労も身にしみて分かりました。
太鼓の稽古を始めるにあたり、父が金春流太鼓手附を用意してくれました。その中に『山姫』という曲目を見つけたのです。謡本を探してみると、大正九年発行の謡本がありましたが、変体仮名のため当時は全く読めませんでした。それ以来、私の頭の中にいつか『山姫』を世に出したいとの思いがふくらみ、今日にいたりました。
能『山姫』は「山里いかに、春を知るらん」の心で、春の花を眺めるため山々を散策する里人(ワキ)が、山姫(シテ)にめぐりあい、山姫が四季折々の眺めを舞い語るという、一場面(中入りのない)のシンプルな内容です。山姫とは山を守る女神だとか、少し怖い妖怪であるというような民間伝承もあるようですが、今私は、山姫は自然の厳しさというより花鳥風月を愛でる山の精と感じています。
日本人の四季を愛でる文章の多くは、自然との共存を見出し、人間もその一部であると実感せしめることに徹しております。例えば日本人は虫の音を聞き夏の終わりを思ったりしますが、欧米人には、雑音としてしか聞こえないといいます。また、日本人は月の呼び名を多く持っています。四季の気配をいち早く感じる民族なのです。
『山姫』の能にも、日本人の心の中にも、四季の移り変わりの中に美を見出してきた日本古来の感性や自然に対する畏敬の念が根底にあるように思います。このようなことを思いながら、今年の粟谷能の会(平成三十年三月四日)で『山姫』を勤めます。
『伯母捨』シテ 粟谷能夫(平成 29 年3月5日 粟谷能の会) 撮影:吉越 研
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