あるところに長者が住んでいました。その長者の家の門口にある日美しい女性が現れ、その名を功徳天(幸福を呼ぶ神)といいました。長者は喜んで早速家の中に招き入れ、いつまでも留まるように願い出ます。すると、功徳天は「私には妹がおります。その妹と一緒なら」というので、長者がそれに応じると、やって来た妹は二目と見られぬ醜女でした。黒闇天(災害を呼ぶ神)といいます。
長者が「妹は困る、姉だけにしてほしい」と言ったところ、姉は「私と妹はいつも一緒に暮らしており、離れて生活する訳にはいかないのです」というので、困った長者は思案の末、結局二人を断ったというのです。
この説話は涅槃経に出てくる物語です。幸福と災害、或いは善と悪、この二つは別個の存在のように見えても切り離すことの出来ない一つのものであり、双方とも真実なのだと教え、姉妹を断った長者の思考は、いわば私たち人間の分別であり、分別はしばしば、真実を遠ざけ、ものの道理を不明にすると結んでいます。
お能でも同じような真実が描かれます。
『葵上』では、シテ六条御息所がワキ横川の聖の法力により「此の後またも来るまじ」と神妙に引き下がるのですが、「まず此度は帰るべし」と明らかに再来を予言する『鉄輪』のときよりも、一層重苦しい後味を感じます。六条御息所は深い教養に身を包んだ女性です。教養とか理性とかいうものは、人生の深刻な悩みの解決には大してプラスにはならぬばかりか、時にはマイナスに作用するもののようです。『道成寺』のシテのように髪を振り乱して日高川に飛び込むほどの行動を敢えてさせなかった彼女の誇りや理性が、いつまでも後悔と入り乱れて『野宮』のような陰鬱な苦しみを味あわせているのだとはいえないでしょうか。
これらに描かれる執心は一つのものにすべてをかける情熱というようなものに通じ、すべての女性が備えている本来は非常に美しい性質のものであると思います。その執心の対象が奪われさえしなければ、これらの悲劇も起こらなかったでしょう。
人間はだれでも、心のうちに美醜をあわせ持っています。理性で醜さを消そうとしても、たやすく消せるものではないようです。おきびのように鎮まっていた醜い感情が、あるとき燃え盛り、あたりを焼き尽くすこともあるのです。人間の悲しさ、人間の真実。これを能は余すことなく描いています。そこには物質的な幸福より心理的な幸福を求めている人間の心情があるのでしょう。
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