鼎談

鼎談

粟谷 能夫
粟谷 明生
笠井 賢一


明生 前号に引き続き、菊生を偲んで、三人で語り合っていきたいと思います。祖父益二郎には女の子が一人いましたが早世してしまい、四人の息子全員を能楽師にしました。菊生はその次男です。父から聞いた話ですが、茂山千作(当時千五郎)氏に、「粟谷さんとこはご兄弟うまくいってますな、お宅のようになるには、うちはどないしたらよろしいか?」と聞かれたと。父はその秘訣を話したらそく、何年後に「七五三(しめ)ちゃんにお宅の通りやって間違いおまへんな」と言われたと、話してくれました。


笠井 その秘訣というのはどういうこと?


明生 次男は長男を立て、三男は次男を立てる。次男は長男の三倍の努力、三男はその倍の努力と・・・。兄貴をたて、マネージメントは全部次男坊。そして装束、舞台を持たない!っと。そして必ず、昔のたばこでスリーエーという銘柄の模様を例に出しては、益二郎が亡くなって粟谷の力が弱くなったときに、頂点が二つも三つもあっては力が分散するからよくない、弟は一歩下がって兄をもり立てる、頂点は一つの方が強い、これが秘訣!と、まあ、私によく諭すように話していました。


能夫 だから菊生叔父は、面も装束も舞台も本当に持たなかったね。すべて本家を立てるということで・・・。


明生 それでも五十歳を過ぎてからは、舞台上のことではは、自分もそろそろ自己主張したい時期にきたからと、スリーエーの一点になろうと・・・。演能の依頼があったら、それまでは聞かなかった、「新太郎へですか?」「菊生へですか?」を聞くからと宣言したようです。もちろん長男を立てる姿勢は崩さずにいました。私は能夫さんとは従兄弟ですが、浩之君も充雄君もみな、そのように教育を受けていますから、私は本家を立てますし、浩之君も充雄君も私たちを立ててくれて今のところ皆うまくいっています。能夫さんは「明生君、次はこれを舞っておくといいよ」と大曲やその時期にしておくべき曲目を積極的に薦めてくれますし、全く問題ない状態です。
 もっとも、能夫さんは子供のころ、菊生が長男だと思っていたのですよね。(笑)


能夫 そうなんだよ。だって、我が家にズカズカ入ってきて、てきぱきとものを決めていくから、長男だと思っていたよ。親父がおばあちゃんの面倒みているのに、どうして菊生叔父の方が威張っているんだろうってね・・・。(笑)
菊生叔父は対外的な窓口の立場をうまくこなしていたし、顔も広くて、何か主導者的なものを強く感じさせられましたね。


明生 多方面に交流関係が広かったですから・・・。新太郎伯父はやはり本家で、粟谷家の中心にどっしりと構えている感じで、菊生は次男として活発に外周りを・・・、いつも家にいませんでしたから、外周り専門?


笠井 次男だから長男を立てる。だから舞台も何も持たない。その代わり、自分は自分の世界で遊び、独特の世界をもつようになった、芸にも反映させていったという解釈もできます。次男気質ということもあるし、本来持っている人なつっこい気質もあったと思う。お酒を愛し、人との語らいを愛し、自由奔放な生き方をした人ですよ。


能夫 それはよくわかりますね。


明生 それだからこそ、魅力的な菊生の能を創りだせたということになるのでしょうが・・・。


笠井 ところで、能夫さんは寿夫イズムにかぶれて、新太郎さんとぶつかったという話は聞いているけれど、明生さんは菊生さんとはどうだったの。


明生 私は一回、父と取っ組み合いの喧嘩をしたことがあります。父は、父親と息子というのは、一度はそういう喧嘩をしなければ駄目だ、といっていましたが・・・。


笠井 どういうことで喧嘩を? 芸のこと?


明生 芸のことで言い合うことはありましたが、その一度の取っ組み合いの喧嘩はたわいもないことですよ。私が「能楽師なんてやる気ない」と反発して・・・。おやじも誰も謡の指導をしないのに、どうして出来るんだよ!ってね。


笠井 爆発したの。たわいなくないよ。能楽師として一大事だ。それはいつごろのこと?


明生 高校一年生ぐらいですかね。シテ方の親子というのはなかなかうまく教え、教えられるという関係を作るのがむずかしいと思いますね・・・


能夫 僕も親父とはよくぶつかったけど、それでも家には面はあるし装束はある、舞台もあるから、そういう座というようなところで育っているわけ。だから反発していても親父の姿が見えるし、常に能の環境のなかにいるわけですよ。だから、子供のころからずっと能は好きでした。でも明生君は親の姿を日常的に見ていないから、あれだけ子方をやっても、中学、高校ぐらいになって、気持ちが少し離れるのは無理もなかったかもしれないね。


笠井 確かに。銕仙会の三兄弟、寿夫、榮夫、静夫さんたちは、華雪おじいちゃんがいらして、子供用の装束を作ってくれてお能ごっこをして遊んでいたのだから、それは自然と好きになりますよ。


明生 今は華雪先生や能夫さんのような環境を持っている方が特別で、私のような環境の方のほうが多いのではないでしょうか。いや、私が特別ですかね。


笠井 それは、今後の能楽界の課題でしょうね。


明生 それで、父はそういう喧嘩をすると、父親は息子に殴られることで子が思いの外成長していることを実感する、子は子で、子どもの時に描いていた父親像より案外弱くなっていることを知ってしまう。それがいい、世界が変わるから、と言っていました。


笠井 一度、父親を否定しない限り、親を越えられないのだと思いますよ。


能夫 僕は実先生の指導を受けながら、先生や父、伯父の謡い方に違和感を覚えるようになって・・・。そこで寿夫さんや銕仙会の人たちにふれて、地謡の重要性というかシテと対峙する姿勢、そんな衝撃波を受けたわけ。舞っていればいい、謡いは二の次という風潮では通用しない、と外を見て感じたわけですよ。まあその後だいぶ経ちまして、親父たちの謡、益二郎の謡いみたいなものを、見直すようにもなるんですが。そうそう、うちの親父は僕の育成係を菊生叔父に任せたんですよ。


笠井 能夫さんは寿夫さんに真っ赤っかにかぶれていたから、親父さんたちも危機感を持ったのだろうね。


能夫 そう。だから喜多流本流に戻す方便として、菊生叔父に委託したのだと思いますよ。そんな風に親に反発しながらも、あるとき、父の謡や能のよさを知る、親も懸命にやってきたことを知り、自分にもこのDNAが流れていることに気づかされる。それで今度は本当の意味で、親に出会うのだと思う。


明生 そう、一回否定して、そしてまた「出会う」。


能夫 それで親の大きさ、ありがたさがわかるのですよ。


明生 まさに今、それを感じています。父たちも外の刺激をずいぶん受けていますよ。能夫さんが寿夫さんの影響を受けたように、父も観世三兄弟の影響を受けている、そう申していましたし、父はベネチアの国際演劇祭に行ったでしょ。


笠井 ああ、昭和二十九年の第一回能楽渡欧団ね。


明生 観世三兄弟もご一緒だったようで、この公演の話となると決まって父が話すことがありました。どこかの公演で靴を履いたまま現地の外人スタッフが舞台を掃いているので、団長(喜多実先生)が「だれか舞台を拭いてこい!」と仰った、もう始まる寸前だったが、直ぐに雑巾掛けをしたのが榮ちゃん(観世榮夫)と僕だよ。紋付をたすきがけして袴をたくし上げて中腰で、すーっと橋掛を拭いていたら、既に会場入りしていた観客から拍手が湧いたよ、拭いたのは榮ちゃんと僕で、揚げ幕の内から雑巾を絞って手渡ししていたのは、観世の御曹司で・・・。すいません、これは脱線してしまいました。まあ、そこでいろいろ刺激を受けたということです。その後も亡くなるまで親しくおつき合いさせていただきましたね。父の広い交流で、私はそのジュニア世代と、親しくお付き合いさせていただいています。能夫さんは他流では浅井文義さんとか櫻間金記さんとかお仲間がいらっしゃるが、私は父を通して、例えば武田喜永さんのご子息孝史さんや金井章さんの雄資さんとか観世銕之丞さん、故観世清顕さん皆ジュニア仲間というか・・・。もっともすべて森 常好さんや金春国和さんや耕ちゃん(故野村万之丞)を通してでしたが。他流の人と話すといろいろ刺激を受けますね。


笠井 そういう意味では親父さんたちが、外とのいいつながりをつくってくれたわけだね。それで能夫さんは菊生さんから指導を受け、謡を学んでいった・・・。


能夫 鍛えられたというかね。あるときから、菊生叔父から隣で謡ってくれというオーダーが出るようになった。


笠井 四十代ぐらいのこと?


能夫 そうねえ、十五年ぐらい前かな。二十年ぐらい前から一緒に謡ってはいるけど。


明生 父は晩年、大事な曲をやるときは、能夫を左に置いて、前には明生がいればいいと言ってくれました。それだけ言われるということは嬉しいし、励みになりました。晩年の菊生は地謡の評価が高かったという話が前号でも出ましたが、その確かな一ページが開かれたのは、京都での友枝昭世さんの『朝長』小書「懺法」のときだと私は思います。十五年ぐらい前かな。『朝長』という曲は、喜多流では地謡の位取りがきっちりとは決まっていない状況です。六平太先生の時の緩急と、実先生が違い。そして父の謡も、謡う度に違うというものだったので、「どのように謡うのかを決めてほしい、そうでなければ前列は謡えない」と口論になった。そうしたら友枝さんが、「まあまあアッ君、そういういい加減なところのよさが菊生先生のいいところなんだ。僕はその謡についていくから大丈夫、心配ない!」って、この一言でことは終わったのですが。私たち前列もそれに合わせられる力量をつければいいのか、と学んだわけです。


笠井 臨機応変というか・・・ね。


明生 それは父が謡う、という認識と、地頭という重さを教えられた一番だったと、私は思っています。地頭が力を尽くし、それにあわせて、地謡が全員一緒になって作りあげる、そういう意識になったことを覚えています。


能夫 確かに、喜多流をあげて行こうやというね。


明生 京都での喜多流の公演は、敵陣にて勤めるようなものですからね。ましてや小書「懺法」でしたから。


能夫 喜多流では初演かな? 重い小書だからね。


明生 その後、父は地頭として、能夫さんや私の舞台を支えてくれました。父は半分は能夫さんの父親でもあったように思えますよ。特に新太郎伯父が倒れてからは新太郎の代わりに能夫さんの親代わりというか、粟谷能の会の責任者というか、そういう気持ちがすごくあって、能夫さんを盛り立てていこうと・・・ね。


能夫 僕を育ててくれました。


明生 能夫さんのためにというのは、阿吽の『芭蕉』について書いていますが、それにはわけがあるわけで・・・。僕に『野宮』を舞わせ、『卒都婆小町』、『伯母捨』を薦めたのは能夫だから、その感謝の気持ちというのが本音です。『野宮』を決めたときは・・・。能夫さんが「何故叔父ちゃん演らないの? やったらいいじゃないですか」と言ったら、僕の思うような地謡をまだ謡ってくれないからできない・・・って。まあ、それぐらい『野宮』を大事に思っていたようでして。


能夫 能楽師にとって『野宮』ができるということは誉れですから。その人の人生を背負って舞台に立たなければならない曲ですし。能楽師の成長の証の曲でもありますから。


笠井 生き死にや、痛みの深さ、喪失感の深さ、それを表現しなければならない、すごい曲ですからね。


明生 能夫さんが『野宮』を、その二年後に『卒都婆小町』を、またその二年後に『伯母捨』をと薦めてくれたわけです。


能夫 明生君も一緒に話をしたね。


笠井 それはすごい。お二人が、菊生さんの六十代、七十代のプロデュースをしたわけだね。


明生 それで、父は能夫の言うことを聞いていれば間違いないと、我々の意見を聞いてくれていろいろなことに取り組んでくれたのです。高齢になるとどうしても我が儘になりますから、自分で自分をプロデュースするのがだんだん難しく、また億劫になりがちですから、まわりにそれをしてくれる誰かがいないといけないと思います。能夫さんは「菊生伯父の晩節を汚さないように、、僕らがフォローしますから」って父に常に言っていましたね。


能夫 それはすごく頑張りましたよ。


明生 能を舞わないことを決断したときは、私のところに周りから、いろいろご注意もありました。何でやめさせるのか、って。


能夫 まだ舞えるじゃないかって。確かにありました。


明生 「お父様はまだできると言っています」って。


笠井 言っているのかもしれないな。


明生 能夫と明生が結託して舞わせてくれないんだ、と冗談で言ってたみたいです。まあ、父は怪人二十面相だから、二面性がありまして。でも、能夫さんの「晩節を汚さない」、この一言に尽きますよ。結局納得してたんですよ。


能夫 ウフフ、そうね。


笠井 その結果、いい意味で功なり名を遂げられた。人間国宝にもなり芸術院会員にもなり、ほとんどすべての名誉をいただいた。それでいて変に孤立することもなかったし、変に権威ぶらなかったしね。


能夫 「大好きな菊生さん」と萬さんが言ってくれるぐらいで、人柄、人徳ですかね。人情味もあった。一つの時代が終わったという感じがすごくします。いい時代だった。


明生 反発もしましたけれど、支えてもらっていたんだなって。親が亡くならないと、わからないことってたくさんありますね。


能夫 本当にそう。それで成長するの。


明生 それにしても、父は私がこの年になるまでよく頑張ってくれたと思います。もうお前も抵抗力ができただろう、自分たちでやっていけるだろう?って・・・。


能夫 我々にいろいろなことを伝えてくれてね。まあ勝手に、そこのけそこのけで生きてきた人かもしれないけど、その中に真実があったというか、家族に対する愛も、粟谷家に対する愛も、能に対する愛も、人一倍あった人だったよね。そんな気がする・・・。


明生 そうですね。
(終わり)

写真 粟谷菊生 近影 平成18年8月2日 読売新聞取材時 撮影 亀田邦平

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