父や祖父の仕事に連なって
粟谷能夫
平成十七年は父新太郎の七回忌の年にあたり、追善の能を三月と十月に東京、五月に福岡にて催しました。皆様のお力添えをいただき無事済ますことができましたことを感謝いたしております。
また秋には七回忌追善の粟谷会大会を催しましたところ、各地より父の薫陶を受けた方々が大勢ご参加くださいました。父への思いのうえに、地域を代表しての出演とあって熱気あふれる会にしていただきました。出演者の舞台での精華を見ていますと父のした仕事の偉大さに感心するばかりで、自分の未熟さを痛感させられました。全力で弟子と対峙している父の姿が浮かび上がってくる思いがしました。
そして一方で、父は面・装束を集めるという仕事もしてくれました。この二つの仕事のおかげで、今、私たちは能に集中することが出来るのだと感謝しております。
父は能を舞うのが趣味のような人でしたが、病気をするまではお酒を飲むことを楽しみとしておりました。自宅稽古が済むとよく外出し二時間ほどで戻って来るのです。母に聞くと新宿のバーへ行くのだといいます。当時の私ではちょっと理解が出来ませんでしたが、きっと美しい人がいたのだなーと思います。父のストレス解消術だったのです。
晩年は能関係の骨董品、主に掛け軸、書画、彫り物、陶器などを求めて、中野の舞台に飾って楽しんでおりました。
父の収集したものの中で家宝となっているものがあります。それは喜多流九代目喜多健忘斎古能筆「月宮殿」の初同の一句を掛け軸としたものです。地方の旧家よりいただいたものです。古能公は多くの伝書を残し喜多流にとっては中興の祖であります。私も古能公の伝書を根拠に演能をいたしておりますが、伝書を読み込んでいくといろいろ発想や直感をもらい、目の前が急に明るくなるようなことがあります。父も掛け軸を見るたびに、気持ちを新たにしていたことでしょう。
本年(平成十八年)は祖父益二郎の五十回忌にあたります。祖父は十二歳のとき、広島より上京し十四世喜多六平太先生の内弟子となりました。粟谷の能の始まりです。独立後は東京に居を構え、各地へ稽古に出て多くの地盤を残してくれました。面装束の収集は自前の面装束にて能が舞いたいという強い意志からでした。父の話によると、不都合な装束にて能を舞わなくてはいけなかった無念さがきっかけになったようです。もちろん四人の息子たちのためでもあったのです。私は子方の謡の稽古を祖父から受けていたのですが、具体的な記憶はあまり残っていません。ただし祖父が亡くなった時(『烏頭』の演能中、私は子方でした)や申し合わせの日のことは鮮明に覚えています。
私自身も祖父や父の仕事にならって、演能や稽古はもちろんのこと、面装束の収集も続けております。収集以上に修理・修繕・維持・管理も大事と思い心がけております。
本年は祖父の五十回忌追善の会を計画しております。菊生叔父を先頭に充実した一年を送りたいと願っております。
写真 「実盛」粟谷能夫 撮影 東條睦
掛軸 撮影 粟谷明生
コメントは停止中です。