『采女?佐々浪之伝』の新工夫
粟谷 明生
『采女?佐々浪之伝』といえば、六年前(平成九年)、粟谷能夫と私で主催する粟谷能の会研究公演でのスローガン、「新しい試み」に挑んだ思い入れのある曲です。今回、秋の粟谷能の会(平成十五年十月十二日)では、もう一度、この『采女』を取り上げ、研究公演の成果と反省を踏まえ、一歩進めた、粟谷明生の『采女』を観ていただきたいと思い勤めました。
通常の『采女』の上演時間はおよそ二時間、長い作品です。粟谷能の会のように三番立の番組では、一曲にたっぷり二時間はかけにくい状況があります。もちろん二時間なければ成り立たない曲であれば、番組構成を工夫し、その時間を確保することになりますが、現状の『采女』という作品ではどうでしょうか。やや散漫な筋立ては、曲位として無駄な重さが感じられ、そのためか『采女』の上演回数はけっして多くなく、せっかくの優れた作品がどこかで損をしているように思えてなりません。構成の散漫さを整理することで、『采女』のよさを十二分に引き出し、現代版として再生、普及できないものか、これが私の挑戦であり、かなえられそうな夢だったのです。
では、『采女』の散漫さとはどこにあるのか。それは春日明神の縁起と猿沢の池に身を投げた采女の物語の二本立て構成にあるのではないでしょうか。『采女』は世阿弥作となっていますが、もともとは古作の『飛火』が原形で、それを世阿弥が改作したようです。原形は、春日山の賛美が主体で、そこに後から采女の話をつけ加え作品化したものです。しかしその手法は、当時はよかったのでしょうが、現代から照らしてみると、少し冗漫な作品に思えるのです。
『采女』の小書は、昭和五十年、先代・喜多実先生が「小波之伝」(当初は「佐々浪之伝」)として、長時間の作品を凝縮するために土岐善麿氏と創案されたもので、それを基に私は先の研究公演で前場の春日明神の縁起や、後場の序、サシ、クセを省き、改訂版の「佐々浪の伝」として試演しました。新演出を考えるとき、演者だけでは思考に片寄りが生じ、つい演者のやりやすい方向に流れてしまう傾向があります。舞台全体を客観的に厳しい目で見ることのできる人は必要です。今回の小書再考には、日頃お世話頂いている演出家の笠井賢一氏にご協力頂き取り組みました。
まず新たな台本作りの検討からはじめました。作品の主題を明確にするため研究公演での詞章を更に絞り込むことにしました。前場は春日神社の由来、神木の植樹の草木縁起を完全に削除し、後場は序、サシ、采女が安積山の歌を歌ったという采女の身にまつわるクセや、宮廷での酒宴の様の部分、そして「月に啼け…」の和歌に継ぐ御世を寿ぐ祝言を削除し、入水した采女の、現世の苦患を超えて仏果得脱の清逸の境地に焦点を当てたいと思いました。
春日山の植林から始まる春日縁起は興福寺、春日大社を讚える宗教賛美であり、藤原氏への権力者賛美です。創作された当時、芸能者達が権力者である観客のために、自らが生きていく工夫としては欠かせない部分であっても、今それがはたして必要なのか、意見の分かれるところですが、敢えて今回の作品は、采女という女性に関連性が薄いこれらの部分を大胆に削除しました。
この能は、采女という女性の恨みや悲しみの訴えではなく、得脱の晴れやかな境地を表現したいのだと思います。采女は帝の寵愛を失ったと嘆き哀しみ、猿沢の池に身を投げますが、帝はあわれと思い、「吾妹子が寝くたれ髪を猿沢の池の玉藻と見るぞ悲しき」(我が愛しい人との契りの後の寝乱れ髪が、今は猿沢の池の玉藻のように見えることの悲しさよ)と歌い弔います。帝の心も知らず恨んで恥ずかしい、浅はかだったと…采女は悲しみます。そこにはドロドロした恨み節はなく、すでに変成男子を経て成仏し生まれ変わった采女がいるのです。
「佐々浪之伝」の主題は、入水した采女の現世の苦患を超え浄土を喜ぶ清らかな境地であり、法悦の余情と功徳、昇華した成仏得脱の境地です。詞章を切り詰めて削った意図は、最小限の言葉によって能『采女』を表現する、能でなければ成しえない新たな『采女』の創作なのかもしれません。おそらく、これほどまでに言葉を削れば通常の芝居なら支障が出るはずです。最小限の凝縮された言葉や、言葉では語れない思いを序ノ舞という舞に感情移入し、舞歌という能の世界で濃密な時間と空間を織りなす…。梅若六郎氏は、能は基本的に無駄なものを削ぎ落としていく木彫芸術のようなものだが、削ぎ落とし過ぎると演者は理解していても観客には意味がつかめない事も起こる、程度が問題だ…と言われています。この、程度が実に難しく、今回も絞りに絞った狭いテーマを扱いながらも、観る人の想像に任せる余白を大事に残し、単なる仏法讃歌やお説教曲ではない『采女』という作品を蘇らせたい、その一念でした。
今回の前場では、植林の話も削除するため、シテの登場をどのようにするかが問題となりました。観世流の小書「美奈保之伝」ではシテがワキに呼び掛け猿沢の池へ案内しますが、喜多流らしさも考え、実先生のアシラヒ出を生かしながら「吾妹子が寝くたれ髪を猿沢の…」という帝の歌を謡う形としました。
以前、観世流の片山慶次郎氏が雑誌『観世』の『采女』の記事の中で、「美奈保之伝」も呼びかけの言葉に工夫が必要では…例えば「吾妹子が寝くたれ髪を猿沢の…」と謡うアシラヒ出の可能性もあるのでは、と語っておられますが、これは今回の演出を選択する上での大きな自信となりました。
ただ問題もあり、「吾妹子が寝くたれ髪を猿沢の…」の詞章が前場だけで三回もあり、少しくどい感じになります。そこで、シテの朗詠する形、シテの言葉で謡う形、地謡の小のりで謡う形と彩りの変化で対応してみました。
後シテの出に関して、笠井氏より定型の常座でのシカケ、ヒラキではない、「美奈保之伝」の被衣に替わるような演出をとの提案に、一声の留めを一ノ松にして、囃子方にお願いして特殊な手組を入れていただき、池水から浮かび上がる風情で心情のこもる謡が謡えればと試みました。
序ノ舞は、研究公演でも試みた干之掛(かんのかかり)で、采女という女が昇華していく様とも、また我が家の伝書にある「采女一日曠れ(はれ)也」のキーワードの如く、采女にとっての晴れやかな時の表現としました。曠れの絶頂感を官能的な高音から始める干之掛は、まさに最適だと思います。
二段オロシでは中正面を池と想定して見渡し、袖をかづきながら思い入れの型をして、妙なる調べを聞いているとも、また御光に照らされるかのように正先に出て、ふと祈り合掌してしまう、静かで穏やかな特殊な舞の時間があってもよいのではないか…、私なりの冒険でした。「美奈保之伝」は水のイメージを重視して、拍子を踏まぬ、袖を返さぬが教えですが、今回は水のイメージに拘わりすぎないように注意し、采女が現世に現れて、法悦の舞を舞う凝縮されたひとときの舞、まさに「一日曠れ」ただそれだけを念頭に描いてみました。
序ノ舞が終わり、女は「猿沢の池の面」と謡い、「よく弔はせ給や」と、祈り続けることを願って池の底に消えていきます。重ねて祈ることで、采女の魂の鎮魂を永遠の祈りに高めているようです。采女はあくまでも美しく、水と同化していく様にも見えますが、采女にとって水や池は単に死に場所ではなく成仏の場所と変わっているのです。これは稽古を重ねていくうちに気づいたことで、私の発見でありました。
采女が重ねて弔いを願い永遠を求めるように、私たちが携わる伝統芸能の世界も同じ、繰り返し反復することが神髄かもしれません。しかしその反復の中にも、新しい試みや改良が必要です。変えていく力を失うことは、能という伝統芸能のダイナミズムが失われ、抜け殻のようになるのではないでしょうか。芸能の世界での“変える力”は、根こそぎ変えるものではなく、伝統の持つよさ、匂いを残しながらの変革ではないでしょうか。「名曲は伝承されつつ、その時々の工夫が加えられ、名曲であるが故に一層の磨きがかかってくる」これも梅若六郎氏のお言葉で、今回の作業をするにあたり、大きな支えとなりました。
演じ終え、この「佐々浪之伝」という小書が多くの方に親しまれていくとよいと思っています。その意味もあって、お囃子方を前回の研究公演のときと敢えて代え、笛は森田流から一噌流へ、小鼓は観世流から大倉流へ、大鼓も高安流から葛野流にとお願いしました。みなさま私の試みを快く理解し協力してくださいましたこと深く感謝しています。地頭を引き受けてくださった私の師・友枝昭世氏が「そこそこの作品になってきたね。序ノ舞を再考すれば…、そのうちやってみようかな」と言ってくださいました。この小書が多くの舞台で演じられることは嬉しい限りです。コンパクトながら、能の世界を十二分に楽しめるそんな作品になるように、さらに改良を加えていきたい、あの池の采女が喜んでくれるような作品になればと思っています。
* (演能レポートで内容 補足&写真も掲載しています。)
写真 『采女 佐々浪之伝』粟谷明生 撮影 東條 睦
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