伝書から

伝書から

粟谷能夫

伝書とは有り難いものだ。平成15年、秋の粟谷能の会にて演じた『藤戸』「子方出」の小書において考えれば、常には登場しない子方(漁夫の子)を出す演出となる。前シテの謡「生き残りたる母や子をも、問い慰めてたび給はば。少しの恨みも晴るべきに…」による根拠からのもので、多分下掛りにしかない演出だと思う。
 家の伝書には「藤戸、子方出ル事、装束常ノ如シ、子方着流シ女出立、一声子方先二出ル、子方要ノ松ノ辺へ行ク時、シテ跡ヨリ此の島のト子方二謡掛ケル、子方立帰リ(さん候お着きと申し候)ト謡ウ、皆人のト、シテ正面向キテ立チ…」と書かれている。
 今回の『藤戸』は私にとって二度目でもあるため前々からの念願であった「子方出」の特別演出で勤めた。「子方出」の演出は昭和38年に先代喜多実先生が能に親しむ会で子方、粟谷明生で演じられて以来のことではないだろうか。
 伝書の型付の中には舞台での細かい動きまでは記されておらず、よって読み込んで自分で考え創らなくてはならないところがある。実はここに舞台づくりの喜びがあると思っている。決められたものをただ真似るのではなく、作り上げる、生み出す力が大切だと思う。
 今回、面の選択は前シテは二十歳あまりで戦の被害者として無残に殺された漁夫の母という設定である。孫を連れての登場ともなれば、それなりの年齢が想定でき、曲見、姥、痩女などが考えられ、鬘も常の黒い鬘、姥鬘、老女鬘などと選択肢は増える。装束の付け方も着流、姥着け、水衣姿といろいろ考えられ迷うところだ。
 子方を出す意味とは何であろうか。孫を伴って出ることで、不当に殺された子どもの親や家族の悲しみが際立つのではないだろうか。
 子方にどれだけの演技を求め、常の演出の何処を工夫すればよいのか、いろいろ悩み試行錯誤し稽古にはいったが、それが能役者の楽しみだと感じている。
 演能後、前記の実先生の『藤戸』の写真を何枚か見る機会を得ることができた。橋掛の一ノ松にシテ、二ノ松に子方が二人並び、シテは痩女厚板着流姿で子方は女唐織着流姿の出立ちのものが二枚であった。また残りの写真には曲(クセ)の最後に子方の所作があったようで、シテに縋る子方の写真は僕のかすかな遠い記憶を少し蘇らせてくれたみたいだ。子方を出す演出一つにもシテの思いや考え方により、様々なやりようが成立すると思う。伝書、型付は大いなる根拠であり、役者を型に縛りつけるものではないと思う。
演者が舞台を作り出すためには、伝書とはそのシナリオ作りの大事な注釈の一つではないだろうか。謡本という台本に伝書という型付や心持ちが、被さり一つになる。そこには先人達の工夫や失敗もある。それらを生かすも殺すも役者の精神性で有り、探求心ではないだろうか。
 能に対する考え方は人様々だが、先人の後をなぞるだけではなく、今生きている自らの思考や価値観を作品に吹き込んで大きく豊かな能を創造していきたいと思っている。

写真 『藤戸 子方出』 シテ 粟谷能夫         撮影 石田 裕
   『藤戸 子方出』 シテ 喜多 実 子方 粟谷明生 撮影 あびこ

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