役の真実と出会う心


粟谷能の会通信 阿吽


役の真実と出会う心

粟谷能夫


 

 近ごろ自分が思い、舞台をやりながら考えることは「軽くて深い」表現を実現したいということだ。
 こういう言い方をすると、手を抜いた表現と受け取られるかもしれないので、なかなかうまく言いづらいのだが、ただただ大事に重々しく扱い、これでもかこれでもかと全力投球するだけでは駄目なのであって、役の真実性を持ちながら重っくれず、深い表現が出来ればと思うようになった。このことは謡にも型にも共通して言えることだと思う。

 最近、高知の能楽堂で二回目の『道成寺』を十数年ぶりに演じたが、初演の時は道行のところを大事にするあまり重っくれてしか出来なかったのが、今回はただ頑張るというのではなく、『道成寺』という曲のリアリティを持ちながら、自分というものが見えていて、かつその上で表現が出来たように思った。これが離見ということかなとも思ったが、それが当たっているかどうかはともかく、ある余白のようなものを表現出来た。

 能を演じるには、まず台本である謡本を読み込み、理解し詩章の行間や裏側にある「思い」を読み取り、それにふさわしい謡と演技が必要とされる。謡本にはシテとかワキとかという役があり、役は特定の人物像、あるいは個性を持ち、当然さまざまな感情や思いを有し、それが葛藤を生み「ドラマ」へと発展していく。そうしたものを表現するために謡と型がある。型は先人の試行錯誤の積み重ねであり、出来上がった型をつなげるだけでは能は成り立たない。その型が導き出されてきた課程、根拠といったものを台本から理解する必要がある。そしてその理解をもたらす大きな要因は謡ということだと思う。何よりもまず、役としての謡の真実があり、それ型へとつながっていくのだ。

 曲を理解し、曲を謡うこと。型より入る能ではなく謡からはいる能。これが大切だと思う。我々が若いころは流儀全体として型を優先させる風潮があった。型をきれいに正確にという教えに対し、謡を大切にする本質的な注意がされていなかった。それでは曲を謡うという魅力ある謡が出来なくなるのは当然だ。シテも地謡も安易に謡い過ぎるのではないか。いま必要なのは、上手に謡うとか、正しく謡うといったことの先にある曲の真実、役の真実を謡うことであり、そのことを通してしかリアリティのある型は導き出されてこないということなのだ。


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