間遠になりて


粟谷能の会通信 阿吽


間遠になりて

粟谷新太郎

 四月の中頃、院長先生より「粟谷さん人間国宝おめでとう」と声をかけられ、これはえらいことになったと当惑し、よくよく聞いてみると弟菊生の人間国宝認定の報と解り、あの世にいる父、益二郎に電話をしてよろこびを分かちあいたい気分になりました。この慶事は我が家の誉れであり、これまでの演能活動の積み重ねのたまものと心得、なお一層の前進を願っております。三月には認定記念の粟谷能の会が、東京、大阪、福岡にて催される由、大変心強く思います。

 「阿吽」No.2我流『年来稽古条々』でも取り上げておりましたが、父益二郎の最後の舞台『烏頭』についてお話ししたいと思います。囃子科協議会が駒込の染井能楽堂で催されていた時(この染井能楽堂の舞台は今年、横浜能楽堂として復原された由)、ぜひ父に『烏頭』をということで、演ることになってんです。子方には能夫が出ていました。私は地頭をしていましてね、前シテが橋掛へ出て来た時、実は、ゾーッとしたんですよ。いかにも淋しげに現れてきたんです。あとから思えば、死に直面していたのだと思いますね。ワキに片袖を渡し、立分かれて行くところは、父の生涯の舞台の中でも絶品の一つじゃないでしょうか。後シテで舞台に入り、常座で「陸奥の外の浜なる呼子鳥」と、謡うか謡わないうちに、前に膝をつくように倒れたんです。最後の力を引き絞って運んで来、精一杯に謡ったんでしょうね。それで、地に座っていた栄夫君(観世?当時後藤)が直ぐ立ってあとを舞いました。栄夫君は妙な因縁があるんですよ。前年に岡山で倒れたときも彼が後を舞いました。『黒塚』だったんですが、後のイノリで倒れましてね。

 一体に、父は何をやっても情感をもってすることがありませんでした。淡々と演るんですよ。まあ、昔の人は理屈で考えて舞うわけじゃなく、教わったとおり、からだで覚えているとおりに舞った結果として、たまたまいろんな事が表現されているんでしょう。現在では一曲を徹底して稽古をするようなことも難しくなっているようですが。謡にしましても、六平太の名地頭として活躍し、『粟谷の謡』と云われるようになりました。此の謡をみんなで継承して行かなくてはならないと思っています。『謡』がちゃんと謡えないと仕事になりませんから。

 私は「烏頭」を被いたのは三十歳ぐらいの頃でしたが、何しろこの曲は先生(十四世六平太)の十八番極め付けだったもんですから、とても私には演る気がしませんでしたね。そこへもって来て父のこともありましたからね、よけい演るチャンスがなかったんです。「烏頭」というのは、本当にいい能です。殊に後の一人称で、いろいろに演り分けるところに妙味があります。先生は、呟くように謡えといわれました。無論、後のカケリ前後が型所には違いありませんが、前段の、あの短時間、動きの少ない型を十分気をこめて演ずる舞台は難しいものです。色々な意味もありますが、私には襟を正すような、コワイ能だと思います。

 父は四人の息子を皆能楽師として育て、面、装束を集め、地盤を築くという大仕事をしてくれました、私も面蒐集を心掛けてまいりました。良い面で佳い能を舞いたいという思いからです。昨日も、古道具屋から能面が売りに出た夢を見ました。これが正夢ならばと能夫に話をしたところです。皆々様の前より失礼いたして久しくなりましたが、毎日、能のことを思い、見はてぬ夢の中で過ごしております。いま暫くの雲隠れを、お許し下さいませ。

(聞書・能夫)


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