『弱法師』を勤めて

『弱法師』を勤めて
効果満点の小書「舞入」

能『弱法師』は盲目の青年・俊徳丸(シテ)が「目は見えなくとも心の目で何でも見えるぞ!」と悟りながらも、世の辛さを知り挫折する物語です。父・菊生が得意とした曲でいろいろ教えて貰った曲、私も大好きなこの曲を、「初秋ひたち能と狂言」(令和6年9月29日、日立シビックセンターにて)で勤めました。
『弱法師』を勤めるのは今回が4回目です。初演は平成4年の粟谷能の会研究公演、続いて平成15年の秋田まほろば能、平成26年の厳島神社・桃花祭の神能で勤めています。初演以外、今回も含め3回の公演ではいずれも小書「舞入(まいいり)」の特別演出で行いました。

まずは簡単に『弱法師』のあらすじを記しておきます。
高安左衛門尉通俊(ワキ・宝生常三)はさる人の讒言(悪口・誹謗中傷)を信じ、我が子の俊徳丸を追い出しますが、不憫に思い天王寺にて7日間の施行(善行を積むために人に物を施すこと)を行います。そこに、盲目となり弱法師(足弱の乞食・喜捨を受ける芸能者)と呼ばれるようになった俊徳丸が現れます。通俊が施行を勧めると俊徳丸は素直に受け入れ、梅の花を袖に受けるなどして優雅なふるまい見せます。それを見た通俊は弱法師が我が子と気づきますが、人の目を気にし、その場では名乗らず、日想観(じっそうがん)を拝むよう勧めます。盲目ながら心の目で見えると舞い狂う俊徳丸。やがて夜になると、通俊は父と名乗り、俊徳丸を高安の里に連れて帰ります。

小書「舞入」は通常右手で扱う盲目の杖を左手に持ち替え、右手に中啓(ちゅうけい=扇)を持ち、杖を突きながら、常の「イロエ」(軽く舞台を一巡する)を中之舞に替えて舞う演出です。「盲目の杖」の扱い自体難しいうえに、「舞入」では利き腕ではない左手で杖を扱うので、さらに難度が上がります。これを嫌い、小書を避ける人があるくらいで、この小書での演能はそう多くありません。私はこの小書で3回目、何度も稽古して慣れて来たためか、杖の扱いはさほど苦にならなくなりました。
「視界が狭い中でたいへんですね」などと言われることがありますが、専用面「弱法師」は目が横に切れているので、不思議と視界は広く、よく見えます。演者はよく見える面の内側で、目を半眼に閉じて盲目の気持ちで舞っているのです。

喜多流の『弱法師』、というより、これを得意とした父や第十四世・喜多六平太先生の主張は、弱法師は天王寺まで毎日通い慣れているから、その道中のことは、たとえば、どこに石があって危ないとか、樹木が飛び出しているとか、全て分かっている、盲目といっても、不自由そうに恐る恐るよろよろと歩くのではなく、むしろタッタとリズム良く、全体にサラッとした気分で勤めるのが吉、というもので、私もそのように思います。謡を落ち着き過ぎて重苦しく謡ったり、囃すのは、妙にハンディキャップを誇張するようで、どうでしょうか?私はあまり感心しません。

『弱法師』は若いうちにはできない曲ですが、かといって、背中が丸くなった年配者でも似合いません。昔、喜多流の愛好家の女性が「俊徳丸は青年です。背中が丸まった姿で出て来てはいけません」と、話されたことが強烈に頭に残っています。ですから、盲目といっても若者らしい溌溂とした動きも必要で、盲目の不自由さとの兼ね合いが難しいところなのです。

この曲のクライマックスは何といっても日想観を拝するところです。日想観とは、時正の日(昼と夜の長さが同じ日)に西に向かって手を合わせ、落日の有様を見て、西方浄土を願うことです。弱法師・俊徳丸も西に向かって手を合わせ「南無阿弥陀仏」と唱えます。やがて「イロエ」に変えて中之舞を舞い、舞のあとはすぐに「住吉の松の木の間より眺むれば・・・」と上羽の謡となり、続いて「狂い」の舞どころとなります。淡路、絵島、須磨、明石、紀の海まで、盲目なりとも、心の目でよく見える、「満目青山は心に在り」「おお、見るぞとよ、見るぞとよ」と気持ち昂り狂うのです。さらには難波の海の名勝、南は住吉の松原、東は緑の美しい草香山、北は長柄の橋と、有頂天になって謡い舞います。今でいえば路上のラップ・ライブの趣でしょうか。この曲のもっとも心躍るところです。
しかし、盲目の悲しさ、「目では見えないが、心の目で見えるのだ!」と達観し狂う弱法師・俊徳丸ですが、やがて境内の貴賤の人に突き飛ばされ、よたよたと倒れ転んでしまいます。「やはり弱い法師だ!」と揶揄われ笑われ恥ずかしめを受けると「もう浮かれたりはしない!」と心を痛め挫折します。
「舞入」という小書は、日想観を拝し心が昂っていくなかで舞い、狂いの頂点に繋げる、ご満悦の演出であり、後の挫折感と対比させる効果満点の演出であると、3回目にして、より強く感じることができました。今回の一番の収穫です。

以前の演能レポートにも書きましたが、作者・観世十郎元雅の能には「影」があり、それが魅力になっていると思います。『弱法師』しかり、『隅田川』、『歌占』しかりです。
『弱法師』は最後、親子再会で良かった良かったということになっていますが、そこに「影」が見えます。今回の演能にあたり、通俊の台詞から想像される状況が気になりました。
まず、「さる人の讒言」により、我が子を追い出しますが、さる人とは誰なのか・・・、何となく女性の匂いがします。謡曲大観の著者・佐成謙太郎氏は義母と解説されていますが、私も同感です。通俊の後妻が実の子可愛さのあまり、前妻の子・俊徳丸を邪魔にしたといったことが想像されます。人形浄瑠璃や三島由紀夫の近代能楽集など、『弱法師』の筋を採り入れたものがありますが、ドロドロした家族模様が展開されているようです。能『弱法師』には細かい事情は書かれていませんが、そういう物語を想像させる何かがあるのでしょう。
次に、我が子と分かっても直ぐに名乗らない通俊に違和感を覚えます。自分が追い出したことで盲目にしてしまったという慙愧の念にかられないのでしょうか。人の目が気になるので、夜になってから名乗ろうとする通俊は、プライドが高く、見栄を気にする男、ごく普通の真っ当な父親とは思えません。
そして最後、とどめの一撃は、夜が明けぬ前にと、供人(アイ)に合図して、俊徳丸を連れて帰させることです。自ら手に手を取って連れ帰るのではなく、自分は後から行くからと、幕から離れた常座でユウケンし、脇正面を向いて留拍子を踏んで終曲します。
この終わり方、これから俊徳丸はどうなるのだろうか、家に連れ帰ってもらっても、複雑な家族関係の中で幸せになるのだろうか、通俊は味方になってくれるのだろうかと、不安になります。
お能はどんなに悲しいお話でも祝言の心で終わるのがいいとはよく言われます。元雅はもっと具体的に物語を展開したかったかもしれませんが、ここは能の様式で露骨には書けなかったのでしょう。日想観の高揚感を描き、親子再会をめでたしとしながら、でも、深く読めば、子供を捨てる行為は許されない、悪しき行為だというメッセージ、強烈な香辛料をまぶしていると感じさせられます。こういう『弱法師』という能が私はたまらなく好きで、元雅のメッセージをちゃんと伝える演者でありたいと思うのです。

天王寺は大阪市天王寺区にある聖徳太子建立の寺。境内は相当広く、「踵をついで群集する」とあるように、昔も今も、多くの人で賑わうところです。貴賤を問わず、病や障害も問わず、懐深く人を受け容れるところです。昔は「悲田院」といって、貧しい人や孤児を救う病院のような施設もあったようです。日想観を拝む行事は今でも行われています。昔は、天王寺の境内から西を拝むと、能の詞章にあるように、難波の海に沈む太陽を拝むことができたといいます。最近では宅地開発され、日が沈む様子は拝むことができても、海は見られなくなっていますが、時正の日には多くの人が西に向かって手を合わせているようです。
このような懐深く慈悲深い場を能の舞台とし、現実に起こりそうなことを、真っすぐに描き切る現在能『弱法師』、元雅の能は世阿弥(元雅の父)の夢幻能とは違う味わいがあります。

父・菊生は晩年、身体が弱くなってきた時に、『景清』しかできないと言って、『景清』ばかり演っていました。銕仙会の荻原達子様に「父は『景清』しかできません」と、申し上げたところ、「いいの、いいのよ。『景清』が十八番という役者がいても。どこへ行ってもそれを演って、名優として成り立つ。『景清』しかできないではなく、『景清』が得意というのはとても良いことですよ。アッ君、覚えておいてね」と、言われたことが印象深く、よく覚えています。私も今回『弱法師』を勤め、来年は7月に高知で、9月に宇都宮でと、『弱法師』の演能が続きます。父の『景清』ではないですが、明生の『弱法師』、それも「舞入」の『弱法師』を広く皆様にご覧いただけるようになりたい、今そんな思いでいます。

なお、今回の『弱法師』は時間の制約があったため、一声の後のサシコエと天王寺縁起を語る序、サシ、クセを省き、短縮版にしたことを記しておきます。見所に外国からの留学生もちらほら、初心者が多い公演では、作品を壊さずに少しコンパクトにしてご覧いただくこと
も必要かと思っています。

『弱法師』舞台写真提供 日立シビックセンター
「弱法師」能面石塚シゲミ打 撮影 粟谷明生 
                     (2024年10月 記)