『頼政』を続けて勤めて

『頼政』を続けて勤めて

今年(令和6年)の春は、能『頼政』を「広島蝋燭薪能」(4月26日)と「喜多流自主公演」(5月4日)と続けて2回勤めることとなりました。
私の『頼政』の初演は「第61回粟谷能の会」(平成9年)で、続いて「能楽座静岡県舞台芸術公園楕円堂公演」(平成12年)と「粟谷能の会・福岡公演」(平成15年)の2回はいずれも父の代演で、福岡公演は後シテだけを勤めています。今回21年ぶりに、しかも2回連続で勤め、いくつか感じることがありました。

今回の連続2回公演は、屋外と屋内の演能の違いを実感しました。「広島蝋燭薪能」は屋外で生憎の空模様、私の『頼政』のときは雨に降られませんでしたが、途中小雨により10分ほどの中断がありました。屋外の能はご覧になる方には開放感がありますが、演者には舞台の寸法や滑り、また音響や視界など通常とは異なる不便さが正直あります。特に天候の心配をしながら自分自身のモチベーションが下がらないように気をつけなければいけません。
一方、自主公演は屋内の観世能楽堂で催され、屋外のような開放感はありませんが、お舞台の滑りも音響もよく、演じやすさを実感しました。そもそも能は屋外で行われていたものです。屋根のある能舞台を、能楽堂という建物の中に入れるのは不自然ではありますが、最善の対策がなされている能楽堂の能舞台が、能楽師にとっては一番勤め易い、と思うのは私だけではないでしょう。

いつものように、簡単にあらすじをご紹介します。
京都から奈良へと旅する旅僧(ワキ)が宇治の里にやってきます。地元の老人(前シテ)に会い、宇治の名所を尋ねると、老人は答えながら、やがて平等院へ案内します。平等院には源頼政が自害した扇の芝があり、自分がその頼政の霊だと明かして消え失せます。(中入)

夜半、法師の姿に甲冑を帯びた頼政の霊(後シテ)が現れ、平等院に布陣して橋板を外して平家方を待ち受けていたが、馬を巧みに扱い川を渡ってくる田原又太郎忠綱の軍に攻められたと、その様子を語ります。そして、頼みにしていた頼政の子、仲綱と兼綱兄弟が討たれると敗戦を覚悟し、扇の芝の上で辞世の歌を詠んで自害したと語り、僧に回向を頼み消え失せます。

能『頼政』を勤めるときにいつも念頭に浮かぶのは、なぜ、頼政は76歳という老体にも関わらず、以仁王に平家追討の令旨を出させ、決起したかということです。過去の2回の演能レポートにくわしく書きましたので、それをご覧いただきたく、ここでは詳しく書きませんが、源頼政は源氏でありながら平家方につき生き延びてきた複雑な人生の持ち主なのです。なかなか官位が上がらなかった頼政を従三位に引き上げてくれたのは平清盛でしたが、清盛の後白河法皇を幽閉するなどの暴挙、平家の横暴なやり方に批判的になっていたところへ、息子の仲綱が愛馬のことで平宗盛に辱めを受けたことが、これまでの鬱屈した思いに火をつけてしまいました。しかし残念なことに、決起した頼政でしたが、すぐに清盛に知られるところとなり平等院にて自害します。その時に詠んだ辞世の歌、
「埋もれ木の花咲く事も無かりしに 身のなる果ては哀れなりけり」
には、頼政の万感の思いが込められています。
この辞世の歌が、この能のテーマではないでしょうか。


 
能では最後の最後、橋合戦の仕方話をした後に、芝の上に扇を敷き、刀を抜いて、この歌を謡いあげます。この場面、以前は老武者の人生の哀感を、少し静かに謡っていましたが、68歳の再演にあたり、命をかけ闘い破れた老いた男の心境は、力強い絶叫の方が似合うのではないかと、高音で張り上げ謡ってみました。老人に大声は似合わない、老人は大声が出ない、のかもしれませんが、能は芝居であり演劇です。老武者頼政の強い思いを大絶叫することで、ご覧になる方々に強く伝わればよいのではないでしょうか。今年には69歳になり、周りから古稀と言われるようになったからこその発見でした。

実際、歴史は頼政の決起により、頼朝が立ち上がり、怒涛の勢いで平家を倒し、世の中は平家の時代から源氏の時代へと変わっていきました。頼政がそのきっかけを作ったことは確かです。頼政は決して、埋もれ木の花咲く事も無かった、人生ではなかったのですが、本人は知る由もありません。

実際、頼政は従三位まで上がった武将であり、歌人としても優れた人であったのですから、最後の決起は複雑で執心の残るものだったのでしょう。後シテの出立にもそれがよく現れています。老体でありながら、頭巾をかぶった法体であり、肩脱ぎした軍体という異様な出立。しかも面は「頼政」専用面で目に金環が施され、この世の者とも思われない強い異様な表情です。すべてがシュール。こうして造形された能『頼政』を演ずるには「若さ」は「敵」である、と初演を思い出し、今だからこそ判るのです。

後場では、サシの「そもそも治承の夏の頃・・・」から始まる、床几に腰掛けての戦の仕方話が聞かせどころ、見せどころです。ここは落語の噺家のように一人で何役も演じます。シテは最初、三井寺を目指し宇治に落ち行く頼政自身ですが、敵軍の田原又太郎忠綱にも変身し、橋桁を外されたにもかかわらず、宇治川の急流を果敢に馬で渡って攻め上がる様子を見せ、また頼政に戻って味方の戦いぶりを描きます。床几に腰掛ける演出は老体でもあり、指揮官でもある姿を想像させますが、この床几に腰掛け闘いを一人で演じる場面は、演者にとって技芸の見せどころでもあります。

この仕方話の前に、地謡「蝸牛(かぎゅう)の角の争いも」(ちっぽけな争いも)、シテ「儚かりける心かな」といった謡が入ります。執心に迷う頼政に、所詮、それはかたつむりの角の争い、ちっぽけなものなのだ、人生は儚いと述懐させるところに、作者・世阿弥のウイットを感じさせられます。少し冷静に悟ったかのような頼政ですが、仕方話をしながら徐々に気持ちが高ぶり、「埋もれ木の・・・」の辞世の歌で心の叫びになる・・・、修羅道に苦しむ、他の修羅物とは異なる構成がこの能の特徴の一つでもあります。

最後に楽屋裏話を一つ。今回演じるにあたり一つ疑問に思ったことがありました。前場の名所教えで、恵心寺を紹介した後に、シテが「月こそ出づれ朝日山」と謡います。その後の地謡は「雪さし下す(くだす)島小舟」と続き、美しい景色、優れた名所と賞賛しますが、さて月が出る時刻は、なんどきなのだろうか?
「雪さし下す」つまり月の光で雪が下りたように見える、その時刻は何時なのでしょうか。
あれは夕刻の月ではないか・・・。
いや頼政が自害した5月26日は満月ではないので月光が雪に見える程のことはない・・・。
いろいろな意見が出ましたが、結局よく分からず最後は、高林白牛口二師が常に仰る
「理屈に合わなくとも良いのです。それが能なんです」が、オチとなり一同笑って終わりました。能には謎めいたところがいろいろあります。納得いかないことを調べ、時には腑に落ちることもあれば、今回のように答えが出ないこともありますが、あれこれと仲間内で話すことの大事さ、面白さ、を体験しました。


 
今回、広島での演能の前に平等院を訪ね、釣殿、頼政の墓、扇の芝などを見て回りました。観光客で混雑していましたが、扇の芝に目を止める人は無く寂しい限りです。それでも、ここで自害したのかと写真を撮り、宇治川の急流を目の前で見て、ここを馬で渡ったのかと、また改めて感心しました。平等院には既に何回か行っていますが、やはり演能直前に訪ねるのは大いに刺激にもなり、特に朝日山の位置が判ったことは、私には大きな思い出となりました。


 
20代~30歳までは、指導者に教えられた通りに勤めれば良いでしょう。しかし、そこで留まっていては成長が止まります。様々なものを貪欲に吸収し、教えられたパッケージ通りに勤めるだけではなく、もっと先に踏み越え、殻を破り、演劇としての能を追求することの大事さを痛感しています。そして何よりも能という難解な演劇を、ご覧になる方に少しでも分かり易く伝えることの大切さを噛みしめています。もう少しで69歳。今だから判るのかもしれない・・・、と、私も頼政のように心の内で叫んでいます。
                          (2024年5月 記)
写真提供 新宮夕海