『嵐山』を勤めて
桜の花から真の花
前日の嵐が嘘のような、快晴に恵まれた春のひととき、「国立能楽堂定例公演」(令和6年4月10日)で、『嵐山』を勤めました。
能『嵐山』は桜(造花)を左右に配した一畳台の作り物を舞台の正面先に置いて、桜満開、
春爛漫の京都嵐山の光景をご想像していただくところから始まります。
まずは簡単にあらすじをご紹介します。
大和国・吉野山の桜は有名ですが、京の都からはあまりに遠いので、都近くの嵐山に吉野の桜を移し植えました。
春になり桜の開花が気になる帝が嵐山に勅使(ワキ)を向かわせます。
そこに老人夫婦(前シテ・前シテツレ)が現れ、木陰を清め桜に向かって祈念しています。不思議に思った勅使が尋ねると、吉野の桜を都に移すときに、木守と勝手の二神もこの嵐山に来られたと語り、実は自分達こそ木守・勝手の神であると名乗り、雲に乗って南の方に飛び去ります。(中入)
その後、蔵王権現の末社の神(アイ)が現れ舞を舞い、続いて木守と勝手の明神(いずれも後シテツレ)が神体として現れ、嵐山の美景を眺めながら舞楽を奏すと、最後に蔵王権現(後シテ)も現れ、衆生の苦患を助け国土を守ると誓い、栄える御代を祝福します。
『嵐山』は脇能です。脇能は神が出現する能で、正式五番立の最初の演目『翁』の脇に演じられることからこの名があります。脇能は喜多流では「真」「行」「草」の三段階に分けられ、『高砂』や『弓八幡』は本格的な脇能の構成で、演者達には気品と力強さが求められる「真」の脇能となります。それに比べて『嵐山』は穏やかで、華やかさが求められる「草」の脇能です。装束も、「真」の脇能の前シテは大口袴をはくのに対して、『嵐山』のように「草」の脇能では着流し姿となり、少し軽い扱いとなります。
従って、前シテの尉は、『高砂』のような強く硬質な尉ではなく、ほんわかと、柔らかな雰囲気の尉を勤めるのが演者の心得です。
謡についても、『高砂』は終始、強吟で謡いますが、『嵐山』は柔らかい和吟が主になります。後場は、「下り端(さがりは)」の、ゆったりとしたリズムに乗って木守・勝手明神が現れ美しい神遊びの趣の舞を見せ、最後に蔵王権現が登場すると、強吟の大ノリのリズムとなって豪快な謡になりますが、全体には柔らかい雰囲気で終始します。今回囃子方の方々にも、全体に「草」の脇能らしく、柔らかく囃していただくようにお願いし、それに応えていただきました。
『嵐山』は、前場の尉(前シテ)と姥(前シテツレ)は木守明神と勝手明神の化身として現れ、後場でそのまま木守・勝手の二神を演じれば理にかない判りやすいのですが、後シテは蔵王権現という全く別の神になり、木守・勝手の二神は別人が勤めます。従って、多くの能役者を必要とします。
今回、前シテの尉と後シテの蔵王権現を私が勤め、前ツレの姥を谷友矩君、後ツレの木守明神を狩野祐一君、勝手明神を金子龍晟君に勤めてもらいました。彼らは二十代半ばから三十代前半の年齢で、今回、意識して若手を起用いたしました。後ツレの二神が登場し、嵐山の辺りの美景を紹介し相舞になりますが、ここは二人が呼吸を合わせ美しく舞う見せどころです。若い二人は喜多能楽堂が改修工事で使用出来ないため、国立能楽堂の研修舞台を拝借して稽古を重ね、よく揃って立派に舞われたので、よい勉強になったのではないかと思います。次代を担う若手を起用して経験を積んでもらうのも、我々世代の役目、そんな年齢になってしまったかと、複雑な心境です。
この後ツレ、喜多流では勝手明神が「小面」に天冠、長絹姿で女神、木守明神は「邯鄲男」に狩衣姿で男神の扮装で現れます。勝手神社などに伝わる話では、本来、木守明神が女神で勝手明神が男神とされています。木守は子守に通じ、子守明神とも呼ばれ、子授け祈願されたとの史料もあるようで、女神が本来のようです。宝生流と金春流は本来のように木守を女神、勝手を男神としていますが、喜多流と観世流は逆になっています。いつから、なぜそうなったのかは不明です。私は現行の通りに演っていても、あまり気になりませんが、子守明神に子授け祈願などでお参りされている方々には、喜多流の舞台演出には違和感を持たれるかもしれません。
後シテの蔵王権現は早笛に乗って突如姿を現したかと思うと、短い舞を舞い、あっという間に留拍子を踏んで終曲となります。舞働も神舞も舞うことはなく、演者としては少し物足りなさを感じますが、その短い時間に蔵王権現の威厳、荘厳さをお見せするのが大事な心得のようです。荒削りにならないように演じるには、若い能役者よりも逆に歳を重ねた者の方が似合うのかもしれません。
今回の装束は敢えて紺色狩衣も赤半切袴とも「立涌」(たてわく)柄に揃えてみました。結果は悪くはありませんでしたが、特別効果が出るものでもないことを学びました。
面は「不動」でも良いかと思いましたが、従来通り「大飛出」にしました。短い時間に強い威厳と荘厳さを目立たせるには、ご覧になる方の目に飛び込んで来るような扮装選びも大事な技で貴重な仕事だと思います。
私にとって『嵐山』はツレ役の姥や勝手明神の経験はありますが、シテ役は稽古能の経験もなく、今回が初演でした。どうも喜多実先生の指導法の影響でしょうか。先生は『嵐山』よりも『弓八幡』や『養老』を稽古し、『高砂』を目指すのが良いとお考えになられたと思います。『嵐山』は若うちに稽古し、披露しておいた方が良い曲ではないことを、今回勤めて判りました。脇能は『弓八幡』→『養老』→『高砂』の順番に、稽古を重ねていくのが吉、これは喜多実先生のお考えでした。この順番で、それぞれのツレやシテを十分稽古・体得し、年を経てさまざまな経験をした後に、『嵐山』の柔らかい前シテの尉、短くコンパクトに豪快さを示す後シテが出来上がるもの、と思います。
『嵐山』の作者は金春禅鳳、世阿弥の娘婿・金春禅竹の孫ですから、世阿弥にとっては曽孫にあたります。世阿弥からだいぶ時代が新しくなり、観世小次郎信光の時代に近いのではないでしょうか。世阿弥や禅竹のような渋い味わい深い能が流行らない時代となり、楽しく華やか、登場人物も大勢で賑やか、見て判りやすい演出が優先された時代です。
『嵐山』の脇能は、堅さより柔らかさ、これを演じる者も三役も意識することが大事だと思いました。最後の謡「光も輝く千本の桜、榮行く春こそ久しけれ」で、全体に春爛漫の桜を愛で、明るい「陽」であり軽めの「草」の能になっているのです。ここに「陰」は似合わない、と意識することが勤める者には肝要です。
前シテの出は「真之一声」です。荘重な一声の出囃子となりますが、「陰」(陰気)の謡になってはいけないはずです。ところが「真之一声」を音程低く、重々しい鈍重に謡う能役者がいます。「真之一声」は脇能のほかには『松風』で使われます。こちらは松風・村雨姉妹の海女乙女が汐汲みという重労働をさせられている訳ですから、暗い重々しい雰囲気で「陰」の謡が吉ですが、『嵐山』は祝言能で、重々しさは必要なく、明るく「陽」の心意気で謡わなくてはいけません。姥役の谷友矩君にこのことを伝え、一緒に明るく謡えたことを嬉しく思っています。通常の「真之一声」は「掛」「一段(越之段)」「二段」と三段の構成ですが、今回は特別に時間短縮を優先し、お囃子方のご協力を得て「掛」でシテツレとシテが登場する演出にしました。
禅鳳の『嵐山』は楽しく華やかに、判りやすく、を目指していたようで、前場も通常の序・サシ・クセがないコンパクトなつくりです。私は最近、ダラダラと間延びしがちな部分を演らない、を演能のテーマの一つにしています。演じる側が自流のためのルールばかりを優先するのではなく、見る側の立場にたって、今の時代に似合う能を勤めるのが、第一ではないかと思っています。
それからもう一つ、間狂言について私論です。アイは前場と後場を繋ぐお役目で、後場の登場人物の着替え時間を作ってくださいます。ただし『嵐山』のように前後で役者が変わる場合は、装束付けのため、という大義名分はなくなります。であれば、もう少し短く、コンパクトなアイの語り、舞も再考されて良いのではないでしょうか。これはこれから狂言方の方々とも相談して、今後の課題にしたいと思っています。
明るく「陽」な祝言能としての『嵐山』。地謡も囃子方も「陽」な雰囲気でサクサクと謡い、囃してくださいました。役者全員が緊張感をもって、軽くサラリとお勤めくださり、感謝しています。舞台上のすべての能楽師の技が一つになり、ご覧になる方に楽しんでいただき、そこに感動が生まれたら、それが世阿弥の説く「真の花(まことのはな)」です。これからも「真の花」を目指さねば、と桜が教えてくれました。これからも精進し良い舞台を勤めたい、と新たに思いました。
写真提供 新宮夕海
嵐山出演者
ワキ 福王和幸
囃子方 笛 槻宅 聡 小鼓 観世新九郎 大鼓 柿原弘和 太鼓 前川光範
間狂言 高澤祐介 地頭 長島 茂
(2024年4月 記)