『西行桜』を勤めて ー西行に会いたかった桜の精ー

『西行桜』を勤めて
西行に会いたかった桜の精

厳島神社の桃花祭・神能での奉納(4月16日~18日)を終えた翌日、京都に立ち寄って、勝持寺など西山方面の寺々を巡ってきました。
勝持寺は西行法師が出家し庵を結んだ場所です。境内には100本もの桜の木が植えられていて「花の寺」として親しまれています。西行が植えた枝垂れ桜は「西行桜」と呼ばれ、能『西行桜』の舞台となっています。

鐘楼堂の隣にある西行桜は花の盛りは過ぎていましたが、他の桜が少し残って私を迎えてくれました。5日後の喜多流自主公演(2022年4月24日)で『西行桜』を勤めるにあたって、演能前、「西行桜」に能『西行桜』の成功祈願をしてきました。

能『西行桜』の物語は都の西山にある、西行の庵(現在の勝持寺)が舞台です。世俗の騒がしい花見客をあまり快く思っていなかった西行(ワキ)は花見禁止令を出しますが、それを知らない都の花見客達(ワキツレ)は、今日も大勢で訪れ、当然のように案内を乞います。西行は無下に断れず、花見客達を庭に招き入れますが、静かな環境を破られた思いを、
「花見にと 群れつつ人の来るのみぞ あたら桜の科(とが)にはありける」
(花見を楽しもうと人が群れ集まるのは桜の罪なのだ)
と、歌に詠み、そして花見客達と一緒に桜の木陰で一夜を明かすこととなります。

本来、一緒に眠るのですから、花見客達は舞台に留まらなければいけないのですが、能はその後、老人(シテ・老桜の精)と西行(ワキ)の二人だけの世界を繰り広げるために、敢えて花見客達を切戸口から退場させます。そして西行の夢の中に老人が現れ、舞台は二人に焦点が絞られ展開していきます。

老人は西行に
「いや浮世と見るも山と見るも、ただその人の心にあり、非情無心の草木の花に浮世の科はあらじ」(いや違いますよ、すべての現象はその人の心次第、草木には心が無いのだから、花に罪は無いでしょう)
と、西行の詠歌に異議を唱えます。西行はすぐに納得し、老人の正体を尋ねると老人は老木の桜の精と明かし、会えたことを喜び、都の花の名所の数々を紹介します。そして名残を惜しみ舞を舞い、夜明けと共に姿を消し、西行の夢はそこで覚めて、終曲します。

能『西行桜』は最初に、桜の木(塚)が舞台中央に据えられ、西行と従者(アイ)が登場し、アイの花見禁止令の触れから始まりますが、シテはその作り物の中で待機しています。作り物の引き廻しが下りて姿を現すまで、25分ほど、舞台進行の3分の1強が西行と花見客とのやりとりに費やされ、その間、シテは狭い作り物の中でじっと待機を強いられます。装束も面もきちんとつけた状態なので、じっと動かないでいるのは思いのほか難儀です。実際、脚が硬直して、作り物から出てよろけてしまうことも過去にはあったようです。

父・菊生は『西行桜』を勤めておりません。長い作り物での待機や、観世寿夫氏の最後の舞台が『西行桜』だったことが気になり避けて、生涯『西行桜』を勤めることはありませんでした。一度は甥の粟谷能夫に勧められて平成10年「第63回粟谷能の会」で勤める決心をしましたが、気弱になり『羽衣』舞込に変更してしまいました。そのとき、能夫の「あたら『西行桜』の科にはありける」と放った言葉は面白く、今でも懐かしく思い出されます。

さて、『西行桜』を勤めるにあたって、この老人、爺さんはどんな爺さんなのだろうか、どのような気持ちで勤めたらいいのだろうか、とずっと考えてきました。
老人は西行の「桜の科」という歌に対して文句をつけに現れますが、実はそれを口実にして、西行に会いたかったのではないでしょうか?
西行も桜の精の抗議に対して「これは理(ことわり)」とすぐに非を認め、よって論争にはならず、老木の精も「有難や上人の御値遇に引かれて」と、会えた喜びを素直に吐露しています。

春を満喫し、桜の名所を教え、西行と過ごす時間を楽しみますが、時の流れは速く、すぐに別れが訪れると思うと名残惜しくなるのです。シテ謡の「あら名残惜しの夜遊やな、惜しむべし、惜しむべし、得難きは時、逢ひ難きは友なるべし・・・」は正に老桜の精の心情ですが、この言葉は、そのまま私自身にも、また観客の皆様にも身に沁みる言葉ではないでしょうか。西行と過ごすその時だけでなく、人は人生そのものを惜しむのである、と作者・世阿弥が発信しています。それが自然と素直に私の身体に浸透するようになったのは、人生の残り時間を意識するようになってきたからでしょうか、時間の大切さを痛感します。

老木の桜の精が舞う序ノ舞、正直私はこの舞がなにを伝えようとして設定されたのかは、まだ判りません。西行に夜遊の舞を見せているのか、西行に会えた喜びを身体で表現したかったのか・・・。ただ演者としては、老木の精らしく舞うことだけを考えていましたが、その真意はわからないままです。
きっとご覧になる方の自由な想像でよいのでしょう。それが能にしかない表現方法なのだ、と納得しています。

今回、特に気なったことがありました。それは、後夜の鐘の音が響き渡り、春の夜が明け始めるときに、シテが「待て暫し夜はまだ深きぞ」と、ワキに向かって行う巻サシヒラキの型(動き)です。喜多流のこの型は、まるで桜の精が西行に向かって「待て暫し」と言っているように見えてしまいます。しかし、それは違います。老桜の精が「夜よ、まだ明けないでくれ! もう少し待ってくれ! もう少し時間をくれ!」と、昇ろうとする陽に、時の流れを止めるように叫んでいる、そのように解釈したいのです。よって今回は従来の型ではなく、東の空(幕方向)に向かって謡う型に変えました。

これについては、いろいろ議論があり、「待て暫し」は西行の言葉と解釈される方もいらっしゃったようですが、朋友・森常好氏が「あれはワキの台詞ではない、老桜の精の言葉」と明言してくれたことが力となり、友枝昭世師とも相談して型を変えて演じました。
今後、型を変えるか、従来通りで進むかは演者の自由です。但し、ご覧になる方が誤解をなさるような表現は改善すべきだと、私は思いますが、どうでしょうか。

楽屋内の話ですが、桜の作り物は以前は塚の榊の中に桜の花をいくつか載せるだけでした。ある時、観世寿夫氏の「西行が植えた桜は枝垂れ桜である」との言葉から、枝垂れ桜を模して枝先を垂らし桜の花をつけるようになりました。今、喜多流でも枝垂れ桜をさすようになりましたが、これも銕仙会に傾倒していた能夫が最初に喜多流に導入したと記憶しています。良いものは真似る、先ほどの「待て暫し」の解釈同様、それが演者の正しい舵取りだと思います。今回はもう少し桜を多く飾って華やかさを増やしたかった、と少し後悔しています。

面や装束は原則として伝書に記載された物を着用しますが、柄や色などは演者の好みの選択が許されます。
桜の精というと、若く美しい女性を想像したくなりますが、皮肉なことに、『西行桜』の精は男の老人です。西行と対峙させるのは年の功を経た男性がよいと世阿弥は考えたのでしょう。桜の花はパッと咲いて散ってしまう、その華やかさ、美しさに目と心を奪われがちですが、実は綺麗な花を支えているのは幹です。今回はその幹を演じる、気持ちで勤めました。

その幹の色、桜をよく見ると黒く見えてきます。
観世寿夫氏が黒っぽい狩衣を着られたと聞いていますが、まさに幹をイメージされていたのではないでしょうか。銕仙会では寿夫氏の教えを守り、この狩衣を黒っぽいものにしているようで、私も黒色で、と思いましたが、似合う黒色の狩衣がないので、我が家にある濃い茶色の狩衣を着ました。黒ではありませんが、桜の幹になるという私の心は変わりません。

また老人の桜の精の烏帽子は、喜多流では色によって持つ中啓(扇)が変わります。
黒色の黒風折烏帽子を被ると紅無の中啓となり、金色の金風折烏帽子では紅入の中啓になり、これもどちらを選ぶかは演者の自由です。黒色ならば枯れた墨絵の世界で老木の桜の精、金色ならば少し華やかなイメージになります。今回は華やかさを前面に出したく金風折烏帽子にしました。

面は通常通り粟谷家所蔵の「石王尉(いしおうじょう)」にしましたが、私の思う老桜の精の雰囲気と似合わなかったように思え、少し心残りです。西行の歌に文句をつけるひねくれた老人には石王尉の顔は似合いますが、西行に会えて喜びに満ちた雰囲気には、下向き加減な人相はどうも似合いません。観世流ではより柔和な表情の「皺尉(しわじょう)」を使うようですが、こちらの方が私の描く老人に近いように思えます。

能役者にとって、春の『西行桜』、秋の『遊行柳』の老木の精はいずれ演らねばならない目標となる演目です。しかもこの二曲はどんなに達者な演者でも3~40代では手に負えませんし、若者が演じては似合いません。この曲は若者を寄せ付けない不思議な力を持つ作品です。

確かに私も、馬齢を重ねてようやく、老い木の気持ちが分かるようになり、「ああ、『西行桜』を勤める歳になったのだな」と、つくづく自身の老いを感じています。
今回66歳の初演は少し遅いのかもしれませんが、この年になって判る老いの世界観を味方につけて勤められた事は喜びで、自分には適齢期であったと思っています。

一曲一曲の演能の大切さ、惜しむべしは時です。
後夜の鐘の音が聞こえるまでは舞い続けなければ・・・。
己の人生で、いつどんな鐘が聞こえて来るのか、春宵一刻値千金、春の夜の夢のなかに、しばしまどろみました。  
                
能『西行桜』写真提供 新宮夕海
小鼓:大倉源次郎 大鼓:亀井広忠
勝持寺 石王尉 撮影 粟谷明生
(2022年4月 記)