『鵜飼』を勤めて

『鵜飼』を勤めて
名曲ゆえの多彩な楽しみ

                         粟谷 明生

殺生禁断の地で密漁をした罪で捕らえられ殺された鵜使いの物語、能『鵜飼』を喜多流自主公演(2021年9月26日)で勤めました。この会も、コロナ感染症のために1年順延になったもので、本来は昨年の9月に予定されていたものです。

『鵜飼』を勤めるのは今回で3回目です。初演は26歳(1981年)のとき、2回目は54歳(2009年)、そして今回が丁度65歳の最後の舞台でした。
初演のときは、今思い出すと恥ずかしながら、ただ教えられるまま、型通りに真似て吉と思っていました。能は不思議なものでそれでも一応成立してしまいます。が、そこが演者にとって落とし穴であることは後日知ることとなりました。

再演のときは、能『鵜飼』のゆかりの地、石和温泉の「遠妙寺(おんみょうじ)(鵜飼山)」にも行き(「写真探訪・『鵜飼』ゆかりの地を訪ねて」をご覧ください)、この曲はどういうものなのか、主人公の気持ちや背景なども考えて臨みました。そして「鵜之段」を演じていて、鵜使いが暗闇の中、松明(篝火)の光に集まる魚を捕えようと懸命に鵜を操るときに、闇を晴らす月が出てくると、あたり全体が明るくなって篝火の効果がなくなる、鵜使いには月は邪魔ものなのだと気づかされました。

鵜使いが月を嫌う気持ちが分かり、その発見が面白く、当時の演能レポートに、能『鵜飼』は「暗闇」と「月」がキーポイントと書きました。暗闇という迷い多き衆生の世界と真如の月という明るく正しい世界、この対比された言葉を追うことで、『鵜飼』が描く謎解きが一つできたような気がしました。このように能は演じてはじめて謎が解けることがあり、それが楽しみとなりました。
今回もやはり再演の時に面白く感じた「暗闇」と「月」、「人間の心の闇と光」、これがテーマであることを再認識させられました。

シテ(鵜使いの霊・老人)が登場して最初に謡う一声「鵜舟に燈す篝火の、後の闇路を如何にせん」には、鵜飼という殺生をしている人間の、その後の闇路、報いをどうしたものかと怖れる気持ちが込められ、最初にテーマを表白していることが分かります。
七夕の牽牛、織女の二つの星は月に誓って夫婦になり、雲上人は月を愛で、月の無い夜を嘆くのに、それに引き替え自分は、月の夜を厭い、闇になる夜を悦んでいる、それでも篝火が消えて闇になると悲しい・・・と、鵜使いの老人の思いが展開します。
この能のシテの最初の一声、さりげなく謡ってしまいますが、ここに大事なエキスが隠れていることを知りました。

『鵜飼』は、清澄の僧(ワキ)が甲斐の国への旅の途中、石和に到着し、鵜使いの老人(シテ)に出会います。老人と僧が問答していると、従僧(ワキツレ)が、あの鵜使いは2、3年前に一夜の宿を貸してくれた者だと気づきます。老人は、その者は殺生禁断の川で鵜飼いをして捕らえられ、罧(ふしづけ:簀巻きにされ沈められる)にされ死んだと語り(「語り」)、自分がその霊であると明かし、弔ってほしいと頼みます。
僧が懇ろに弔うことを約束して、鵜を使う様を見せてほしいと言うので、老人がその様子を見せるのが「湿る焚松(たいまつ)振り立てて」から始まる一番の見どころ「鵜之段」です。

鵜使いにとっては、殺生はいけないことと言われても、長年やって来た生業であり、鵜を使って行う漁は楽しいものでもありました。鵜使いが荒鵜どもを「ばっと放せば」に続く地謡「面白の有様や、底にも見ゆる篝火に驚く魚を追い廻し、かづき上げ掬ひ上げ・・・」は軽快に運んで謡います。シテも右手に松明、左手に鵜をあやつる縄に見立てた中啓を持って、きびきびと舞います。老人といっても、長年の労働作業はお手の物です。きびきびと手際よく動く意識が肝心です。

それでも「鵜之段」の終盤、「不思議やな・・・・」から「月になり行く悲しさよ」と謡は締まり、シテの心も沈んでいきます。そして「闇路に迷ふ此の身の名残惜しさを如何にせん」と消えていきます。

最初の明るく楽しい雰囲気から闇に沈む心、ここにも暗闇と月の対比が鮮やかです。
中入りは、静かにスーッと闇に消えていく風情が大事ですが、今回は通常通り常座で止めず、そのまま橋掛りに入り、三の松で一旦立ち止まり振り返り、娑婆への名残惜しい気持ちを表現する型を試みました。

後場は前場とはうって変わった趣向となります。
太鼓も加わり賑やかに囃す早笛に乗って登場する後シテは、なんと閻魔王。
「悪い事をしたら地獄に堕ちるよ」「嘘ついたら閻魔様に舌を抜かれるよ」「物を盗んだら鬼に叩かれるよ」などと子供の頃に言われたことを思い出します。閻魔王は冥途の番人で、生前の善行悪行を判断して、極楽行きか、地獄に堕ちるかを審判する偉い鬼です。

謡本には後シテ「閻魔王」と書いてありますが、詞章には閻魔という言葉はなく「悪鬼」と書かれています。それでも、鉄札(悪行を記したもの)や金紙(善行を記したもの)を見て判断できるのは閻魔王だけです。能の世界での悪鬼は閻魔王、そしてそれに仕える眷属を含めた者の大きな枠内と考えて勤めました。

殺生を生業とする者を主人公にした能には『鵜飼』のほかに『阿漕』と『烏頭』があり、これを三卑賤と呼んでいます。『阿漕』と『烏頭』は後シテも前シテと同一人物で、地獄で苦しむ様を見せ救いがない描き方ですが、『鵜飼』は後場では閻魔王がシテとなって、鵜使いが生前、僧に一夜の宿を貸したという功徳により、地獄に堕ちるところを改め、極楽に送り変える、と豪快に紹介する、前の二曲とは全く違った構成です。
よく「前と後、全くの別人格をよく演じられますね」と、言われますが、能楽師は基礎的な型を稽古し、それを積み上げていくので、それらを一つにまとめてもあまり違和感は無く演じることが出来ます。

以前写真探訪で訪れた「遠妙寺(鵜飼山)」の当山の由緒に、日蓮上人が弟子の日朗、日向上人と当地を廻ったときに、鵜使いの霊に出会い、法華経一部八巻、六万九千三百八十余文字を河原の小石一石に一字ずつ書き、川に沈めて施餓鬼供養した、この縁起によって謡曲『鵜飼』は作られたというようなことが書かれています。これから考えると、『鵜飼』という能は、殺生することの罪、それによる苦悩を描くというよりは、法華経を信じれば救われるということがテーマで、宗教宣伝曲となっていることが分かります。ただ、ここをあからさまにして、あまりに説教臭くなっては面白くありません。能の戯曲者が救済劇を巧みに入れ込んで面白いお話に仕上げているところが人気曲になるゆえんです。説教がましくないけれど、これを楽しく観て、「日蓮さんも良いかもしれない」と、なるかもしれません。

『鵜飼』が他の二曲のように四番目物(狂い物)の能に分離されず、切能に分類されているのも、さもありなんです。ご覧になる方は、最後の演目で閻魔王の豪快な救済劇を楽しみ、ああ、胸がすっとしたとお帰りになれるわけです。

演者にとって、後場はいかに力感が出せるかが勝負です。スピード感よりは重みがある力強さ、重厚感のある動き、舞が大事です。

閻魔や悪鬼に使用する面は「小べしみ」と呼ばれ、真っ赤な顔をして口をへの字で結んで、なにか我慢を強いられているような強い意志を感じさせる面です。面は粟谷家所蔵の是閑打の烙印がある名品で勤めました。閻魔王には似合っていたのではないでしょうか。

『鵜飼』の鵜使いは最後、閻魔王に救われますが、前場の「語り」、なぜ鵜使いの老人が罧の刑に処せられて殺されたかを生々しく語る場面も見せ場、語りの聞かせどころです。
禁止されていることを守れない人は、今の世にもいます。
例えば、有刺鉄線が張られ立ち入り禁止の看板があっても、無視して、釣り糸を垂らす釣り人。たぶん、そこはよく釣れるポイントなのでしょう。「ここは立ち入り禁止では?」と言われても「誰にも迷惑はかからないだろ」とか「そりゃ入っちゃいけないのは分かっているけれど・・・」などと悪びれもせず答える、などということありますね?
能『鵜飼』の老人も「殺生が良くないことは知っているよ」「禁漁区なのも知っている、でも・・・」とやってしまう。捕まっても、手を合わせ神妙な面持ちで、「殺生禁断の地とは知らなかった、これからは気を付けます」と、嘘の釈明をするところがありますが、ここは昔も今も変わらない人間の嫌な部分を見せつけるように演出されています。

そしてルール違反をする人を取り締まるというのも、今も昔も同じです。
『鵜飼』では石和村の者が「一殺多生」の理を掲げて、密猟者の鵜使いを見せしめにしようと、残酷な罧の刑に処します。見せしめとして一人を殺しても、他の多くの人が生きられるならいいではないか・・・・。その理念で行われた残酷な処刑は過去の歴史にもいろいろあったのではないでしょうか。現在のコロナ禍で、要請に従わない店は「店名を公開します」と脅し、一店を見せしめにして、他の店に守らせようとするのと似ていますし、自粛警察のように、取り締まる資格もない者が違反者を取り締まるという不思議な現象も起こります。

能は室町時代に作られた芸能ですが、作品テーマは現代にも通じていて、決して古臭いものではないのです。『鵜飼』という作品がそれを証明しています。

今に通じる能『鵜飼』、前場の一声や「語り」、「鵜之段」、後場の閻魔王の豪快な舞、どれをとっても楽しめ、コンパクトに構成された見どころ満載の能、『鵜飼』はつくづく名作だと感じさせられます。人それぞれ、時代が変わっても、共感できるものがあります。名曲は懐が広く、観る者が問いかければ、ちゃんとその分だけ、返答してくれます。

30代から50代までは肉体はいくらでも酷使できる、体はいくらでも動くもの、と思っていました。しかし、60代半ばともなるとそうはいかなくなり、身体の故障も多少増えて来て困っています。昨今はコロナ禍で、モチベーションが下がるなどの負も背負いました。それでも「年月を経て習得できる技もある」「年齢を重ねることで表現できることもある」と自らを鼓舞しています。
父・菊生はよく、お能は謡10年、舞3年と言って、謡が大事、謡の技の習得が大事と言っていました。だから老いて体が動かなくなってきたときこそ、味わい深い謡で勝負する、先人も皆そうやって老いにあらがっていたように思います。
私も老いの入り口にあって、3回目の『鵜飼』を勤め、能の懐の深さ、この年になって分る能の魅力にも気づかされました。馬齢を重ねることも満更捨てたものじゃない、と思い、いや思いたいと日々過ごしています。
コロナの時代、うがいをしながら、うがいの語源は鵜飼だ!
鵜が飲み込んだ魚を吐き出す姿に似ていることに由来している、と思うと、今の時期に『鵜飼』を勤めたのも何かのご縁かな、と、ふと口元が緩みました。
写真提供 
前島𠮷裕
新宮夕海                        (2021年9月 記)