仕舞『熊坂』長裃を披いて

仕舞『熊坂』長裃を披いて

能楽は本来、能面や能装束を着用して演じられますが、それらを使用せずに能の一部分をシテ(主人公)が一人で舞う事もあります。地謡に合わせて舞うのを「仕舞」、お囃子方が入るのを「舞囃子」と言います。

仕舞や舞囃子は通常、全員紋付袴姿で舞台を勤めますが、演能の場所により、また演目が高貴、高尚になると、敬意を表す意味もあり、紋付の上に裃や素袍を着て勤めることがあります。

裃は上半身に肩衣を付け、下半身は袴をはきますが、袴には短い袴と長い袴の二つがあり、短い袴を「半裃」、長い袴を「長裃」と呼びます。

喜多流にはこの「長裃」を小書の特殊演出として仕舞や舞囃子で勤めることがあります。

仕舞は『熊坂』で、舞囃子は『高砂』です。これらは喜多流独自のもので、他の流儀にはありません。両曲とも動きが激しく、動きにくい「長裃」での演能は演者の舞い方の工夫が必須で、そして粗相をしないように細心の注意を払っての勤めとなります。

その仕舞『熊坂』を「長裃」の小書にて、令和元年9月7日 「第25回能楽座自主公演」にて披かせていただきました。

今回の能楽座自主公演は、昨年亡くなられた笛方の藤田六郎兵衛氏を偲ぶ会で、各流儀の方々が集合し、舞囃子、独吟、仕舞、狂言、能と披露され、私もその一人に加えていただきました。

『熊坂』の仕舞は、暗闇の中、高齢(63歳)の熊坂長範が若い牛若丸を相手に薙刀を振りまわし奮闘しますが、翻弄され、最後は敗れた無念さを左手で足を強く叩き悔しがり終わります。
牛若丸を登場させず、熊坂一人で演じるところが能らしい演出です。

激しい動きの型に、長い裾は動きにくく苦労しますが、裾を上手くさばき、粗相無く勤めるのが演者の心得です。

亡父菊生が「通常の飛ぶ型を綺麗な裾さばきに変える、そこが一番の見せどころだよ」と教えてくれたことを思い出し、地謡に普段よりも幾分しっかり、ゆっくり謡っていただき、型の速さより、どっしりとした重厚感のある薙刀さばきを心掛け、敢えて父の茶色の裃を着て勤めました。

事前に実際に長裃を付けて数回稽古し、どうにか無事に舞い終えることが出来ましたが、後日自身の動画を見ると、もうすこし軽快な裾さばきがあってもよかったかな、と反省もしています。さて、この小書はどうして喜多流だけにあるのか、正直はっきりした事はわかりません。

流儀の重鎮・高林白牛口二氏は「残念ながら、喜多家の伝書は明治維新、震災、戦災などで散逸してしまったので書き物としては残っていない。また弟子家にその秘技を教えてはいなかった、と考えられるので結局なにも残っていないのが実情です」
と、教えて下さいました。父が「殿様は不自由な格好でどのくらい舞えるか、技量を見てみたかったのだろう。半分嫌がらせかもしれないなあ。しかし、そこを粗相無く、見事に舞わなきゃなあ」と、話してくれたことも思い出しました。


       

この度の「長裃」の披きに続き、来年1月25日(土)には大槻能楽堂改修記念能にて、仕舞『谷行』素袍を勤めることとなりました。珍しい仕舞の小書を勤められる幸せを感じております。次回も精一杯、活発にそして粗相無くを心掛けて勤めたい、と思っております。

写真 仕舞『熊坂』長裃 シテ 粟谷明生
撮影 新宮夕海