『木賊』を演じて
酔狂で描く一途な親心
粟谷 明生
(『木賊』撮影:新宮夕海)
能『木賊』は男親と子の再会をテーマにした物狂能です。能には親子再会物、特に母子再会の女物狂能は多くありますが、男親と子の再会物は珍しく、『弱法師』や『花月』、『歌占』などあるとはいえ、男親が老翁というのはこの『木賊』一曲だけです。
(『卒都婆小町』撮影:前島写真店)
以前喜多流では、『卒都婆小町』などの老女物と同じように、『木賊』は演者が還暦を過ぎなければ勤められない秘曲として扱われていましたが、近年、還暦前に披かれた方々のお陰で、この秘曲が神棚から降ろされ、能楽師にとってやや身近に感じられるようになり演出も見直されるようになりました。
その『木賊』を第102回粟谷能の会(平成31年3月3日)で披きましたが、身近になったとはいえ、難曲であることに違いないことを実感しました。
シテの老翁は生真面目で頑固、子を思う一途な父親で、『木賊』はその一途な親心がテーマです。しかも老人の物狂能で、行方知らずになった息子を思い、酒に酔っては狂う「酔狂」が特殊です。酔狂という言葉、酒を呑んで常軌を逸することと、好奇心から変わったことを好むことと二通りありますが、『木賊』で扱うのは前者の意味です。今ではあまり聞かなくなりましたが、酒をこよなく愛する高知県人は、「あいつは酔狂やきー」などと、今でもうわさ話をします。酒を呑むとしつこくなり、まわりの人が迷惑でも、本人はいたって真剣で、「まっこと、そーじゃきー」としつこく同じ話を繰り返します。「もう先ほど聞きましたよ」と返しても、「いやまっこと分かっておらんで言うてるがやきー」と、若い頃、高知の御弟子様との宴席で実際にそんな酔狂人とお付き合いさせられたことを思い出します。しかし酔狂な人は一本気、一途で頑固であるからこそ、高知には坂本龍馬などのすごい力を発揮する県民性があるのかもしれません。
かく言う私自身も酒好きで、ついつい飲み過ぎ失敗もしますから、人のことをとやかく言えませんが、身近で言えば、父・菊生も酔狂な部分を持ち合わせていた、と思っています。
芸論や子供の教育論などになると譲らず、私と言い争いになったこともありましたが、それもよき思い出となっています。
この「酔狂」が存分に描かれるのが、能『木賊』で、特に後半の、ワキの僧たちを家に招いてお酒を勧めるところから、ここが『木賊』の一番の見どころであり、演者にとっても最難関であることは間違いありません。ここがある故に、『木賊』は高位で難曲と言っても過言ではないでしょう。私は普段、あまり面を掛けて稽古をしませんが、『木賊』ばかりは尉の面を掛けなくてはなかなか気持ちが立ち上がってこないので「小牛尉」の面を掛けて稽古を重ねました。
というわけで、まずは「酔狂」の場面を書きたいのですが、その前に、この老翁と息子の関係や、この物語がどう展開していくかを見ておきたいと思います。
最初に、息子の松若(子方)を先頭に、師の僧たち(ワキ・ワキツレ)が登場します。信濃国、園原の伏屋の里で育った松若が親に内緒で出家したが、年月が過ぎ故郷の父親のことが気になり、一目対面したいと、故郷の伏屋の里を訪ねます。
そこに父・老翁(シテ)が従者(シテツレ)を連れて、木賊を担ぎ登場し、秋の伏屋の里の景色を謡います。能『木賊』は確かに後半の物狂いの場面は重苦しいですが、前半の僧たちと老翁が出会う場面はサラッとしたものですから、前後の場面の雰囲気は当然違わなくてはいけません。
今回、シテの一声(出囃子)があまりゆっくりと重くならず、軽めにサラサラと囃していただきたく、大鼓の亀井広忠氏に相談すると、「あまり重苦しいのはいかがなものでしょうか。従者の中に老人がいるだけ。老人のスピードに合わせるのではなく、サラリと打ちたいですよ」と言われたので、これ幸い、友枝昭世師の前場は軽くサラリと、の教えの通りに勤めることが出来ました。
やがて僧が老翁に、刈り持っている木賊のことや、坂上是則が詠んだ「園原や伏屋に生ふる帚木の ありとは見えて逢わぬ君かな」(新古今和歌集)の歌のことを尋ねます。老翁は帚木というものが遠くからは見えるが近づくと見えない、そのように歌人が知っていて詠んだのだろうと、僧たちを帚木のある場所に案内します。
この「園原や・・・」の歌は恋の歌で、そこに見えているのに、逢えない君と嘆く歌ですが、この歌こそ、能『木賊』の芯になっているのではないでしょうか。
「親の心、子知らず」、「子は親に薄情だ」と怒る父親の一方的な思い込みにリンクさせて構成・演出しているのだと思います。
この帚木、源氏物語でも『帚木』巻があり、遠くには見えるが近くに行くとすっと消えてしまう、そういう女性の象徴のように使われていますが、ここでも親子の情愛のもどかしさに効果的に使われています。帚木という木は、今は落雷にあって根っこしかないようですが、実際に園原村にあった大木で箒のような形をしていたようです。
伝書にも「帚木は、高く見上げる」と書かれていて、今回、実在した帚木の写真を見て、伝書の真実性に改めて感心してしまいました。
さて、この親子、どういう人物で、どうして子は自ら出家してしまったのか、演者として気になるところで、自分なりに推察をしました。
詞章では松若は「稚き人」と書かれていますが、出家したのは9~10歳ぐらいで、そして父に一目対面したいと故郷に訪ねて来たのはそれから10年後ぐらい。
出家して、師匠に一目父親と対面したいと言えるには、少なくとも5年~10年の歳月が必要だったのでは・・・となると、舞台に登場する松若は19、20歳ぐらいということになります。実際、子方はもっと小さい年齢の子が演じますが、それが能独特の演出であって、親子対面の場面で幼い子の方が涙を誘う、その効果を能はよく知っているから、と思います。
老翁の父親の立場と性格は、決して貧しくはない、むしろ名家の主人で、質素、謹厳実直、子供に厳しかったのではないでしょうか。木賊刈りはもちろん生業ではなく、己の山に生え過ぎた木賊を刈るためで、これを家づと(家へのみやげ)だと僧に答えるところからも、推察出来ます。
また、「木賊刈る園原山の木の間より 磨かれ出づる秋の夜の月」の歌を謡いながら、露に映る澄んだ月影も刈ってしまおう、「刈れや刈れや花草」と花をつける草も刈ってしまおう、無駄なものは全部刈ってしまおう、と妙な一徹主義、そして「磨くべきは真如の玉ぞかし」「磨けや磨け、身のために」などと、自身生きるべき道への強い信念があって、その強い思いが我が子の教育にも波及していたのではないでしょうか。
「自分の信じるものは間違いない」「私の言う通りにしていれば、幸せになる」「無駄なことはするな、余計なことは考えるな」などと、一方的に口うるさい頑固親父です。
息子の意見、言い分には聞く耳を持たない父親に対して、松若は黙って家を出るしかなかったのです。
父親は老翁という設定ですが、今とは違い、当時は40から50歳ぐらいで、すでに老い人で、子供が19、20歳なら、ちょうどよい年齢で計算が合うな、と想定して稽古し、舞台を勤めました。
ちょっと話はそれますが、この曲は最初『フセヤ』との曲名だったようです。世阿弥から金春禅竹に相伝された曲名を記した「能本三十五番目録」に『フセヤ』があることから、これが『木賊』の古名だと考えられているそうです。木賊刈りのことはこの曲の最初に出て来るだけ、「園原や伏屋に生ふる帚木・・・」の歌からも、これから起こる伏屋での老翁の物狂いからも、『伏屋』がタイトルでよさそうなものですが、曲名が『木賊』となったのは何故でしょうか。
あまり露骨な表現を嫌う能(申楽)の考え方があったのでしょうか、よくわかりませんが、後の人がどこかで曲名を変えたのは確かです。しかし一見、物語には関係ないように見える木賊刈りで、老翁の実直さや自らを磨こうという謹厳な人となりを描くあたり、戯曲の構成としてうまくできていると感心してしまいます。
話を能の物語に戻します。子供の行方が知れなくなって、父親が苦しんだことは想像に難くありません。老翁は僧たちを自宅に招き一夜接待する「旦過(たんが)」に誘います。僧を泊めて話を聞けば、何か息子の手掛かりがつかめるかも知れないとの思いがあったでしょう。老翁は、自分には子が一人あるが、往来の僧に誘われ、失って(行方不明になって)しまったと告白します。そして「心安く一夜を明かして」といって物着になり、前半は終わります。僧たちに「どうぞ心安く」などと言いながら、ここは、お前らの仲間が我が子をさらったのだという、憎しみといら立ちがあったのではないかと思います。
老翁が物着している間に、従者(シテツレ)が「老翁はおかしな振る舞いをするかもしれないから、気を付けて」と注意すると、すぐに子方の松若が「只今の老翁は父親です」と僧に明かします。僧は喜びますが、松若はなぜか「まだ再会させないでほしい」と僧に頼みます。父と分かりながら、すぐに名乗り出ない、子供の複雑な心境です。自分はまだ修行の身、家に帰るわけにはいかない、一目会えればいいという思いだったのでしょうか。
そうとも知らない老翁。物着をして現れた姿を見れば、常軌を逸しているとすぐにわかります。子供が昔着ていた赤い着物を羽織り、子供の小結烏帽子(こゆいえぼし)を頭に載せています。子供の着物は裄(ゆき)が短くつんつるてん、袖のなかに大人の着物の袖がよじれ押し込まれていて、今でいえば、小学生がかぶる帽子をかぶり、ランドセルを背負って出てきたような異様な姿です。そして酒を僧たちに勧めるのです。
私はこの時すでに、老翁は酒を少し呑んでいた、とみて演じました。僧たちに酒を準備しながら、ちょっとひとくち・・・。であるからこそ、あの常軌を逸した姿でも登場でき、もうここから酔狂の世界が始まっているのです。
物着について、江戸時代の伝書には「肩上げした水衣の袖を物着にて下ろす」とありますが、近年は掛素袍や子方長絹などを着用し、しかも子方の中啓を持つ演出が主流となりました。これは近年の先人たちのよい工夫だと思い真似をして、観世銕之丞先生(銕仙会)から貴重な子方長絹を拝借し、今回の公演の原動力となりました。「たいへん似合っていた」と好評を得て、氏には感謝しております。
酒を勧める老翁に、僧たちは仏の戒めにより飲酒はできないと断りますが、古い故事などを引き、「法の真水と思って飲みましょう」と誘います。やがて酔うほどに、子はどうして親の心がわからないのか、と恨みの涙を、漣々(れんれん)と流すのです。
そしてクセ(舞クセ)では「親は千里を行けども子を忘れぬぞ、子は千里を経れども親を思わぬ」と、くどき、「人の親の心は闇にはあらねども 子を思う道に惑いぬるかな」(藤原兼輔)は本当のことだと嘆き、子の昔の面影が忘れられない、我が子はこう舞ったぞ、手はこう指したぞ、と舞いながら我が子の父への薄情を嘆き悲しみます。そして遂に興奮して狂い、泣き崩れて「酔泣(えいなき)」となるのです。
まさに酔狂。これでもかこれでもかと、かなりくどい嘆きの表白です。それも父親の側の言い分ばかり、子はどんな気持ちで家を出たのかなどは考えません。ただただ親の悲しいつらい気持ち、一方通行の嘆きです。この曲の後半の詞章の大半は父親の言い分、きっと子の言い分もあるのでしょうが、そこには故意に光を当てない演出です。能『木賊』は父親の頑なで一方通行の愛、真面目過ぎて自分の思いをごり押しする愛を描こうとしたのではないでしょうか。こんな父親、今も身近にいそうです。リアリティがあり、現在にも十分通じる話です。決して古びない、それゆえに、能は時代が変わっても長く継承されているのだと思います。やはり作者・世阿弥はすごいと感心させられます。(『木賊』は世阿弥作の可能性が高い、世阿弥系統の作品といわれています。)
今回、舞クセで「子はこう舞ったぞ」と地謡を聞きながら舞うときに、父はこう舞っていたかもしれない、と不思議な感覚になりました。この仕舞所は基本の型の連続ではありますが、それをその通りに舞うのではなく工夫が必要となります。その工夫こそに演者の力量が測られる、と信じています。老翁の心情をよく理解し、演者自身の身体を通して真似たものがごく自然と現れる、そのような舞でなければならないと思っています。更に酒が入って舞っていることを忘れてはいけないのです。単に狂うだけでなく、ここは酔狂なのです。酒に酔って狂い、思いがどんどん強烈になり興奮度が高まるのだと思って演じました。
そして老翁が「子を思ふ」と謡い序の舞となります。笛、小鼓、大鼓の囃子方の音色と掛け声に合わせて、まさに能ならではの表現で、最大の見どころです。
ご覧になった方から、序の舞で舞いながら扇を使って泣くような所作が入っていたが、特別な演出なのかと聞かれましたが、『船弁慶』で静御前が序の舞を舞うときシオリ(泣く型)が入りますので、舞の中に現実味を帯びた所作が入るのは珍しいことではなく、今回も特別ということではありません。ただし、今回は子方の中啓が老翁の心を動かす一物であるのを重視、誇張したことは確かです。幽玄能のような夢で舞う序の舞ではこのような表現はないかもしれませんが、現在物では正々堂々と感情表現が可能となります。
老翁が我が子の扇を見ては泣き出すところ、今回、泣く前後の囃子方のスピードコントロールがよく、とても気持ちよく演じることができました。笛の松田弘之氏、小鼓の鵜沢洋太郎氏、大鼓の亀井広忠氏、囃子方の3人の方々に感謝しています。
そしていよいよクライマックス、悲しみの一連の動きを大ノリ地で謡い、物狂いとなった老翁は、親が狂うなら子は囃すべきではないか、いま一目、父の前に見えよ、と訴えかけます。
現在物は夢の世界ではないのでリアリティある芝居心が必要です。役者の力量がはっきり現れる難しい曲、恐い曲です。最終的には、舞台を見てくださった観客に、自然と涙腺がゆるむような感情が伝わらないと、演者落第だと思っています。
泣き悲しむ父の姿を見た松若は遂にたまらず、自ら名乗り、二人は目出度く再会します。その後二人は古里を仏道を広める寺とし、これが伏屋の物語、目出度し目出度し、と終わります。再会後の話はこのようにあっさりしています。
しかしこの短いフレーズのなかに、一途な老翁は松若のすべてを許したのだと想像できます。仏道に入った息子の気持ちを汲んだからこそ、古里を仏道を広める寺としたのでしょう。親子というのはこんなふうに和解できるのです。
『木賊』は大事に扱われ位が重い曲、還暦過ぎないとできない曲とされてきたことは、最初に述べました。私も今63歳、還暦を何年か過ぎました。お酒は昔から好きで楽しく陽気に飲むことが多いのですが、最近、気の合う仲間たちと呑み語り合うと、思わず涙がにじむことがあります。こんなことは若いときにはなかったことです。「酔泣」をしてしまうチョイ爺になったからこそわかることもある、なるほど、『木賊』は還暦過ぎないと・・・という意味がしみじみわかります。能を解るには時間がかかる、まさに実感です。
ワキは朋友・森常好氏が勤めてくれ、子方に大島伊織くんがちょうどよい年頃で、立派に勤めてくれました。そして地頭に我が師友枝昭世師、演能後に地謡を謡ってくれた従兄弟の能夫にも、そして貴重な面「木賊尉」と装束「子方長絹」を貸して下さいました観世銕之丞様、皆様に御礼と感謝の心で一杯です。
よい時期に披くことができた、と幸せな気持でこれを書きとどめました。
(平成31年3月 記)