大阪城薪能への寄稿

以下は粟谷菊生が大阪城薪能に出演したときに書いたものです。

「巴」によせて      粟 谷 菊 生

 ぼくたちにとって、能舞台というものは、三間四方に橋掛りのついた空間であり、長年、それに慣れて能を舞ってきたが、最近は能楽堂以外の場所で能が催されることもあって、たまには臨機応変に能を舞わなければならない場合もある。
 何年か前、大阪城多目的ホールの七間四方の大舞台で能が催され、照明つきの船弁慶の能を舞った経験があったが、橋掛かりを行けども行けども舞台に行きつけないのには、度肝をぬかれた思い出があった。
 綿入れの胴着の上に装束をつけるので、昔は夏には能の催しはなかったもので、装束をつけない袴能が催されたが、今日では冷房がはいるので、夏でもけっこう能の催しが多い。
 野外で催す薪能も各地で盛んだが、陽の落ちかかるころの初番の暑さは格別で、さぞ暑かろうと思うけれども、三時ごろから日傘をさして開場を待って居られる見物の人々の姿を見ると、こちらも暑いなどといってはいられない。
 今回舞う巴の能は、名人と言われた十四世喜多六平太先生も好まれ、私も大好きな曲で、これまで何回となく舞い、弟子たちにも数々舞わせてきたものだが、その体験を基にして考えると、この曲の見どころは、巴が床机に掛けての型どころ、立ち上がって長刀をふるう奮戦の場面、義仲との別れの場面など、いくつかを挙げることができるだろう。ぜひそれをとっくりと見ていただき、この曲によせるぼくの思いを知っていただきたいと思う。
 最後に、巴が落ちて行くとき、流儀によっては装束を変えないこともあるが、喜多流では後見座にくつろぎ、白水衣壺折りに替え、形見の小太刀を衣に引きかくし、笠を傾けて落ちてゆく演出となるが、その姿には、いっそう哀れ深い思いがあると思う。

絵馬によせて      粟 谷 菊 生

今日の絵馬半能(中入(なかいり)後半の部だけの演能)になっております。
後(のち)ジテは天照大神なのですから、当然、女性の筈です。他流では増(ぞう)女の面をかけるのですが、喜多流では常の絵馬というと(つまり小書なし)東江(とうこう)という面をかけて、何故か、男体として扱われております。今回は小書きで「女体」となっているので私は愛用の小面をかけ、天女(天鈿女(あめのうずめの)命(みこと))と力神(手力雄(たぢからおの)命(みこと))を従えて出ます。昔、小書なしの絵馬を演じた時、男体としてツレの天女を二人随えて出て行ったので「後ジテは手力雄命かと思った」と仰云った方がいましたが当然でしょう。演じている私自身が非常に奇異に感じたのですから。何故喜多流では男体として扱われているのか、これには諸説あるようですが定かでは無いので、ここでは申し上げない事にします。
この曲は囃子方泣かせで、一曲全部演った場合には、大小(大鼓・小鼓)共にワキの出から打ち始め、道具を下に置くことのない、そして後(のち)の出からも打ちっぱなしなのです。シテが「急」の五段の神舞(他流では中の舞)、ツレの天女が神楽(かぐら)の前半を、力神が位の極めて早く力強い後半を舞い、その上、中入後の間(あい)狂言(きょうげん)も蓬莱の島の鬼の舞があり…と息のつく暇も無い大変な曲なのです。
今回はシテの五段の神舞は三段にさせていただきます。「天の岩戸に閉じ篭もって……常闇の夜のさていつまでか」と謡う地謡に、前面に扉がついて幕を引き廻した天の岩戸を模した作り物の中に入るのですが、初番の陽の未だ落ち切らぬ夏のさ中、装束をつけて、あの狭い引き廻しの幕の囲いの中に入るのは、さぞや暑かろうと今から覚悟してます。
シテ、ツレ、三者三様の舞が見どころでしょうか。ともあれ、日本人のルーツとも云うべき天照大神の天の岩戸の故事に據るこの〈絵馬〉を今日の薪能の幕開けに楽しんでいただければ幸です。

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