明生 いつものように、今度の粟谷能の会(平成三十年三月四日)に勤める演目について話していきましょう。
能夫 今度は菊生叔父の十三回忌追善能ということになるね。早いものだね。明生君が『江口』を勤め、菊生叔父が地頭を勤めるというので張り切っていたのに、申合せの日に倒れてね。怒涛の日々。生々しく覚えていますよ。
明生 当日は命をつないでくれましたが、その三日後にはあちらの世界ですから。あまりにも急で、信じられなかったですよ。父が倒れても舞台はちゃんと勤めなければいけないし、粟谷能の会の二日後には明治神宮の薪能で、父の代演で『高砂』の仕舞を舞わなければならなくなって、もう大変でした。能夫さんも『道成寺』でしたからね。
能夫 「明日、道成寺をやってきます」と、病院の菊生叔父に挨拶して…ね。
明生 そうしてもう十三回忌。父への手向けとして、今回、私は大曲『卒都婆小町』に挑みます。能夫さんは『山姫』、復曲能ですね。
能夫 僕の『山姫』も菊生叔父への手向けになるといいね。昔から、この曲のことが気になっていて、いつか演ってみたいと思っていたんだ。喜多流は遠ざけていたけれど。
明生 遠ざけていたというのは何か理由があるのですか。
能夫 それはわからない。
明生 演能の記録は?
能夫 京都で高林吟二氏が白牛口二氏に舞わせたので、高林家には手附もあって、僕は今回その手附をいただきました。またその中には囃子方の手附もあり、大変参考になりました。それでも、六平太先生(十四世喜多流宗家)が復曲の要望があるようなことを何かに書いていますよ。そのためか、謡本も一応残っている。
明生 『山姫』というと『山姥』の間違いでは? と言われますが……。
能夫 同じ系統のものかもしれないけれど、違いますね。それに、『山姫』はそんなに昔からある能ではなく、せいぜい、江戸後期から明治前期にできたものではないかな。「山姫」というのは日本各地に伝説が残っている。だいたい山に住む美しい女ですよ。男を誘って、使うだけ使って、役に立たなくなったら捨てるみたいな恐ろしい伝説。生き血を吸って死なせたりね。山姫を象徴するものがアケビの実で、性的な意味合いもある。
明生 美しい女は恐いですね。山の美しい女に魅せられて、山奥へと引き込まれていく話というと、小説「高野聖」‐8‐を思い出します。
能夫 いろいろなことが考えられるけれど、没落したお姫様が山に潜んでいたとか、人間の女性が生気を失った姿ではないか、といったことだろうね。この話、まんが・日本昔話にもあるんですよ。山で山姫に出会って山姫が笑うのにつられて笑ってしまうと二度と山から帰れない、と言われていたという話です。能『山姫』は春夏秋冬の花盛りとか雪景色をめぐります。特別な物語らしきものは何もない。俳句のような曲ですよ。
明生 四季を表す何か作り物はあるのですか。
能夫 特にない。いたってシンプル。
明生 時間はどのくらいですか。
能夫 四十分くらいかな。一場もので、中入りもない。ワキが次第で出て「このあたりに住まいするもの」と名乗るけれど、場所は明らかにしないんだ。だから場所の設定はないが、手附を見ると山城の国常盤音戸山と書いてあるから、京都の北方ですね。だから山姫は都落ちした女性と考えてもいいのでしょうね。山の精というより、もっと雅な感じではないかな。東北や九州のほうにある伝説の「山姫」とはちょっと違います。ワキが春の花盛りを愛でていると、シテがアシライで出て一の松で止まり、「あかで見る、心を花の心とや」と謡い、ワキとの対話になります。シテは山姫と明かし、舞台に入り、やがて、ワキから「四季の眺めの有様、くわしく御物語候へ」と言われ、序・サシ・クセと、いつもの能の構成で、四季をめぐる趣向なんだ。最後は春に戻り「明けゆく春こそ久しけれ」で終わる。
明生 詞章を読んでみると、なかなかいいですね。
能夫 「匂やかに咲ける澤辺の杜若」とか「卯の花の垣根にしのぶ時鳥」、「暗き夜半にも蛍飛ぶ、影も星とや見えぬらん」とか、非常にすばらしい。最後「白波のよるかと思へば東雲の空の、……明けゆく春こそ久しけれ」と終わるのはスタンダードな感じですが。
明生 舞はどうなりますか。
能夫 太鼓入りの中之舞か序之舞かを選択できます。今回は中之舞で舞おうかなと考えています。大小物の中之舞でもいけそうです。
明生 装束をどうするかですね。
能夫 腰巻で天女の出立と書いてある。
明生 全体に天女のイメージですね。
能夫 面も「小面」か「増女」で。そんなにドロドロした内容ではないから、きれいな方が絶対いい。
明生 だいぶイメージができてきましたね。
能夫 一年前ぐらいから取り組んでいるからね。復曲能でしょ。最初から物を作るに近い感じですから、それができる喜びを感じています。新しいものにチャレンジするというのは楽しいことですよ。
明生 掘り起こす作業は楽しいものですよね。
能夫 これが僕を呼んでいたんだよ。若いときからね。今、いい環境のなかで、責任者としてやらせてもらっている、‐9‐『卒都婆小町』 シテ 粟谷菊生 平成3年3月粟谷能の会 撮影:吉越 研幸せですね。まだまだ漠然としているところもあるけれど、それはもう仕方なくて、風情を大切に割り切ってやるしかない。あまり格好ばかりつけていても、能に拒否されるような気がするしね。だから坦々と勤めますよ。
明生 それがいいですね。楽しみにしています。
能夫 ではここらで『卒都婆小町』に行こうかな。
明生 父・菊生が『卒都婆小町』を勤めたのは七十代になってから、案外遅いです。
能夫 うちの父・新太郎は演っていないからね、
明生 その代わり、新太郎伯父は老女物では『鸚鵡小町』を勤めていますね。父は『鸚鵡小町』は演らなかった。
能夫 『卒都婆小町』などの老女物は還暦過ぎてからでないとというのが、暗黙のうちにあった気がします。
『卒都婆小町』シテ 粟谷菊生 平成3年3月 粟谷能の会 撮影:吉越 研
明生 私の記憶では、実先生(喜多実・十五世喜多流宗家)がなさるときに、友枝喜久夫先生や新太郎、菊生といった当時の精鋭が地謡でしたが、当時は『卒都婆小町』を大事大事にし過ぎて、あまり演じられないものだから。慣れていない、と言うのか……。
能夫 『卒都婆小町』は老女物といってもちょっと違うからね。現在物、狂乱物ですから、老女物の入口に位置しているといっていい。『羽衣』のようにしょっちゅう出るものではないにしても、流儀として、みんながもっと経験できるようなシステムがあってもいいよね。
明生 そうですね。実先生のあとは、後藤得三先生、喜多長世先生(十六世喜多流宗家)、友枝喜久夫先生がなさいました。
能夫 先輩ではそのぐらいですか。その後、菊生叔父、友枝昭世さんが演られたね。
明生 普通、老女物は一回勤めて終わり、という方が多い中、二回、三回と再演されて、進化させていますね。
能夫 最初はオーソドックスに勤めて、再演することで、それをカスタマイズできるからね。
明生 能夫さんは平成十七年三月の粟谷能の会、新太郎伯父の七回忌追善能で『卒都婆小町』を披いていますね。父・菊生が地頭で、私もそのときに地謡で謡わせてもらい勉強になりました。そういう機会があって、だんだん自分もシテへと気持ちが向いていきます。
能夫 平成十七年三月というと、五十七歳か。‐10‐『卒都婆小町』 シテ 粟谷能夫 平成17 年3月第77 回粟谷能の会 撮影:東條 睦
明生 早かったですね。私、今度の三月は六十二歳です。本当は数年前、『卒都婆小町』を演りたいと申し出たのですが、まだ演ることがあるだろうと言われ、その時は『求塚』になりました。
能夫 今回は満を持しての挑戦になるね。『卒都婆小町』に限らずだけれど、囃子方や地謡、そういうメンバーが揃い、シテも時期が来て、みたいなものがあるからね。
明生 そうですね。今回はワキが森常好氏、囃子方は小鼓が大倉源次郎氏、大鼓が亀井広忠氏、笛を松田弘之氏にお願いしました。精鋭が揃い、いい人選になったと喜んでいます。
能夫 それにしても『卒都婆小町』は面白いよね。
明生 まだよくわかりませんが、そんなに面白いですか。
能夫 楽しいよ。すべてがね。あの気持ちのよさ。卒都婆問答のこ気味良さ、芝居心、後半の深草少将に憑依しての狂い、すべてが面白いよ。稽古の時も舞台に立った時も、すべてが楽しい。
明生 シテが習ノ次第で登場するときに、橋掛りの途中で休息する場面がありますね。そこを父は二の松のあたりで柱に手をかけて休むようにしましたね。やれやれ疲れたという時の老人の所作を、杖に体を預けるようにする人、背を後ろに反って伸びをする人もあるそうですが、父は老人を観察して、柱に手をかけるようにした。
能夫 菊生叔父の工夫だな。
明生 そうですね。その後は、舞台中央に床几を据え、床几を卒都婆と見立て、シテ(小町)がそこに腰かけると、僧に咎められて卒都婆問答が始まります。
能夫 卒都婆問答は屁理屈だけれど、咎める僧を論破してしまうんだから、気持ちいいよね。知力というか才気というか。相手は高僧だよ。それを最後は「頭を地に付けて、三度礼」させてしまうんだから。ここは権威主義的にやってもダメなんだ。ダジャレもあるし。
明生 「極楽の内ならばこそ悪しからめ、外はなにかは苦しかるべき」というシテの謡がありますが、極楽の内なら悪いだろうが外なんだからいいでしょと、この「外は」は明らかに「卒都婆」にかけたダジャレですからね。
能夫 能では笑いは起こらないけれど、クスッとなってもおかしくないところだね。‐11‐
明生 卒都婆問答で論破したあと、僧は不思議に思って、小町に「御身はいかなる人ぞ」と問い、名を名乗らせますね。このとき小町は恥ずかしそうにして、それでも「出羽の郡司、小野の良実が娘、小野の小町が成れる果てにてさむらふなり」と名乗るところ。野村四郎先生は、あそこでシテの顔がポーッと赤くなるような艶ある表情が必要だとおっしゃってますね。(ホームページ読物・ロンギの部屋「野村四郎氏と『卒都婆小町』を語る」参照。)
能夫 老女と言っても、昔美しかった人、歌詠みで知られていた人の成れの果ての恥ずかしさもあるし。その小町が僧を論破していく過程に芝居心あり、演劇性あり…。
明生 そして後半の狂い。急に深草少将が憑依して、声も変わり、「小町のもとへ通うよのう」ですからね。
能夫 小町は深草少将を九十九日も通わせておきながら袖にしてしまうけれども、それへの傷をずっと背負っているんだな。思われ続けることへの負荷ですよ。そうして年を重ねて百歳の老婆になると、あんな風になる…。
明生 深草少将の百夜通いの果てに死んでしまうところまでを演じ、こんな風に少将の怨念が憑いて自分を狂わせると言いながら、最後は「悟りの道に入ろうよ」でしょ。現在物で小町はその場ではまだ生きていて、成仏を願っているんだけれど、何だかもう向こうの世界に逝っているような錯覚に陥るんですよ。ただ成仏させて!と願えばいいのかな。でも、最後は音楽的には静まってきますからね。
『卒都婆小町』シテ 粟谷能夫 平成 17 年3月 第 77 回粟谷能の会 撮影:東條 睦
能夫 百夜通いの激しい狂いと、その後の「悟りに入ろうよ」の変化、地謡としても切り替えが必要だね。昔はただガーッと謡うだけだったけれど。ところでこの曲、もともとはかなり長い曲だったらしいね。シテの着きセリフの後にももう一段シテ謡があったらしいし、それに最後「かやうに物には狂はするぞや」のあとに、玉津島明神の使いの烏が登場して、小町を救済するような場面があったらしい。それらを世阿弥が削除して今の形にしたと言われている。
明生 狂乱したあとに、「悟りの道に入ろうよ」がどうも唐突な感じでしたが、そういう展開ならわかりやすいかも。でも簡単に救われない形にして余韻を持たせるやり方は世阿弥らしいところかもしれませんね。
能夫 烏のことや、今の形になる前の詞章など、はっきりしたことは分かっていないが、そういうことがあったらしいということは抑えておきたいね。ところで、面はどうするつもり?
明生 能夫さんは「檜垣女」でしたね。私は痩女系の「老女」で勤めたい、と思っています。芯の強さが感じられ、しかも昔の美形を背負っているような……。
能夫 老女物といっても、老女過ぎてもいけないと思う。髪も白髪ではなくごま塩ぐらいのほうがリアルさが出る。
明生 私も真っ白は似合わないと思います。
能夫 とにかく『卒都婆小町』は面白い。そこを感じて演ってくださいよ。
明生 分かりました。演って感じてみたいです。 (つづく)
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