我流『年来稽古条々』(31)?研究公演以降・その九?『歌占』『求塚』について

明生 今回は秋の粟谷能の会(平成二十四年十月十四日)で取り上げる曲目について話していきましょう。
 父・菊生の七回忌追善能です。能夫が『歌占』、私が『求塚』を勤めることになっています。

能夫 もう七回忌、早いね。追善能だから、菊生叔父の好きだった曲をやろうということだね。まあ、追善と称して大曲を勤めたいという気持ちもあるし、時間的なバランスも考えてのことだけれど。君が勤める『求塚』は、菊生叔父が、好きだったねえ。『歌占』が好きだったというのは意外に思われるかもしれないけれど。

明生 『歌占』も好きでした。現代物もやれば、切能もやる、なんでもやるオールマイティの人でしたから。

能夫 そうね。何でもやるという自負があったよね。

明生 『歌占』は舞の型がよかったですね。

能夫 技というか。地獄の曲舞なんかすごい型の連続でしょ。謡の力も考えていたかもしれないけれど、そういう技で思いを表現するというのがあったと思う。

明生 曲(クセ)はいろいろな地獄の有様を型で表現しますが、なにしろ型の切れがよく格好良く見えて憧れました。

能夫 最初の菊生叔父は白垂れではなくて、尉髪を巻き上げる『春日龍神』の前シテと同じような格好だった。尉髪をグルグル巻きにして翁烏帽子に入れ込んでしまうやり方。

明生 鏡の間で自分の顔を見て「直面は嫌だ、もう一度やり直したい」と言っていましたよ。

能夫 そう当時は直面だったよね。いつ頃の事かな。

明生 父が五十代の最初かな。

能夫 そのくらいだね。『歌占』はあまり若いころにはやらせない曲だから。相応の年にならないとできない。菊生叔父以降、直面で『歌占』をする人、見たことないなあ。

明生 『歌占』は、一度死んで三日後に蘇生するわけですが、演者の生な顔で演るより面をかける方が似合うと思いますよ。父の『歌占』が面をかけるかかけないかの境目ではなかったでしょうか。

能夫 それから『歌占』は仮面劇になったね。

明生 『歌占』はいつ演られましたか。

能夫 喜多会(昭和六十三年)で披いて、今回が二度目。白垂れで勤めたね。『歌占』といえば、やっぱり憧れがあったよ。実先生が主催された能に親しむ会で、初めて寿夫先生をゲストとしてお迎えしてね。実先生が『歌占』で、寿夫先生が『羽衣』。そのときの実先生の『歌占』がすごかった。

明生 どのようにすごいの? テンションの高さ?

能夫 そう高くてね、それに憧れたんだよ。舞の技にね。喜多流というのは型でものを表現するという指向が強いでしょ。実先生の舞の型はすごくてね。あのときの装束は流儀にある替えの装束だったね。巫(みこ)とも違う、神官とも違う、魔法使いのおばあさんみたいな設定なんだ。烏帽子も翁烏帽子ではなく 後折烏帽子で。

明生 まさに男巫という感じですかね?

能夫 そうね。あの格好は、もしかして芸能として使っているのはうちだけかも。あの実先生の舞台を観たとき、『歌占』って、目指す曲だなと思ったよ。

明生 地獄の謡や曲舞もあるし。

能夫 僕も若かったから、そういうところまでは見えていなかったけれど、とにかく格好いい、颯爽としているなって。何かお能の究極でしょ。現実にないものを見せる、生と死の極みのようなことを伝える、ああいう仕掛けは。

明生 歌舞伎役者さんが踊り中心の曲があるって言っていたけれど、この間私が勤めた『百万』などまさにそれで、狂女は止まっていないわけですよ。車の段、笹の段、法楽の舞と、ずっと舞いっぱなし、動きっぱなし。『歌占』は、男舞などの舞はないし、説明的なところもありますが、地獄の曲舞が見せ場ですね。最初は床几にかけていますが、次第に動きか活溌になり、地謡も共鳴して、わーっと謡う。こういうところが喜多流には合っているなと思いますね。

能夫 『歌占』という曲は、謡や仕舞、舞囃子を稽古していると、憧れるんだよね。要するに青年が目指す輝ける曲だったんだ。あそこに早く到達してみたいという目標だね。

明生 技術がある水準まで到達していないとできない。やりたいと言っても、腰が入っていない、シカケ・ヒラキもできない者が何を言っているんだと言われる。言われないために頑張ったというね。

能夫 技術オンリーでもだめ、思考オンリーでもだめ。両方がそろっていないと無理だと、昔から思っていた。うちでは技術的な極致とか言われるけれどね。

明生 喜多流の能楽師として芸の習得過程を山登りに例えると、第一ベースキャンプがまず『歌占』。これがきっちりと出来ていないと次のキャンプに行けない、という気がします。型を重視する喜多流ならではの意識、ここをちゃんと表現出来て、それで、次の第二ステップ、アタックキャンプに向かうわけです。

能夫 それに戯曲的にも面白いしね。

明生 世阿弥の息子、元雅の作品ですから。元雅の作品といえば『隅田川』『盛久』『弱法師』、どれも生と死を突き詰めて描いています。暗いけれど情念が燃えている。『歌占』のように、一度死んで三日で蘇生するなんてリアリティがないように見えますが、現代だって、死にそうになるなど擬似的に死を経験することはあるわけで、そういう意味では全くリアリティがないわけではない。地獄の曲舞で地獄をリアルに描いていながら、救いはないかというと、親子再会で生への希望を描いてみせる。

能夫 技だけではない、そういう戯曲も理解しないと。大
人はね…。

明生 『百万』にしても『三井寺』にしても、狂女ものは親子再会はとってつけたような感じでしょ。でも『歌占』はそうではないと思うんですよ。私も自主公演(平成十二年五月)で披いて演能レポートにも書いたのですが、『歌占』は地獄の曲舞がいいといいながらも、親子の再会をしっかりと描かないと、曲舞が希薄なものになってしまう…。

能夫 普通、狂女ものは最後に再会劇をもってきてシャンシャンとなるけれど、『歌占』は占いをしてすぐに再会させてしまう。順序が逆転しているから、面白いよね。

明生 「金土の初爻を尋ぬるに」から占ってすぐ再会です。再会で盛り上げておいて、じゃあ、地獄をお見せしましょうと曲舞に入るわけです。その次元の違いみたいなものを演じ分けないといけない。

能夫 その進行の難しさだね。

明生 さて次は『求塚』に入りましょう。父菊生の最後の『求塚』は大槻自主公演でした。

能夫 昔、梅若学院での舞台を僕は観ている。菊生叔父は結構この曲好きだったでしょう。痩女物への憧れってあるよね。

明生 痩女物は、春の『求塚』、秋は『砧』と言われていますね。今回は秋に『求塚』になってしまいましたけれど。

能夫 まあ追善だから、許してもらおうよ。

明生 私たちは地謡の充実を目指してということで、平成五年の研究公演で『求塚』をやりましたね。

能夫 友枝昭世師にシテをお願いしたね。

明生 私自身は新太郎伯父のツレをやらせてもらい、いろいろな方の地謡も謡わせていただき、諸先輩の舞台を拝見していますが、なかなか難しくて、どこを、何を狙って何をするんだというようなことが…。先日観世清和氏の舞台を拝見しました。喜多流は太鼓なしですが、観世流は後場が出端となり太鼓が入りますね。太鼓があると苦悩の激しさが強調されますね。

能夫 先人の能、他流の能も見て、研究公演で地謡を謡いと、経験を積み重ねている中から、自分の能ができてくればいいんじゃないのかな。

明生 私、『定家』をやらせていただき順番が違うかもしれませんが、自分なりの『求塚』をと思っています。父の追善ではありますが、父の通りというわけにいかない…。

能夫 それはそうだよ。教えられたものに自分なりのものを何パーセントか足していく。それができることこそ追善になると思うよ。たとえば、父たちは痩女物の足の運びは地獄の有様をいかにも剣山の上を歩む心で、いかにも大袈裟に痛い、痛いみたいな足の運びをしていたけれど、あれはやり過ぎだと思う、とかね。明生 型付通りにやる、それに対する疑問とか、そういうことは父たちの世代は許されなかったから。プレーヤーはまずコピーからだから、何も疑問をさしはさまない。でも、それは三十五とか四十歳ぐらいまで、四十歳過ぎたらコピーだけではつまらない、いけない、と思うのです。

能夫 そのためには、蓄積が必要なはずだよね。伝承ということもあるけれど、自分なりに調べたり、能動的に取り組んだりしてきた軌跡ね。

明生 全部親たちと同じことをするのではなく、かといって、全否定するわけではありませんが…。

能夫 それでいいと思うよ。ところで、『求塚』という曲は前は若菜摘む段と独白の場があり、中入りして、後は地獄めぐり。若菜を摘むところはすごくいいよね。君がためにと、何か思う人のために若菜を摘む。それは神聖な行為であるし、季節の喜びもある。雪が溶けてきて、燃え立つ春を迎え、生命の復活を思わせる。その後で苦悩を見せる、あのギャップの作りはうまいと思うよ。

明生 劇作家のうまさですね。ツレの若菜摘みの乙女が帰った後に一人残るシテ。求塚のいわれを語り始めますよね。そして「その時わらわ思うよう」と一人称になるところから場面転換が起こります。冷静にいわれを語っていたのが、自分のこととなって気持ちが高ぶってくる。

能夫 恐ろしいよね。ここで印象が変わる。技術的にも変わらなければいけないからね。

明生 心してやらないといけないですね。少し演じるイメージがわいてきました。主人公の莵名日処女は、二人の男性に愛されて、どちらとも選びえず、入水してしまうのだけれど、この主人公をどのあたりの人種とみて演じたらいいのでしょうかね。

能夫 普通の女じゃないだろうね。

明生 豪族の女?

能夫 あるいは巫女というか、そういう特殊な能力をもった人かもしれない。他県の人が取り合うわけで、同じ村の中で戦っているわけではないでしょ。だから土地の田舎娘ではないよね。巫女とか、その人を獲得することで村が繁栄するとか。懸想されるほど美人とか。何か見込まれるだけの設定がないと。

明生 それにしても、どうして菟名日乙女はあれほどの地獄の責め苦を受けなければならないのか。二人の男のどちらかを選ばなかったから? 選ぶために鴛鴦を殺す結果になったこと? 入水したことで、後に二人の男が刺し違えて死ぬことになったから? 

能夫 すべては美しすぎることが罪なんだよ。男を惑わせる罪。昔は宗教的にそう考えるところがあったと思うよ。『求塚』は煩悩と執心を凝縮して描いているんだ。だから前の早乙女が美しければ美しいほど、地獄の責め苦がリアルになって迫ってくる。

明生 だから痩女物であっても、どこか美しさをにじませるものであってほしいと思います。今、後シテの「痩女」は、私のイメージで打っていただいているところです。今回は『歌占』も『求塚』も地獄を見せるところが共通していますね。今はそう地獄をリアルに想像することがありませんが、昔は地獄をリアルに見せることで、今をよりよく生きなければということを教えたのでしょうね。

能夫 あの時代は、源信の「往生要集」から始まって、地獄がものすごくリアリティあったと思うよ。今の時代はいろいろあっても、本当の地獄を想像していないでしょ。中世は四条河原に死者が累々とした時代で、悲惨さが違う。

明生 生き死にが身近にあった時代ですよね。

能夫 地獄めぐりというのは能の本質でもあるよね。本三番目ものだって、直接地獄が描かれていなくとも、みんな地獄をめぐって、現れてくるんだからね。執心をもった人が地獄の責め苦にあっても、どうしても思いを伝えたいと、現れて訴えるんだ。

明生 能は、そういう思いをもって死んで行った人への鎮魂の芸能ですからね。

能夫 そういう意味でも、今回は、追善能として精一杯勤めたいね。

明生 七回忌というのは死後丸六年ですよね。皆様にも言われたのですが、親のありがた味が分かってくるのは五年過ぎてからだよと。それが何となくわかります。一周忌や三回忌ではまだそこまでの余裕がなかったけれど。

能夫 そう。父たちには負けたくないけれど、父たちの理屈じゃなくテンションの高さを特徴とする能も、やはり説得力があったね。でも僕は僕なりのスタイルでいきたいな。

明生 父は良いと決まるとそのスタイルを本当に変えなかったですね。装束も然り、面もいつも同じものを愛用しました。自分なりの完成パターンを確立したというのでしょうか。踏襲している。「変えなくていいの、それが良ければ」、そんな風に話していましたよ。私はだめですね。ちょこちょこ変えたがる、もっと泰然自若と、なんてご忠告を受けるのですが、この性格変わらないですよ。

能夫 それでいいんじゃないの。生きている以上は変わろうよ、進化しようよ。世阿弥も花と面白きと珍しきは同じ心と言っているよね。いつも同じではダメだと戒めている。

明生 父たちは父たち、私たちは私たちのやり方、その時代時代に適応した生き方でいいでしょう。

能夫 今回特に菊生叔父が大事にし、また好きだった曲を演るけれども、前の時代の単なるコピーではない、私たちがどう勤めるかを是非観ていただきたいですね。

明生 そうですね。頑張って勤めましょう。

(つづく)

写真 「歌占」シテ:粟谷明生 子方:粟谷尚生 撮影:石田裕
写真 「求塚」シテ:粟谷能夫 撮影:三上文規

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