我流『年来稽古条々』(26)
?研究公演以降その四?
『蝉丸』で見直す力を
粟谷 能夫
粟谷 明生
明生 第四回・研究公演で取り上げた『蝉丸』について話していきましょう。第四回の公演は平成五年十一月二十七日でした。第三回の『求塚』が五月ですから、その年は研究公演を年二回やりましたね。
能夫 すごく頑張っていたよね。
明生 『蝉丸』は二人で同じ曲に挑もうということでした。
能夫 共有しようということだね。
明生 一曲の場合、片方がシテで片方が地謡ということになると、地謡は舞台に出ないことになるから、両方が一緒に出られるものにしたいということで『蝉丸』が選ばれました。シテの逆髪を能夫さんが勤め、私がツレの蝉丸を勤めることにしましたね。ツレ蝉丸は曲名に名前があがるほど、大切な役で重く扱われています。だからシテもツレもほとんど同等の意識で演じることができますから。
能夫 僕が年上だからシテをやったというぐらいで、どちらがシテになってもいいぐらいの曲ですよ。シテとツレがほとんど同等で拮抗してよい舞台を創らなければならない曲なんだ。だから明生君も燃えていたよね。
明生 そうですね。大事に勤めたいという気持ちでした。
能夫 僕も『蝉丸』のシテは初めてだったので、同じように大事に勤めたいという気持ちがあったよね。過去のものを観て来て、自分がするときにはこういうふうにしたいということがいろいろあったから。
明生 それで、変えたことがありましたね。
能夫 今までは「花の都を立ち出て・・・」という道行の段が終わると、シテは大小前に座ってしまい、そこでツレの「第一第二の絃は・・・」という謡を聞くわけ。弟の蝉丸のすぐそばにいて声を聞いているのに、わざわざ立ち上がって遠くの常座に行き、弟との問答が始まる。それでは、姉と弟の再会が舞台進行上、おかしいでしょう。
明生 健忘斎の伝書にはどう書いてあるのですか。
能夫 その通りに書いてある。だから父も菊生叔父もみんなそのように演ってきたんだ。だけど観世流は、橋掛りにいて蝉丸の声を聞くという演出なんだよ。「花の都」の段を橋掛りで聞いて、それでだんだん距離が詰まってきて、弟の蝉丸との再会になる、このほうが自然でしょ。それで、研究公演では僕は「花の都・・・」から蝉丸が「世の中はとにもかくにも・・・」を謡い始めるまで、橋掛りの一の松に佇むことにしたんだ。
明生 そこは何とか変えられてよかったですね。でも、能夫さんはもっと変えたいことがあった。全部で四つありました。一つは今のこと、シテが大小前に座るのではなく橋掛りにいることですね。二つめは、クセの上羽の謡「たまたま言訪ふものとては」を喜多流の謡本ではシテが謡うことになっていますが、意味合いからツレが謡う方がよいということ。三つ目は蝉丸が藁屋を出るタイミング、これを早めにしたいと言われましたね。
能夫 だって再会したのだからね。藁屋の中に入りっぱなしというのは不自然でしょう。理不尽なことがいっぱいあるよね。
明生 それと四番目はツレが琵琶を弾く場面で、型として中啓を使って、琵琶を弾く風情を見せる、ということもやりたかった。いろいろやりたいことはありましたが、能夫さんは研究公演ではこの中の一つだねといいました。
能夫 そうね。『蝉丸』は初めて挑む曲でもあったし、研究公演だからといっても、どうしても変えたいというところ一つだけにして、その後につなげていこうという思いだったね。
明生 だから、研究公演では思っていることの四分の一しかできなかったわけです。でも、伝書や謡本に書かれていることや、流儀の先輩たちが演られてきたことでも、ここは理不尽だということがあれば見直していかなければ、という、そういう志しがスタートしたのだと思います。
能夫 研究公演の『蝉丸』は、見直す力が必要ということを意識し始め、それを実行に移した初めての曲であり、場であったと言っていいと思うね。
明生 その後、確か彦根での能で、友枝昭世氏がシテで能夫さんがツレ、という機会がありましたね。
能夫 そこでもっと改革しようとしたんだ。研究公演でできなかったことや、その他諸々とね…。
明生 友枝氏との相談も進んでいたのですが、友枝さんが病気になられ、出来なくなってしまったのですね。
能夫 それで急遽、菊生叔父がシテを代役することになってしまって…。菊生叔父に根本的に改革しましょう、なんて言えないし、またそのような時間もなかったので、あのときは今まで通りでやることになった。菊生叔父には言えないよな。それはそれでいいのだよ。(笑)
明生 そこでは近代型にしようとした試みはできなかった、ということですね。それから時が経ち、平成十九年に愛知県豊田市の豊田能楽堂の三月公演で能夫さんと二人で『蝉丸』という企画のお話がありまして…。能夫さんがシテで私がツレで。そのときは今度こそと、研究公演で考えていた四つのことを全部やりましたね。ツレが藁屋から出るところも序のところにして、いろいろと・・・。
能夫 ツレが藁屋から出て、お互いが身近にいるという状況を創らないとね…。再会なんだからね。
明生 研究公演から十四年もの月日が経ってしまいましたね。でもこの間に様々な試みをしてきて、よかったなと思いますよ。いろいろ苦言を呈する方もおられますが、あのときはスムーズにクレームもなく・・・。まあ、言う人をお
呼びしていなかったこともありますが…。(笑)
能夫 普通は流儀のやり方を変えるというのは大変な抵抗があるんだよ。観世寿夫さん、あれほどの人だって大変だったんだから。昭和三十六年に寿夫さんが『昭君』で新しい試みをしようとしたとき。先代の銕之亟さんがシテで、寿夫さんが地頭だった。ところが雅雪さん(寿夫さんの父)から待った!、が入ってできなかった。寿夫さんは涙を飲んで諦めたという話がある。これはもう伝説になっているぐらい有名な話だよ。それぐらい流儀の型や決まりごとを変えるのは大変なことなんだよ。
明生 それは私たちが父親にダメ出しされるのと、同じですね。
能夫 その改革ができたのが、昭和四十八年だよ。
明生 十二年後か。やっぱり改革には十年以上の歳月がかかるということなのですね。
能夫 それでも最初にどこかでカッと爪を立てるとか、そうしないと物事は変わらないということだよね。
明生 そう、どこかで爪を立てないとですね。能役者は、演出的にも演劇的にも考えて、型付を検討し、不備なところがあれば改善しようとするのが健全ですよ。ただ目先だけを変えればいいというのではないと思いますが、そういう見直す努力をする、ということが大事だと思います。
現在、当たり前にやっていることも、歴史的に見れば、高々数十年ぐらいのあいだでのこと、そこで固まってきたことかもしれないのです。だからもっと昔のことを調べていくと違うやり方をしているということもあります。
能夫 だから、親や先輩がやっていることを金科玉条のようにして真似するだけではない、見直す力が必要ということですよ。
明生 以前に能夫さんが話してくれたことがありましたね。だいぶ昔のことですが、友枝さんが新工夫をされたときに、ある人が「あれは喜多流にあるのか?」と尋ねられたら、友枝さんは「喜多流にはないかもしれないが、能にはある」と答えたと・・・。
能夫 格好いいじゃない。能にはある! これからはもっと能という大きな枠の中でやっていこうよ。
明生 そんなこともあって友枝さんは私たちがこういうふうに変えてみたいと相談すると受け止めてくれますよね
能夫 友枝さんは見直すこと、新しいこと、改革すること、そういうことを許容する懐の広さがあるよね。こうやりたいと僕らがいうと、それはいいけれど、こういう問題があるよと、細かな指摘もしてくれたり、そういう意図ならば全面的にやってみろ、と言ってくれたりね。そして僕らがやったことを見て、どうだったということも言ってくれる。ご自身も声高には言わないけれど、ちゃんと改革というか冒険をやっておられるよね。先日の『江口』だって、普通はワキのサシコエが終わるときに、シテが呼びかけるのを、、そこにアシライ笛を入れて、心象風景を共有しているところに、遊女・江口(シテ)がふっと現れるようにされました。新工夫ですよ。
明生 私も、友枝師に『江口』の稽古を受けたとき、「のう、のう」とただ呼びかけで出るのではなく、ワキが西行の歌を詠じはじめると、シテが三の松あたりにすっと現れ、歌をそっと聞いている、その風情を観客に見せるというのは、どうですか、と申し上げたら、それいいじゃない、と言って下さいまして。『半蔀』の「立花」のときも、川瀬敏郎さのお花が舞台の中央前方に出ているわけですから、「いつもの位置取りや型をすこし替えていいですか?」とお聞きすると、「今日はお花が半分主役だからね。そうした方がいいよ」というように心に響く、やる気が出る言葉で返して下さいますから。
能夫 そういうことだよね。『半蔀』といえば、寿夫先生の印象に残る言葉があるよ。潗の会で浅井(文義)君が稽古しているときのこと。先生が「ワキが夕顔の花をイメージしたときに、シテはふっとワキのイメージの中に入っていく」そう言われたんだ。僕がワキが謡っているときになぜシテがアシライのように出てくるのか?と質問したときの答えだった。ワキの作っている世界にシテが入っていくということで、ただお囃子の手組だけの対応では絶対できないということなんだ。
明生 私たちはただアシライ笛に合わせて、コイ合いくつ、としか考えていませんでしたからね。ワキがどのような対応で動いているかなどと、正直以前はあまり考えていませんでしたよ。
能夫 そうでしょう。舞台というのは役者と役者のかかわりで創っていくものでしょ。アシライ笛だってそのためにあるんだよね。アシライがあるからそれに合わせて出るのではなく、むしろ舞台全体を創るためにアシライがある。考え方が逆転しているわけ。そういうことを、あの時代、僕は二十代後半だったから全然わからなかったけれど。
でもその話を聞いたことが僕にとっては画期的なことだったね。
明生 そういういい話を次の世代へどうつなげるかですね。私自身もそう見ていないし、今、寿夫さんの素晴らしさを知る人が少なくなっていますからね。
能夫 それからね、『葛城』についても思い出があるよ。寿夫先生に今度は何をするのと聞かれて、『葛城』と答えたら、『葛城』は面白いよ、普通の世界じゃない、神様の世界を描いているあたりが面白い、音曲的にもこんなに面白いものはないというようなことを言われたんだ。そのころ僕は、『葛城』という曲に対し明確なイメージをもてなくて迷っていたが、先生の一言により道がばっとひらけて、やる気がわいてきましたよ。
明生 『三輪』とか『葛城』は不思議な能ですよね。人間的でもあり神的でもあり、両方備えている…。
能夫 それを寿夫さんは指摘されたんだな。そういう意識で能を創っているんだ。寿夫さんの能の成り立ち、美しさ、それはそういうところの意識の違いにあるんだと感じた。「じゃあ、頑張ってやります」なんて僕も言ってね。ずいぶん励まされました。この二つのことは、寿夫さんと直接言葉を交わして影響を受けたこと、忘れられないね。ああいうすごい方と命を共にしたというか、同じ時間を呼吸できたということは嬉しいことですよ。
明生 能夫さんは寿夫さんのお能の見方に影響を受けて、自分のやっている能を見直そうと・・・。もちろん単純に右回りしていたのを左回りにしてみるかということでなく、この能にこれが必然だということをよく考えてですね。
能夫 右回りのことで一つ思い出したよ。中入りは普通、右回りして常座で正面を向いて「失せにけり」とかになるでしょ。右回りというのは、正面から中正面、脇正面まで、全部の観客の視線に演者の身をさらすわけですよ。そこになにかキュッと凝縮したものが必要だよね。それを静夫先生(先代・観世銕之亟先生)は「凝固」とか「凝結」という言葉で説明された。凝固だと石になってしまうから、違うかな。「凝結」だね。「失せにけり」だから生身の人間はそこにはいない感じで凝結している、でも内燃機関は静かに燃えているみたいな・・・ね。
明生 中入り前の右回りも、そう言われると意識が違ってきますね。
能夫 そうでしょ。そう考えると、お能って本当に面白い。こんなふうに何気なくやっていることも見直す力が絶対必要だということですよ。流儀とかでなくて、曲に対して、能に対してどうなんだということをやっていかないとね。
明生 お能って本当に面白い、と素直に理解出来るのは、もしかすると演じている者だけかな…なんて、こんな事をいうと観客の方々に叱られるかな。とにかく、友枝さんがおっしゃった、「流儀にはなくても能にある!」ですよね。能を生かすには?ということを追求していかなければいけませんね。
というわけで、研究公演の『蝉丸』は我々が能を見直す最初の曲になったということですね。以来、いろいろ見直しをやってきました。そして今度の研究公演、平成二十二年十二月に『檜垣』を計画したのも、その心意気ですよね。シテを友枝昭世氏にお願いして、我々が地謡を謡います。是非期待していただきたいと思います。
(つづく)
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