我流『年来稽古条々』(25)

我流『年来稽古条々』(25)

??研究公演以降・その三

  『求塚』で地謡の充実

明生 第三回の研究公演では、『求塚』を取り上げ、地謡の充実をテーマに取り組みました。友枝昭世師にシテをお願いし、我々は地謡を勤めたわけです。それがメインで、私は『松風』の舞囃子、能夫さんが『知章』の仕舞、父は『谷行』の素抱という珍しい小書の仕舞を舞ってくれて、石田幸雄さんに狂言『抜殻』という番組構成でした。平成五年五月、もう十六年前ですよ。あのころ地謡の充実を、と考え企画したわけですが…。

能夫 自分たちが主催する会で、シテをやらずに地謡を謡います! なんていう人は、それまでいなかったよね。

明生 一番でも多く舞いたいと思うからこそ、苦労して会を主催するわけですから、普通はありえない。地謡にまわって、シテをしないことは、一回舞うチャンスをつぶすことですからね。それを敢えて能夫さんはやろうとした。成果はどうあれ、地謡の充実を掲げることに意義があるとしたことに間違いはなかったと思いますが、自画自賛かな?

能夫 シテがどんなに舞台で頑張っても、地謡が充実していなければ、その作品は成立しない。シテと地謡をどうつなげていくか、そういうことが肝腎なんだ。
僕は、喜多流の能楽師はシテを勤めるのはもちろんだけれど、物着せから地謡、後見、すべてができる、オールマイティの人間であるべきと思っているんだ。シテを舞っているときでも、地謡や装束付けの苦労がわかり、対応できる人材でなければいけない。すべての面でオールマイティなのが能楽師だ、とずっと思っていたからね。シテを舞っていれば楽しいけれど、それだけではない、あらゆる経験をしたいと。それで、自分たちが主催する会だったら何から何まで自分たちで設営できるからね。それでこういう趣旨の会を研究公演でやりたいと提案したのさ。

明生 舞がない、謡だけで勝負する曲。能夫さんが『求塚』という大曲に挑もうと決められて、よい選曲でしたね。痩女物の春の代表曲で、そう頻繁に出る曲ではないし、友枝さんは初演でしたが、我々が謡いますから…と無理にお願いして。当時父は「一番でも多く舞ったほうがいいのに、お前らは何を考えているんだ」と、憤懣気味でしたが…。

能夫 それは菊生叔父とすると、「俺がいるじゃないか!」なんだろうね。(笑い)

明生 それで能夫さんがコンコンと説明してね。今は菊生叔父ちゃんがいらっしゃいますよ。だけどそのうち…いなくなるわけですから、次のことを考え、地謡がしっかり謡える人材を作っておかなければいけないんじゃないですか?・・・と。残念ですが、今そうなってしまいましたね。

能夫 それは仕方ないこと、自然なんだ、当たり前のことで、次のことが見えてこなければいけないでしょう。菊生叔父だって地謡の重要性はわかっていて、晩年はとくにそのことを主張していたからね。当時、菊生叔父は元気で地頭を頑張っていて、喜多流の能を支えてくれていたけれど、将来は我々にそれを託したい気持ちはあったと思うよ。

明生 謡が大事、と盛んに言っていましたね。

能夫 研究公演の『求塚』では、まわりが全部先輩だったよね。大鼓の柿原崇志さん、小鼓の北村治さん、笛は一噌仙幸さん、脇は宝生 閑さん。いろいろと経験をされてきた人の知恵や力を拝借して謡ったという感じだったね。僕らが新たなものを創るというよりは、伝統的というか・・・。

明生 経験者のお力を借りて学ぶという・・・。

能夫 そう、お力を借りながら、自分も何か表現したいなという気持ちはあったと思う。観世寿夫さんの『求塚』の連続写真があるけれど、そこで打たれているのは北村治さんだからね。そういう経験をされた方々と対峙して謡いたいと思ったよ。あのとき、治さんから「死ぬ気で謡え」って言われたよね。こっちは精一杯謡っているのに。でも甘かったのかもしれないね。囃子方の経験に対して僕らなりの主張したい謡い方と、舞台上でのキャッチボールはあったことは確かだね。そういう囃子方とのぶつかり合いが大切で、それがないといけないだろうね。

明生 あのとき、地謡の充実を掲げてやった体験が、このごろ舞台で少しですが活かせるようになったかな、と思っています。この間、『須磨源氏』(青年能)の地頭を勤めて…。『須磨源氏』はシテを勤めたことがありますから、自分なりの舞台展開が見えてくる、すると自然と謡い方も変わってきます。

能夫 そう違ってくるね。経験は大事だよね。

明生 位取り、乗り具合、音の高低など、ある程度自信を持って主張できるのです。そうすると、その能のドラマを支えているのは、シテだけではなくて地謡の底力だということが、だんだん肌で感じられてきます。地謡は作品全体を包み込むような力を持たないといけない・・・と。
以前はただ頭で考えていただけで、体感出来ていなかったかもしれないのです。もっとも地謡の前列で謡うだけでは深いところの体感は難しく、やはり後列や地頭で謡うと責任感も環境も全然違ってきますから。

能夫 そうだよね。本当に地謡の大切さがわかるよね。

明生 それも、ある時期に「地謡の充実」を意識したからこそ大切さがひしひし感じられるのだと思います。
その後、私は『求塚』を披いていないのですが、能夫さんは平成十二年の粟谷能の会で演られましたね。地謡を謡い込んで舞うのと、そうでない場合の違いはどうですか?

能夫 うーん、それはね。あのとき地頭をやらせてもらったからできたことがすごくある気がする。後シテの「飛魄飛び去る目の前に」とか「鴛鴦の鉄鳥となってくろがねの」のあたり、親父たちのやり方は、テクニック的にはテンション高くすごいけれど、あまりその情景が立ち上がってこなかったような気がしてね。もっともそれはそれで素晴らしさはあったと思うけれど、そこに描かれているリアリティが欠如しているように感じたんだ。それに対して、友枝昭世さんは最新型を見せてくれる人でしょう。実先生、友枝喜久夫さん、父新太郎、菊生叔父が演っていた『求塚』の像があるとすると、昭世さんはそういうものはわかっているが、だけど自分はこのようにしたい、と最新型を示してくれる。

明生 最新型ですね、今風に変える力というか、今まで見落としてきたものに光をあてる、そういうお能創りですね。

能夫 今まではこうだったけれど、自分はこうやりたいという主張がある。親父たちには無かったもの。ただテンション高くやりましょうみたいな。それで素晴らしい面もあるんだけれどね(笑い)。僕はそういうものと違うやり方をしたいなと思っていたんだ。
 そのお能のなかにどういうことが描かれていて、だからこういう表現になるというのでなければならないと思う。右向けと言われたから右向くというのではなくて、どうして右を向くのかを意識する。たとえば「風の行方をご覧ぜよ」で、型付に目付柱の方を見ると書いてあるから、そこを見る、それだけでは伝わらないよ。リアリティが無いじゃない、芝居心がないでしょ。風の行方を見る、風がふーっと通っていく、それに合わせて顔を動かす、とやらなければ。謡にしても、抑揚とかテンションだけでなく、一つ一つの言葉の意味を感じ表現しなければ・・・、そういう親父たちとの落差をとても感じた。
研究公演では『求塚』に関して、こうしてくださいと友枝さんに言えるほどの立場でもなかったし、そこまで自分も掘り下げていなかったけれど、そういうことは感じたね。だから次に、自分が勤めるときは、そのときに感じた経験が生かされたと思うよ。

明生 このことは、能夫さんが憧れた観世寿夫さんが目指したこととも通じますね。

能夫 そうね。何もしていないけれどある意味格好よくやってしまう親父たちの芸風と、寿夫さんたちのようにある主張もって表現していくという、僕は両方を観てきたから。

明生 友枝昭世さんも両方を観てこられて、自分はこうやりたい!をはっきり主張なさる。私はそこからいろいろ学ばせてもらうことが多いです。
私はまだ『求塚』を勤めていませんが、実は平成十年の大槻自主公演で、父に、「明生、いざとなったら舞えるようにしておいておくれ」と言われて代演のための稽古を受けました。そのとき研究公演での経験が助けになりました。結局、父は無事に勤めて、幸雄叔父が地頭で、能夫さんが副地頭、私も隣で謡わせてもらいましたが、研究公演の経験があったから、自分なりに自信を持って謡えました。大槻公演の客演という場で観客はもちろんのこと関西の三役の方も、喜多流の『求塚』とはどんなものなのか、興味を持たれていたとひしひしと感じました。私たちの地謡はこう、と自信を持って謡えたと思います。謡の重要性を意識した研究公演の『求塚』の経験が活かされている。だからこれからもどんどん意識してやっていきたいですね。
話はずれますが、『望月』のシテを勤めたあと、能夫さんに謡をもっと意識しなければ、と注意されましたね。『望月』は、ほとんどが科白、言葉ですから、正直、謡への意識がありませんでした。以前、故観世銕之亟先生に「ノリ地は語るように、科白はノリを意識して」と教えていただいたこともありました…。

能夫 語りというと、語りの調子があるけれど、そこに留まると謡がひと色になるということなんだろうな。僕もそういう謡をと、意識しているよ。

明生 「勁き花」(八世観世銕之亟遺稿集)に、銕之亟先生が「集団としての個性とは、個としての能役者の現代に生きる自覚と舞台に立てる役者としての身体とが稽古によって一人一人に培われてこそ、素朴な手織りの確かな舞台が出来、そのときにこそ発揮されるもの…本当の集団とは個々間に強い抵抗が在りながら一つの目的を共有する…」とありましたが、本当に今そう思います。

能夫 そうだね。個の力だよ。謡を大事に、個の充実。僕らが地謡の充実を目指しはじめたとき、周りの人は何か回り道をしているように思っていたかもしれないが…。

明生 それは回り道でなくて、通過しなければいけない道なのではないでしょうか。

能夫 長期的な視野に立つことって大事でしょ。

明生 そうですね。そして、ただ謡だけ充実すれば完璧かというとこれも片手落ちでして…。やはりたくさん舞う機会を作ることも必要で、『須磨源氏』で経験したように、シテを経験したからこそ謡える世界って、ありますから。シテと地謡、双方バランスよくが一番で、それが本物への近道です。だから極端はいけないかもしれないけれど。

能夫 もちろん両面が必要だけれど、今、喜多流全体としてみたとき、謡の重要性への認識を高めることが大事だと思うよ。謡への意識が希薄でしょう? その指針みたいなものがないよね。

明生 タイムズの対談で、梅若玄祥さんが、地謡は大事です、しかしその育成となると…と危惧しておられましたが、謡の育成というのは能楽界全体の問題でもあるようですね。他流のことは判らないので別として、喜多流として、そろそろ指導・育成の方法論を再考しないといけないと思います。間違えずに拍子をはずさない、だけではなく、謡の内容を深く知り、節扱いももっと細かく知ること…。どうも 喜多流は武士的なニュアンスが強く、竹をスパッと割ったような謡、とやや曖昧な言葉に甘えているように思えてなりません。それは教える方も教わるほうにも…。

能夫 そうだね。たとえば『班女』だったら「翠帳紅閨に枕を並ぶる床の上・・・」をどう謡うか。愛し合っていたときのことを思い出しながら、今は失われた恋を謡うわけでしょう。それを、下音はこの音、節はこう扱って、だけでは謡えないでしょう。

明生 『千寿』で「琴を枕の短か夜のうたた寝、夢もほどなく・・・明け渡る空の…」、抱き合って一夜を過ごし、夜が明ければ別れなければならない、その状況をどう謡うか。そのためには、もちろん経験も大事(笑い)、それから千寿と重衡がどういう間柄で、どういう生き方をしたか、その背景が身体を通して謡えるようにならないと…。

能夫 千寿はもともと頼朝の愛人でしょ。捕虜になった重衡が都に送還されるとき、慰めのために遣わされるわけで、それが恋をしてしまうのだから、複雑だよね、そう簡単には謡えないよね。

明生 そのあたりは、謡本だけでなく、平家物語にも目を通す。深い事情や、意味を知っているのと、そうでないのでは、謡の聞こえ方に違いが出てくると思います。詞章の読みも、能全体に描かれたことの読みも深く深くですね。

能夫 そう。だから源氏物語も読まなければならないし、伊勢物語も読まなければいけないわけなんだろうね。それと、他流はどういう表現をしているかとか、もっと広く音楽や演劇の世界にも関心をもってもいいよね。

明生 そういうことを意識して、早いうちから蓄積して、もちろん謡の技法の徹底した学習も伴っていかないと…、将来、間に合わないかもしれませんからね。

能夫 志と経験と外への関心、こういうことが必要だね。

明生 そういう意味では、地謡の充実を掲げた研究公演は、若い私たちに志があったと自負出来ますね。

能夫 そうだね。

明生 その後、平成十七年に研究公演を復活して、『木賊』(シテ・友枝昭世)で地謡の充実に再度取り組みまして…。

能夫 そして来年の十二月に、同じ趣旨で『檜垣』を友枝昭世さんにお願いし研究公演で取り組むことになったね。

明生 我々は地謡の大事さを意識して、微力ながらも、そこを確認する作業はやり続けていきたいですから・・・。

能夫 微力ながらも実践して、みんなもそれを目指そうよというメッセージを込めてね。

明生 十六年前の『求塚』がその原点になったといえますね。

(つづく)

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