異次元への飛翔

異次元への飛翔
粟谷 能夫


 面をかけて初めて舞台に立ったのは、十代半ばのころ、『小鍛冶』のシテを演じた時だったと思います。鏡の間で面をかけた時、全身が燃えるような熱さを感じたことが鮮烈な印象となっています。
 父、新太郎の影響で身近に面に親しんで育ったせいか、憧れが強かったことも確かで、面は能の舞台に欠かせないものという認識が無意識のうちにでき上がっていたのでしょう。面をかけない直面の曲も何番が勤めてきましたが、何ともやりにくさを感じています。
 仕舞や舞囃子のように紋付袴で舞う時に違和感がないのは、紋付袴が衣装以前の肉体の一部に近いものという感覚があるからかもしれません。それに対して、装束をつけた時に面をかけないと、顔だけが現次元のまま取り残されてしまっているようで、非常に恥ずかしさを覚えます。多分照れ屋の性格も手伝っているのでしょう。
 面は現在から異次元へ容易に自らの概念を移すきっかけともなります。そして能の舞台を通して何かを表現する時に、その根底には、紛れもなく自分自身があって、面をかけるということは、舞台で演技するための個を確立させる最後の仕上げであると思います。面は肉体及び精神行き来出来る通路であるのでしょう。
先日蝋燭能で『通盛』を勤めました。見所は真っ暗で、舞台はわずかな照明とろうそくのゆらめく明かりで薄暗く幻想的な雰囲気です。揚げ幕を上げ橋掛りを歩いている時、闇の中にうっすらとある舞台空間へ引き込まれるような感じがしました。闇の持つ力なのかもしれません。いつもは舞台空間を押しながら出るといった感じなのですが、面から見える明暗の違いで、このような体験をするとは思いませんでした。
僕にとりましては、能を糧として、咀嚼し、血肉化し、そして体現していくという作業が生活そのもので、それに値するだけ能はすばらしいものと信じています。
 たた、舞台づくりはそう簡単ではありません。技術的な部分はある程度稽古から得ていくことができますが、その上でいかに表現するかは感性に関わってきます。同時に伝統芸術とはいっても、今生きている人々に訴えるものを自分が持っているのかということもあります。
 能へのたゆみない挑戦、あるいは面を通してなら何かが見えてくるかもしれない、そんなことを思いながら、今後も自分なりの舞台づくりに取り組んでいくつもりです。

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