人間の心と芸術
粟谷能夫
厳島神社の能舞台は海の中に建っているので有名ですが、昼と夜とではまったく違った顔を見せます。大自然の光を浴び、満潮の折など輝くばかりです。漆黒の闇に閉ざされた夜は、水面に当てられた照明を受け舞台がかげろうのようにゆらぎ、ひたひたと満ちてくる潮騒の音が風と共にわき上がり、幻想的な空間となるのです。そして廻廊の上の天空の月はすべてを見守っているかのようです。
ふと目に入った月を眺めていると、囃子方のお調べの音が流れて来ました。月は私達の心を何か誘い出す力を持っているようです。そして誘い出された心に忍び寄る笛、鼓の音色は更に深く月の夜の興味を味あわせてくれます。時の流れを闇の彼方に押し包んで昔に変わらぬ月の光を仰ぐ時など、江口の「月は昔にかわらめや」という一節が心に響いて、私達にも又、古き人の心がよみがえって来るのです。私たちが能を演ずるということは時代の流れを越えて昔の人と共通の場に立つことであり、日本人共通の深さにまで戻ることでしょう。そしてそこには単なる情緒的美しさではない、仏教を通して培われて来た文化が宿されているのです。
一個の人間を考えれば、皆感情を持っており、心の起伏に翻弄され生きていきます。様々な心の不合理にぶつかり、押しつぶされそうになりながら、そうして人生を全うするのです。その荒波こそ人間形成の源です。
芸術と人間社会との関係について、各分野の方が語っていますが、劇作家ブレヒトは次のように述べております。
「人間らしさが破壊されてしまったら芸術もくそもありません。美しい言葉を綴り合わせることが芸術ではありません。芸術自身が人間の様々な運命に動かされなかったら、どうして芸術が人間を動かせましょう」
能を古典芸能として認識するだけでなく、現代に生きている役者として演じることが重要です。観客も現代の人ですから、ただ型どおりではなく、現代人に照らして、曲の主題や、シテ役の心情に対する想いと一緒に演じます。能は舞台装置も少なく、場面設定も分かりにくい不親切な芸能ですが、その分観る側に自由な想像が許され、役者の発する言葉や演技、それぞれ自身の人生観や感覚に裏打ちされた受け止め方が出来ます。
一瞬にして消えてしまう印象芸術である能は、観客と共に、広く言えば人間の心に、根ざさなければ生き残れないと思っています。
写真 石橋 シテ 粟谷能夫
(平成19年10月14日 粟谷能の会 撮影 吉越 研)
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