鼎談
粟谷菊生を偲ぶ その一
粟谷 能夫
粟谷 明生
笠井 賢一
明生 今号は粟谷菊生の追悼号ということですから、「我流年来稽古条々」は次号にかけて、阿吽発起人の笠井さんにも加わっていただき、菊生を偲ぶ鼎談義としたいと思います。
笠井 菊生さんという方は、年齢を重ねるほどに独自の持ち味を発揮されましたね。この阿吽の最後の文章「写真集と弔辞」(22号)も粋じゃないですか。写真集に寄せられた各氏の文章を読んで感激し、これをそのまま弔辞にしてほしいと思った、生きているうちに手向けの言葉をいただけるなんて、何と幸せかという語り口ね。飄逸というか、何ともいえないユーモアがあって。自分で追悼のことまで言ってね。
能夫 すべて自分でやって、さいならって逝った感じ。
笠井 まさにそう。功なり名遂げたというか・・・。
能夫 倒れる二日前に、NHKで『頼政』の番囃子を元気で録音したんだからね。
明生 録音の経緯は、NHKの方から、菊生先生の謡を記録として録音しておきたいという電話がありまして。
笠井 最初は放送予定なしだったの。
明生 そうです。私が「故人を偲ぶ」といういざというとき用のものでしょうとちょっとふざけて言いましたら電話口で笑っていらした。曲や配役はすべてお任せします、一番お気に入りで、ということでしたので父に相談しました。父は『頼政』だなと即答して、ワキは閑ちゃん(宝生閑氏)、アイもあるから太良ちゃん(野村萬氏)、笛は仙ちゃん(一噌仙幸氏)、とどんどん配役を決めていきました。父と親しかった方が顔をそろえて下さり無事録音は終了しました。その二日後に倒れて、一週間ほどで亡くなるのです。ですから。放送は本当に「故人を偲ぶ」になってしまいました。
能夫 だから全部段取りして逝ったようなものだね。写真集を出すのもそうでしょ。最初、僕たちが勧めたときは嫌だといっていたんだよね。
明生 父は写真集などで俺の能のすべてが表現出来るわけないだろう、と記録として残してほしい私たちの思いには少し抵抗していました。パッと、花火のようにそのとき輝けばいいの、という・・・、まさに生き様がそうでしたが。ですから、あの写真集を発刊された鳥居明雄さんには本当に感謝しています。鳥居さんは、私が出したいのです、先生は許可して下さればいいのです、売る必要もないし何もすることはありません、と父を説得なさって。結局、出来上がって一番喜んでいるのは本人じゃないのって、母が言っていました。
笠井 結局、菊生さんはおいくつでしたか。
明生 八十三歳。十月三十一日が誕生日ですから、もう少し頑張ってくれたら八十四歳になるところでした。欲を言えば、倒れるのをあと四日遅くして、粟谷能の会が終わってからなら・・・。でも何とか会の日を生きてくれたから、よかったです。頑張ってくれたのだと思います。
能夫 粟谷能の会は益二郎五十回忌追善能ですからね、頑張ってくださいよと言って、本人もその気だったよ。
笠井 プログラムにも菊生さんの思いが書かれているね。それを読むとちょっとたまらないな。
能夫 たまらないですよ。
明生 約束破りですよ。でも人間、完璧はないですから。
笠井 舞台には立てなかったけれど、五十回忌追善能への意気込みがああいう形で残っているのはいいことで、何ともいえず魅力ですよ。益二郎さんは『烏頭』の舞台で倒れ、菊生さんもそのようにありたいという舞台人魂みたいなものがあったわけでしょ。五、六日入院したけど、まさにその通りの燃焼し尽くした舞台人生でした。そして葬儀のときにあの笑顔(遺影)でしょ。あれを見たらみんなああいう風に生きたいと思いますよ。
能夫 菊生叔父は何回も入院して修羅場を潜り抜けているでしょ。その度に復活して元気な姿を見せてくれていたから、誰もがこんなに早く逝くとは思っていなかった・・・。でも叔父ちゃんらしいね。走って走って、バタッと倒れて。その前に全部やることやって・・・。
笠井 理想的だよ。男の本懐だよ。
明生 葬儀も多くの人のお骨折りをいただいて、日本能楽会と粟谷家の合同葬儀にしていただき、多くの人がご弔問に来てくださって、ありがたいことでした。普通は合同葬なんてありえないことですから。
能夫 現役の日本能楽会長だったから。そうでなければありえない。お手伝いの人も菊生さんのためにと自然と集まったね。人柄だよ、徳だよって、野村四郎さんも言われてたよ。
明生 父は人が好きで、にぎやかなことが好きだったから、喜んでくれたと思いますよ。
笠井 僕が初めて菊生さんの能を観たのは、広島での反核と平和のための能の会で、『黒塚』でした。もう二十数年前のことです。それは観世流とか他の流儀にないものでした。ズカッとした大きさ、スケール感があった。こざかしさがなくて、ああいう表現というのはすごいなと思った。その後別の曲もいろいろ観て行くと『班女』などはあのかわいさでしょ。そして晩年になるほどに、謡の味わいが深まって、粟谷能の会や喜多流の地謡を支えたというのは、ものすごい業績だと思いますよ。
能夫 それはそう。僕たちはずっと菊叔父ちゃんに寄りかかっていたもの。若い頃、僕は寿夫イズムだったから、新太郎や菊生の謡い方は嫌だなと反発しながら、それでも隣に座らせてもらって、それはそれで一つの喜びでした。本当に僕なんか、自分なりの「こうあるべし」でやってきたつもりだったけど、お釈迦様の掌で孫悟空が飛び回っているようなものだったんだね。それでも、最初から父や菊生叔父に右習いだったら、今のような関係にはならなかっただろうし。ぶつかり合いながらいいものができてきたのではないかと、勝手に思っていますよ。
明生 反発していても、知らず知らずに教わり洗脳されているのでしょうね。最近、はっと、あっ、これ父だと思うことがありますから。
能夫 ある年齢になって、素人会などで地方に連れて行ってもらうでしょ。それで一緒に謡ったり飲み会に出たりするうちに、叔父ちゃんはこう謡っているというのが徐々に、ジワジワと僕らの体に入ってくるんだよね。
明生 そうですね。地方で全然知らないお弟子さんが近寄って来て握手させられて、「今日のは粟谷の節ですな」などと言われると、次の会では「粟谷の節というのはね・・・」などとしゃべっている自分がいたりするわけですよ(笑い)。
能夫 そういうことで鍛えられたというかね。とにかく菊生叔父の隣で地謡を謡うのは楽しかった・・・。
笠井 菊生さんという人は地謡を楽しんだ人だったね。これはすごく大事なことですよ。それは寿夫さんもそうだったし、先代銕之亟さんもそうでした。能で一番大切なことだから。
明生 父はそういう思いで謡っていたと思います。晩年は謡での評価が多くなって喜んでいましたが、たまに能を舞っていた身体が利いたときのことも評価してほしいよ、とこぼしていましたが。これは内緒にしておいた方が・・・。父は能に好き嫌いはありませんでしたが、中でも現在物が大好きで、特に『安宅』、『満仲』はお得意で何度も勤め、大曲『正尊』も披いています、人が演らない曲も嫌がらずに勤め、俺の能はこれだ!というスタイルと自負があったように思います。益二郎は六平太先生の名地頭とばかり言われてきましたが、父は親父の能はすばらしかったんだ、『羽衣』の最後、スーッと消えていくところなどきれいなんだよと、何度も話していました。そして自分も、『弱法師』などは身体が冴えて杖扱いも巧みなときは取り上げないで、動けなくなったら地謡のことばかり、と愚痴っぽく私には漏らしたこともありました。
笠井 菊生さんの舞台人としての評価は、もちろん謡だけでなく、舞っているところの評価もしかるべきものがあると思う。でも、僕は体が動くときの芸というのは何ほどのものかと思うんだ。京舞の先代井上八千代さんは四十代後半で人間国宝になった破格の人です。その頃の『長刀八島』の映像が残っていて、それは技が切れて実によく動いていますが、今見てそれほど感動しない。それより、七十代、八十代の体が動かなくなったときの八千代さんの方がずっと存在感があり深い表現力があっていいんですよ。つまり、四十代で技が冴えた人が七十代、八十代、年を経て動けなくなったときにもたらす豊かさというのは何にも代えがたいものがあるんですよ。菊生さんという人はそういう芸の人だったと思います。それにプラスして謡の感性がある人だったということですよ。
能夫 それはいえるね。僕は十年、二十年、三十年と地謡で菊生叔父の隣に座って、いただいてきたものがあるから、それをこれから発揮しないといけないと思っている。菊生叔父の死は、単に一人の爺いがいなくなったということではなく、粟谷能の会としても、喜多流としても、地謡を謡える貴重な戦力を失ったということですよ。そういう認識をして、これから残されたものが頑張らないとね。
明生 本当に、これは流儀の活動としては、とても打撃をうけ痛いことですよ。益二郎が亡くなったとき、新太郎と菊生が追善能をやって、粟谷兄弟能を作り、我々にもレールを敷いてくれました。今度は、その保護者がいなくなって、本当に我々が中心になってしっかりやらなければ、もう一度スイッチを自分たちで入れ直せよ、と言われているとすごく感じています。
笠井 そういう意味では下地はできてきたし、そうやっていくことが供養になるということでしょう。(次号へつづく)
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