百拾五曲
粟谷菊生
先代梅若六郎先生は、『輪蔵』のシテ一曲だけを残して全曲を舞われたと聞く。自分の能を振り返ってみると百拾五曲勤めている。しかし、その中で圧倒的に多いのは二番目物、四番目物、キリ能だ。好きなのに比較的少ないのが三番目物。友枝喜久夫先輩、兄新太郎の存命中は春秋会、果水会、鼎の会など演能の催しがしばしばあったが、三番目物は二人の先輩が優先的にお取りになってしまう。そのお蔭で人のやりたがらない曲、例えば『羅生門』などを勤めさせて頂くことにもなり、これは良い経験だったと思う。
甥や息子たちから、また同じ曲を演(や)るのかとよく言われたけれど、その曲が好きなだけでなく、リクエストされるからだ。『景清』『鬼界島』『頼政』『藤戸』『隅田川』『羽衣』などはそのよい例だ。『羽衣』などは何回舞っているか判らない。頼まれれば嫌といえない性質(たち)でなんでもお引き受けしてしまうと言いながら、何回頼まれても演らなかったものが一つある。それは『翁』だ。自分が選ぶとつい、好きな曲ばかりになってしまうが、その最たるものが『羽衣』で『班女』も好き。勿論、『湯谷』『松風』も好きなのだが、二人の先輩亡きあと、自分の好みの地を謡って貰える後輩の成長を待っていたこともあって、三番目物の上演回数は意外に少ない。『富士太鼓』『天鼓』『融』『烏頭』『鉢木』など好きな曲の多い中で、NHKで放映された最後の能は、自分にとってはやはり『景清』と希望したが、諸般の事情で『大江山』になってしまった。
こうしてみると、まだまだ舞残している曲はあるけれど、喜多流に長い間、あまり演能されていなかった『梅枝』は僕が舞ってから後輩がよく演能曲目の中に入れるようになったし、喜多流で二百年位誰も舞っていなかった『伯母捨』を自分が久々に勤められた事で自分としては満足に思っている。因みに老女物を喜多流ではあまりに大事にしすぎて高齢になってからでないと勤めさせて貰えなかったが、老女物だから老人になってからでないと、というものではない。老女物は非常に体力が要る。故に壮年に一度体験しておいて、人生のいろいろな「おもい」を味わってから、後年、もう一度演じてみると、本当のよい結果が出るのではないかと思う。身体がキカナクなった時「本質が判る、本当の花が判る」というのも事実だ。
僕も舞い残した曲は、あの世に先に逝かれて僕の逝くのを首を長くして待ち構えておられる諸先輩方の囃子や地で舞わせて頂くことにしよう。
写真 『実盛』17年2月5日 出雲康雅の会 撮影 石田 裕
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