面に想う
粟谷能夫
私が初めて面を手に取ったのは子どものころ、お能ごっこのために父よりもらった稽古面でした。それをかけて廊下を走っていた記憶があります。そして子方として舞台に出るようになり、シテのかけていた、小面、曲見、怪士等と対面しました。殊に『船弁慶』の後シテの面はとても怖かったことを覚えています。十代後半頃になると演能用の装束出しを手伝うようになって、面、装束に触れる機会が増え、殊に面に強い関心を持つようになりました。
粟谷家の面、装束は祖父益二郎が苦労して収集したものが大半ですが、父も面を中心に収集を続けていました。
父の話では、戦後すぐの頃には銀座あたりの骨董屋に面の出物があり、ずいぶんと集めたそうです。その後は道具屋に頼んで捜してもらっていましたが、ある時その道具屋が十面ほど置いていったことがあります。四、五面はとても良い面で、残りはあまり必要としないものでしたので、私はてっきり良い面だけを求め、残りの面は返すのかと思っていましたら、父はすべて求めました。あとでその話をしたら、こちらの勝手ばかりすると次がなくなるのだ、と。大人の世界を垣間見た思いがしました。父だけでは手に負えない時は、目の届く範囲の方々にお世話しておりました。新しい面が手に入ると必ずその面をかけて能を舞う事を楽しみにしていた父。この面なら、あの曲にふさわしいなどと、面から能を発想することを楽しんでいるようでした。祖父や父の努力のおかげで面が揃い、今私たちが能を舞う時、多少の面の選択も出来る程で感謝しております。
私自身も粟谷家蔵の面や新しく求めた面を手に取る機会が多く、面への目利きの基礎が養われました。家の面、装束の把握が出来てくると、あの面がかけたい、あの装束が着たいと思うようになって、目標の曲目が出来ていきました。しかしその曲目へ到達するには、まだまだやらなくてはいけない事が山積みになっていることも事実でした。
二十歳ごろまでは、私の演能の面、装束は父が選んでくれ、それで勤めましたが、その後は少しずつ自分の主張を通すようにしてきました。能はシテの考え方次第で、面、装束の選択の幅があるものですから、今は自分で責任を持ち決めております。
先日の『船弁慶』(平成十六年秋の粟谷能の会)の前シテでは、その前の番組『砧』のツレが小面をかけるので、小面の使用を避けました。小面にもいろいろな表情のものがあるのですが、やはり、前後は重ならない方がよいという判断で、私の方は孫次郎系統の面としました。
面は手に取って見て良いと思ったものが、必ず舞台で良いわけではなく、またその逆の事もあります。舞台で最初の感じは良いのに、舞台が進行しても表情を一つも変えない物もあり、ここにはシテの責任もありますが、まことに難しい生き物のようです。面はある意味完成品ではなく、シテの演技の余地を残しているものの方が良いと思います。
父と面を通して感じ合っていた共通認識を基本に、面の力を借りる時もありましょうが、面を遣いこなす芸力をつけていきたいと思っています。
『船弁慶』粟谷能夫 粟谷能の会 撮影 東條 睦
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