『砧』について

『砧』について
研究公演の新工夫の成果を再演

粟谷 明生

 第七六回の粟谷能の会(平成十六年十月十日、国立能楽堂)にて『砧』を勤めました。『砧』は粟谷能の会研究公演(平成十一年、シテ・粟谷能夫・ツレ粟谷明生)にて現行の演出の見直しを図り、その成果に基づき、いつの日か再演したいと思っていて、今回その願いが叶いました。

 最初に、演出を見直し、新工夫をした部分を簡単に説明します。第一は、前場の初めにワキの名乗りとツレ夕霧へのことづてを入れたことです。従来の喜多流の場合は、前場にワキが登場せず、ツレの次第で始まり、状況説明はツレの独白で済ませています。喜多流の謡本では、ワキは中入り後に登場し名乗りますが、ワキが下掛宝生流の場合中入り後に名乗りがないため、能『砧』として、どこにもワキの名乗りがない不自然なものになってしまいます。それに対し上掛はワキが先ず名乗り、長年の在京となったが、故郷の妻の事が気になるので使いを出し、「この暮れには必ず帰る」とことづける場面があります。これによって何某(主人)は無情な悪人ではなく、妻を思う心やさしい人として設定されます。今回はツレ(内田成信氏)に観世流同様、ワキのあとについて出てもらう形としました。
では何故喜多流は現在の形式となったのか、『砧』という作品の変遷をたどってみます。『砧』は世阿弥の晩年の作で、子息の元能に「このような能の味わいは、後の世には理解する人もいなくなってしまうだろう。そう思うとこの作品についてあれこれ書き残すのも気乗りがしない」と語ったと、元能著、申楽談儀に記されています。世阿弥の心配通り、その後は音阿弥の二度の演能を限りに途絶えます。慶長頃(戦国時代)には『蝉丸』『小原御幸』とともに、詞章のよさから座敷諷(ざしきうたい)として素謡専用曲となり、江戸中期頃、幕府から各流に演能可能曲の申出が命ぜられ復興されます。今日の喜多流の台本と演出が出来たのは、その折、合理的な演出を考案し、新流としての独自性を築きたいためだったように思われます。
 演出の見直しの第二点は、シテと夕霧が砧を打つ砧の段の後、「いかに申し候」に続いて「只今都より御使い下り」を入れたことです。従来は砧の段が終わると、間髪いれず「いかに申し候。殿はこの年の暮にも御下りあるまじく候」とツレの厳しい言葉が入ります。これでは余りに突飛すぎて、まるで夕霧は殿が今年帰らないのを知っていて、わざと焦らして通告したように誤解される危険があります。ここはワキ方、狂言方の科白にもあるように、やはりある時間の経過が必要で、また別に都から使いが来たという状況説明の言葉を補う必要があると考えました。
このように演出を見直し、台本を整える作業をしていくと、『砧』という曲は単なる復讐劇ではない、ましてや夕霧への嫉妬劇でもないことが判ります。夫と妻の思いが噛み合わず、このずれが妻の心の恋慕、怨恨、哀傷といった様々の心模様に錯綜していく。『砧』は一見ありふれた巷の出来事を素材にしながらも人間の心の襞(ひだ)や屈折、奥深くにある魂の呻きをテーマとして書かれているのです。
故観世寿夫氏は「人の心の中の鬼、つまりー怨念ーといってもいい、人間が生きる上で苦しみ、悲しみといった、より人間的なものを鬼と据え、世阿弥自身の根源である鬼を得意とする大和申楽の規範に戻り新たに創作したのではないだろうか。それはいままで創り上げてきた『井筒』などの幽玄無上の夢幻能とは別の、自分が完成させた様式の破壊という新しい作品への凄まじいまでの創造意欲なのである」と述べられています。私はこの文章に刺激され、作品に似合った演出を手がけることがいかに重要であるかを知りました。私の大好きな『砧』は中世という時を超越して、人間の心の弱みや恋慕の身勝手さを現代の我々にも鋭く抉るように訴えてきます。この名曲をあだやおろそかに演じては、作者の世阿弥に申し訳ない、寿夫氏が言われるのはまったくその通りと痛感します。
前シテの面は通常、曲見か深井です。伝書には小面とありますが、小面では色がありすぎ生々しくなり、孤独と不安、失意や時の喪失感などが表現しにくいです。今回は粟谷家蔵の「若深井」を使用しました。深井より少し若い感じの、憂いをおびた顔の面です。装束は『砧』に合う梶の葉模様の紅無唐織を仕立て直し使用しました。
 シテはアシラ匕出で橋掛り三の松にてサシコエを謡います。「それ鴛鴦の衾の下には・・・」と、ここは切実な思いを冷えた謡でと心得がある、難しく苦労するところです。そして、シテは夕霧の訪問に、じわっと答えます。「いかに夕霧」の一言にすべての思いが込められるようにと、ここも心持ちのある大事な謡です。すかさずシテは何故直ぐに連絡をしないのかと叱りつけますが、夕霧は刺激的な言葉で返してきます。「忙しくて連絡する時間がなかった、三年の月日や都にいたことは自分の本意ではない」云々と。前場はこのシテと夕霧との緊張感の中に、月の色、風の気色、影に置く霜、夜嵐、虫の音と、秋の風情を織りまぜ、シテの揺れ動く心情を、砧の音とともに謡い上げるところがみどころです。
この曲では砧を打つ作業がシテの心のありようを反映しています。演者は常に「砧」と向かい合いながら演じ、砧を打つ気持ちや作業、それが妻の床で行われたことなどを、確と把握し表現しないと『砧』は手に負えない作品となります。この曲の象徴ともいうべき「砧」の作り物は、喜多流には本来なく、我が家の伝書にも記載がありません。しかしこの作り物を出さない演出は、物語を理解しにくくさせ、演者側も気持ちを込める対象がないため、演じにくいということがあります。最近は前場の物着の時に正面先に出し最後まで置いたままにしていますが、当然作り物を出した時の正式な型付はないのです。作り物を出すならば、それに似合った動きが必要で、今回いろいろな資料をもとに工夫をこらす楽しみも味わうことができました。砧を打つ型を二度にし、最初は「今の砧の声添えて・・・」で少しヒステリックに打ち、二度目は「交じりて落つる露涙、ほろほろはらはらはら……」と意識
も朦朧と憔悴寸前の態と、打ち方に変化をつけてみました。
 後シテの出端は観世流の「梓之出」に近い演出としました。我が家の伝書に「この出端、鼓アズサ打つことあり、別の習い也」とあり、まったく喜多流に根拠のない事ではないので、御囃子方(一噌仙幸氏、大倉源次郎氏、亀井広忠氏、金春国和氏)のご協力のもと、流儀で初めて試みました。アズサの音に引かれながら、シテは三の松にて一度止まり、砧の音を探します。徐々に高鳴る砧の音とアズサの音に耳を傾けまた歩み始め、一ノ松にて「三瀬川沈み絶えにし……」と謡い「標梅花の光を……」で再び本舞台に入ります。小鼓はアズサを打ち太鼓の音に執心が込められる、よい演出効果だと思っています。
後シテの面は「痩女」、装束は白練の坪折に大口姿です。観世流は通常「泥眼」で鋭い強さを表しますが、喜多流の主張は「痩女」で、やつれて空しくなった女をひきずって寂々と登場します。そのため歩みも、「切る足」という独特の足遣いとなります。キリの仕舞はじっくりとゆっくり演じるのが当流の特徴です。しかし最後に堪えていた怒りは押さえ切れず、「夢ともせめてなど思い知らずや怨めしや」と、中啓を床に打ち、左手をさし出し夫に迫るとも、また、夫に触れたいとも思わせる型となり、それさえも出来ないと悲しみ泣きます。ここは地謡も囃子方も激しく謡い囃すところで、シテはただメソメソするだけではない、荒くなってはいけませんが、強さ、激しさが込められていなくてはいけない難しい大事な場面です。そして「・・・怨めしや」のあとの一瞬の静寂、夫は法華経を読誦し、妻は成仏することができた、とこの作品は終わります。
後場での地獄の責め、死後も砧を打ち続けなければいけないという因果関係は、生前の恋慕の執念が死後の苦悩煩悩の地獄に落ちるという構図で、仏教思想を基盤にしてはいますが、『実盛』のような時宗の賛美のパターンとは異なり、そこが焦点ではないはずです。法華読誦や成仏をクローズアップし過ぎてはこの作品が生きません。
 成仏とか宗教性とは別のところに、『砧』という作品の大事なメッセージがあると思います。砧を打つ賎の業を主軸に、妻の夫への揺れ動く様々な感情の起伏。一途に思うが故の怨みや激情。『砧』はそういった人間の普遍の感情の行き違い、心の葛藤を描いた集大成だと思います。世阿弥は晩年、不遇の時を過ごしました。体制の側にない芸能者のどうにもならない悲劇。そこに耐え、あきらめながら、世阿弥はただひたすらよい作品の創造に執念を燃やし、そして仕上げた『砧』です。生意気ですが「冷えた能」と世阿弥が自画自賛するのが、演じて肌で感じられたような気がしました。演能が終わった今でも、世阿弥の残した「かようの能の味わい…」の「かよう」とはいったい何であったのだろうか、そのことが心に残っています。
今回の演出の見直しを顧みて、昔なら演出を変えるなど、とても考えられない許されないことだったと感慨を深くします。今はよい時代となり、流儀では考え工夫する事が許される、さまざまな演出を試みることが出来きます。本来出さなかった作り物は出すのが普通になり、切る足の所作も次第に変わってきています。時代はよい方向に流れだしたと思います。明治・大正の名人たちは魅力的で芸もすばらしかったでしょう、しかし現代の能も今を映しながら確実に進歩を遂げていると思います。これからも作品の主張を見つめながら、一回一回の舞台を大事に真摯に勤めていきたい、そう思わせてくれた『砧』でした。
*(「粟谷能の会」のホームページ演能レポートで内容補足&写真も掲載しています。ご覧いただければ幸甚です。)

『砧』  粟谷明生 粟谷能の会    撮影 石田 裕

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