当麻
粟谷能夫
私が『当麻』という曲に本当に出会ったのは観世寿夫さんの舞囃子でした。シテの身体より出る圧倒的な力を感じました。それは曲に対する思いや、曲のもっている世界、そしてシテの思想ともいうべきものが綾をなしていたのだと思います。
それから数十年経て、私自身の『当麻』を演ずることとなりました(平成十六年春の粟谷能の会)。いつもどおりに謡本の読み込みや資料集めに取り掛かりました。二上山の麓の寺となれば、悲劇の死をむかえ、古墳の闇から復活した大津皇子の魂と藤原郎女(中将姫)との交感を題材とした折口信夫の「死者の書」があり、多くの教示をいただきました。
余談ですが中将姫の父である横佩の右大臣藤原豊成の横佩とは、当時縦にさげて佩(は)く大刀を横だへ(え)て吊る佩き方を考え出したことによるもので、豊成は伊達者であったそうです。
そして『当麻』の世界を的確にとらえた小林秀雄の文章です。「中将姫の精魂が現れて舞う。音楽と踊りと歌との最小限度の形式、音楽は叫び声の様なものとなり、踊りは日常の起居の様なものとなり、歌は祈りの連続の様なものになって了っている。そして、そういうものがこれでいいのだ、他に何が必要なのか、と僕に絶えず囁いている様であった。音と形との単純な執拗な流れに、僕は次第に説得され征服されて行く様に思えた。」小林氏は能『当麻』の描く世界を直感し、能の持つ、呪術的な力を感覚的に受け止めています。恍惚とするような歓喜の状態に入り込んだのでしょう。このあたりにこの曲の本質があるのだと私は思います。そして「中将姫のあでやかな姿が、舞台を縦横に動き出す。それは、歴史の泥中から咲き出でた花の様に見えた。人間の生死に関する思想が、これほど単純な純粋な形を取り得るとは。」と言っています。昭和十七年に梅若万三郎の『当麻』を見て「無常という事」に書いたものです。私も『当麻』は浄土経の讃美歌の様な曲で、人間の一生が下敷きになっていると思うのです。
前シテの老尼はツレの侍女「若い女」を伴って現れ、念仏を勧め、中将姫について語ります。そして二人は阿弥陀如来と観世音菩薩の化身である、化尼、化女であると言って中入りとなります。この前シテとツレは、生身の阿弥陀如来と中将姫の化身であるととらえても良いのではないでしょうか。双方とも、人生を悟った人の心と、未だ無垢な少女のような人の心のゆらぎを抱えているように思われます。後シテは中将姫の霊として現れ、法悦の姿を表し「早舞」を舞います。宗教性を高度な音楽性によって表現するような「早舞」と言われますが、私は西方浄土の空気のようなものを舞っているのだと考えています。
先代観世銕之亟さんはこの曲の「早舞」とは曼荼羅を織っているのだとおっしゃっていました。まさにシテの『当麻』に対する思いや考えをタテ糸にし様々な教え等を横糸として織り上げて行くものだと思うのです。
写真 『当麻』二段返 シテ粟谷能夫 撮影 東條 睦
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