我流『年来稽古条々』(16)
青年期・その十
『道成寺』を終えて
粟谷 能夫
粟谷 明生
明生 前回は、『道成寺』は若さの限界に挑む曲であったけれど、それはあくまでも通過点、その結果云々ではなく、何をつかむかが重要だという話になりましたが、もう少し踏み込んで話してみたいと思います。
能夫 『道成寺』のすぐ後は、何か後遺症みたいなものが残ったね。体の後遺症もあるし、いろんな意味での後遺症。一年以上かけて、あれだけ謡って体を使って、曲に集中しているわけだから、ダメージも受けるし。それでわかったこともあるし、やれなかったなという思いもあるし…。
明生 それはありますね。『道成寺』の演能後は、当時、実先生がご健在でいらっしゃったので、秋に『湯谷』、翌年には『東北』を舞うようにとご指示がありました。それで青年喜多会を卒業させていただいたわけでして。
能夫 僕もすぐに『湯谷』だな、翌年に『八島』を、その次の年、昭和五十六年には喜多会に入った。『道成寺』で清姫の怨念のすごさ、体も使い謡に磨きをかけ、劇的な極致みたいなものに挑戦したわけでしょ。だからその後は、少し路線を変えた方がいいという考え方があるようだよ。高林白牛口二氏に「『道成寺』の後は『芭蕉』を舞え」という教えがあると聞かされたね…、心・体のスイッチを入れ替えるという意識かな。でもまあ三十歳で『道成寺』を披いて、すぐ『芭蕉』というのもね…。
明生 『芭蕉』ですか。以前野村四郎さんに、この話をしましたら、「主旨はわかるね、でもそれならば『東北』でいいんじゃない」とおっしゃられた。同感ですね。
能夫 そういう曲でリセットするというか、激しい曲をやった後は夢幻能に帰れというか。精神的にあまりドロドロしないものにする、お口直しだな。
明生 お口直しですか…。
能夫 『道成寺』の後、意識したのは、やっぱり謡だな。『道成寺』では、道行も和歌も、聞かせどころでしょ。そこを謡うときに自分で何か際立たせる作業をしなければいけないと思うな、自分に付加するプラスアルファーがないといけない、何か探らないといけない気がしたね。それまで修業してきただけのことでは獲得できない何かが必要だということを感じたよ。そういうことは思いもよらないことだったからね。もちろん一所懸命稽古はした。そうしていれば自然とできると思っていたからね。
明生 そう。生意気とお叱りをうけるかもしれませんが、流儀の指導法に限界があるのではないでしょうか。内弟子時代、謡の稽古が少なかった、もちろん団体での稽古はありましたが、それは暗記力テストでしかなかった…。もちろん若いときに沢山の謡を身体にたたき込むことは大事ですが、もう一歩踏み込んだ謡で世界を表現する学習があってもいいでしょう。まず、声の出し方から始まり、言葉の詰め開きの程度や、感情の入れ具合、祝言、恋慕、哀傷、恨みなど役や曲に沿う謡の稽古が当然必要です。しかし残念ながら流儀には、そのような慣習がなかった。それは先代実先生が型重視のお考えで、謡にさほど拘りがなかったからだと思います。現実に『道成寺』を勤めるまでは、謡のことはさほど注意されないのに、『道成寺』や『葵上』になると、急に謡のまずさを指摘される。体力的にもきびしい緊張感の持続の中、いきなり謡へのプレッシャーという新顔が入り戸惑うわけです。私も散々言われ、書かれもしましたから、かなりへこみました。
能夫 『道成寺』では謡について言われることが多かったね。身体的にはまあまあなんだよ。披きだから緊張感もあるし、ある程度動きは御せるけれど、謡は・・・。
明生 謡は難しいですね。でも基本は二曲三体でしょ、その二曲舞歌も割合からいうと、七・三で謡ですから。披きの『道成寺』は、まずは型がきちんとできないといけないから、型を優先するのは仕方のないことです。謡は駄目でもともかく型はしっかり…と、これが現状ですね。
能夫 ただ間違わなければいい、つつがなくだけでは悲しいね。大曲の重圧だけで、その曲趣を考えないのはいけないよ。清姫の狂気、鐘への執心として出てくる根拠はこれだというぐらいのテンションのある謡い方ができないとね。テンションもない、張りもない謡い方では落第だよ。
明生 表現の幅は難しいです。絶叫だけではダメだし、押さえ過ぎて小さくなってはつまらない…。
能夫 そうそう、それでは届かない。それまでは、曲趣を考えるということに価値があるなんて夢にも思っていなかったよ。それが能であるとも思っていなかったからね。
明生 そう教えられていないから。『道成寺』を披くならまずは謡ってみろ、から始まらないといけないのではないでしょうか。でも現場はまずは一番を通してやってみろとはじまる。すると乱拍子がこうで、急之舞は、キリの型がこうでと教わる、謡の注意は後回し。本当はそこが大事なのかもしれないのに。
能夫 そこが問題だな。『道成寺』をやったことで、謡が課題ということがはっきり見えてきたということだろうね。曲を謡うということ、本当に曲を舞うことの大切さ。
明生 本当にそう思います。
能夫 それと前にも話したが、やっぱり新鮮なのは祈りだね。自分だけで作るのではなくて、相手があって、相手との力関係で行ったり来たりする、気のような・・・。
明生 そうですね。祈りは舞囃子の稽古では体験できませんから。『黒塚』や『葵上』といった能に携わらないとできませんね。
能夫 『道成寺』の後、明生君は妙花の会を起こしたね。
明生 そうですね。発起人になって。『道成寺』をやりだすと、お能は面白いと感じるようになって。演能するチャンスを多くしたいと考えました。
能夫 よかったよねえ。それを待っていたんだよ(笑い)。『道成寺』を舞って、行動を起こすエネルギーがふつふつと沸いてきたわけだ。妙花の会はいつからだった?
明生 『道成寺』の翌年、昭和六十二年です。青年喜多会引退が六十三年ですから、一年ぐらい二つの会がだぶっています。能夫さんは青年喜多会を卒業するとすぐに喜多会に入ったでしょ。
能夫 そうね。実先生がいらしたときの喜多会は、入れるというのがある面ではちょっと名誉なことだったからね。
明生 能夫さんのときはそうでしたね。私のときは実先生がご他界なされていたので、参加が自由でしたから、喜多会に入る前に少し考えてみよう、もっと個人的な会で活動してみたいというような思いがありまして。上の先輩方は果水会を作られていたので、その下の年齢の仲間で同志をつのってみてはと…。それで妙花の会を発足しました。 師や父が与えてくれるものだけでなく、自分で演能の機会を作り、そこで学ぶ必要が絶対あると思って…。
能夫 演能について積極的に意識するようになった・・・。
明生 『道成寺』を勤めてから、三役との交渉係をやるようにもなりました。それまでは、すべて人任せでしたから。
能夫 『道成寺』は親や流儀の人たちのお世話でやる、いわば「お任せコース」でしょ。
明生 『道成寺』を勤める前はそうでした。ただお能を舞っていればいいというものから、喜多内や囃子方の交渉からパンフレット類を作るところまでやるようになって。
能夫 ある意味では本当のお能づくりかもしれないね。制作ということかな。
明生 三十歳そこそこで三役の方にお願いするわけで、何だ若造が来てと対応されることもあり勉強になりました。
能夫 そういうことに耐えながら(笑い)、交渉の中で獲得していくものはたくさんありますよ。
明生 『道成寺』を終えると、能はシテだけではない、三役の方や喜多内も含めて大勢の人の力添えで一つの曲が創られていることを実感します。会を起こそうとしたときもそう。そういうことを通しても、お能の面白さと同時に、物事を立ち上げる喜びみたいなものを感じていったと思います。それが後の、小書の再考に挑むようになり、伝書を読むだけでは解決できないことを、三役にご相談したり、そういう過程からの曲づくりにふくらんでいきます。
能夫 明生君が『采女?佐々浪の伝』など、具体的に小書に挑戦していくのは十年ぐらいしてからでしょ。演出的な課題、伝書を読むことなど、謡の問題ももちろんそう、いろいろな課題が出てくる。それを具体的に実践に移していくには、『道成寺』から五年、十年と年月がかかる。
明生 最近『道成寺』を披くのが遅いから、課題に目を向ける時期がどうしても遅くなっている気がします。
能夫 その問題はあるね。でも長生きの時代だからいいのかな。いずれにしても、これは能役者としての一生の課題でもあるね。(つづく)
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