『芭蕉』によせて

『芭蕉』によせて

粟谷菊生

通小町 粟谷菊生謡曲の文章というものは何れも美しく優れたものではあるが、『芭蕉』のそれはとりわけ胸を打つものの一つだと思う。ワキのサシコエ「既に夕陽、西に映り…」から始まる情景描写には寂寞たる山陰の迫り来る夕闇と冷気を自ら覚え、シテの次第の「芭蕉に落ちて松の声…」以降の詞章にはその味わい、美しさにふっと静かな感動を覚えるのは人生の晩年に在る身の殊更の感慨だろうか。
花も色も無い、微塵たりとも色っぽいものは入らぬこの三番目物の凄まじいまでの冷たさ、寂びた寒さの中にあるこれほどの優雅さは一体何なのだろう。
 僕は『芭蕉』の能を舞ったことが一度も無い。良い曲だとお思いながら長いこと、いざ何を舞おうかという時は、きまって『羽衣』『班女』『湯谷』『松風』のような華やいだ色っぽい「可愛いい女」のものに、つい走ってしまう。自分はいつまでも若いような気になっている呆れた錯角を持ち続けていたのかもしれない。或いは『隅田川』『景清』『鬼界島』のようなものを、つい選んでしまうのだが温かい情味のあるものが好きなのは、これはもう僕の体質のなせるわざかも知れない。そして又それらのリクエストが断然多いのも確かだ。そのくせ、あまり演じられた事のない『羅生門』のような能の依頼がくれば、いやとは言わず引き受けてしまうし、うちの流儀では四、五十年途絶えていた『梅枝』のような曲を演ってみたりもするのだが…。
この齡になるまでには、やはり随分といろいろな曲目を沢山舞ってきている。にも拘わらず、この『芭蕉』は何故か自分がシテとして舞った事がなかったのだ。『芭蕉』の地頭を最初に勤めたのは昭和五十八年、兄、新太郎がシテの舞台だった。その時の『芭蕉』は気負いや衒いの全く無い、アクの抜けた、枯れ寂びた芭蕉の葉を見る思いのする、『芭蕉』の曲そのもので素晴らしかった。そしてこの度、平成十五年度春の粟谷能の会では兄の息子、能夫の『芭蕉』。何十年かの隔たりを思い、走り去る歳月の早さに今更ながら愕然とするが、こうして傘寿を過ぎて今また甥の地頭を勤められるのは幸せと言わねばなるまい。兄がこの曲を舞った齡に比べると能夫は、はるかに若い。彼は菊生叔父が地頭をしてくれるうちに…という計算であったかもしれない。結構、結構。何はともあれ、僕は謡が好きなのだから。
こういう謡い甲斐のあるものを謡えるのは、或る種の緊張感と充実感があり、張り合いもある。この長く静かな重い曲を精魂込めて謡いたいので僕は仕舞『山姥』を舞うことにした。
父子二代の『芭蕉』の地頭を勤めるのは、まことに感無量であるとともに、これが兄への供養にもなると思っている。

写真 粟谷菊生「通小町」 撮影 東條睦

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