わが安住の地

わが安住の地

粟谷菊生

自分の意に副わぬ職に就き、満たされぬ思いの内に日々を過して「安住の地」という望みを未来にかけるか、又は手の届かぬ、はるか彼方の夢として生きている人も、世の中には少なからず居られると思うが、その点、私は何という幸せ者だろう。私は舞台の上に在る時、最も安住を感じられる時間と空間を持つことが出来るからだ。安らぎの場と云えば誰しも、先ずは家庭と思うだろう。無論、私も家にいる時はタガがはずれたように人一倍だらしのない為体で、注意力は散漫、やりっぱなし族のグータラ亭主をきめこんでいる。気の移り易い私はテレビを見ていても矢鱈にカチャカチャとチャンネルを変えて妻にイヤな顔をされたり、頭の中は雑念だらけ。しかし、ひとたび舞台に上がると何故かたくまずして、全集中力で、神経はその舞台に統一できてしまうのだ。新曲や稀曲に取り組むとき以外は、快い緊張感こそあれ、能という大きな傘の下で安住の地に居る心地に浸っていられる。能そのものに歿入し、全身全霊が集中していられる雑念の無い此の世界は、私にとって、何ものにも代え難い最も「安住の地」を感じる時であり、場所である。そしてまだ此処に自分を必要としてくれる舞台があるのだと思える悦び。いつかは頭も体もダメになって、この「安住の地」を去らねばならなくなる時が来るであろう。が、それは今は考えないでおこう。来し方を顧みて幸せな人生だったとつくづく思い、ただただ神に感謝だが、日本はまことに八百萬の神の国、四方八方に頭を下げて御礼を申し上げたい。「菊生の”日本は八百萬の神の国”発言」などと物議をかもすかも知れないが、日本人は生れ出づれば両親や祖母に抱かれて産土神に詣で、七五三になれば氏神様に手を引かれてお詣りし無事に育ってきたことを感謝し、これからも健やかであれと柏手を打つ。私の住む能の世界に至っては、イザナギ、イザナミノミコトから始まって、神を主人公として神社の縁起や神威を説き、国の繁栄と御代を寿ぐという曲目が多数あって、神とは切っても切れない仲。私は無宗教、無信心に徹している人間ではあるが、神社に詣でれば心を込めて感謝と、これからもお守り下さるよう諸々のお願いをする。それは自分の能の事、家族の事、その他、気にかかる人々の事等々。但しゆっくっり出来ない時は、ときどき「神様のことですからお判りでしょう?いつものとおりです」と端折ってしまうこともある。そうそう、最後にウチのヤマノカミにも感謝しておきましょう。心の底の底では、これでけっこう安住させていただいているのですから。

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