我流『年来稽古条々』(12)

我流『年来稽古条々』(12)

青年期・その六『道成寺』まで

粟谷能夫 粟谷明生

明生-先回から『道成寺』への道のりという事で話をすすめています。先回にも少し話しましたが、私の『道成寺』の披きは昭和61年で、前年の粟谷能の会で『黒塚』、さらにその前の昭和58年には青年能で『紅葉狩』と、一応『道成寺』の前に「急之舞」と祈りが経験出来て、恵まれていたと思います。

能夫-祈りは経験しておかないとね、これは一人では出来ないから、ワキ方という相手役がいてはじめて成立することだから。

明生-あの時の『黒塚』は、私が本当に能に出会い、能楽師の自覚を持ち始めた最初の曲でした。

能夫-それまでは冬はスキー、夏はサーフィンで一年中まっ黒だったもの、もうぼちぼち舞台中心の生活を送ってもらいたいと思ってましたよ。

明生-能夫さんが観世寿夫さんの『黒塚』では「月もさし入る」というところで下を見るんだ、という話をされて、びっくりしたのです。

能夫-月は普通は上を見るでしょう。それを寿夫さんは、あばら家の隙間から月光が差し込んでいる、その床を見た。これはゾクゾクするような凄い演技だった。そのことを話したんだよ。

明生-それで能夫さんから「能っていうのは面白いだろう。型付通りだけでなくいろいろと幅があるんだよ。だからもっと考えよう」と言われました。その頃はただ型付通りにまちがい無くやれば良しという次元でしたから、何も考えてはいないのです。例えば『紅葉狩』にしても、序の舞の三段の後、右手は着流しの時のように指を伸ばし右腰を押さえる姿となりますが、あれは本来着流しのうわまえを押さえる型で、大口袴をつけているときは必要なく、おかしいのですが皆平気でやり、平気で見ている。まあ実先生がいらしたこともありますが・-、人が演ずる通りやれば良い、それが少々、本筋よりずれていても、というような状況がありました。それがこの寿夫さんの話を聞いた時、あれ、能というのは面白いものかもしれない、これは自分の人生を掛けるに値すると思ったのです。そう思わせた大事な一言でした。それからあの『黒塚』のとき、能夫さんがどれでもいいから自分の好きな装束を選んでと言われて…、この辺りのことは粟谷能の会ホームページの演能レポートに詳しく書いてありますが、出立ちは赤頭に我が家の『望月』専用の萌黄の厚板を腰巻にして般若で勤めたのです。そのとき能夫さんは、「いいよ自分で選んだものを責任持って着ればいい」と言ってくれました。当時はそれなりに満足していたのですが、後日写真を見るとひどい組み合わせでした。もしあの時、この曲にはこの組み合わせが良い、明生君の選んだのは変でおかしいと注意されていたら、あのひどい組み合わせの装束を着るという経験が無い代わりに、他人任せの、出されたものを有り難く付けているだけで、いつまでも曲にあった装束を選ぶという作業にも目覚めなかったでしょう。自分自身を自分の責任で演出していかなければならない、いろいろなことを深く考え様々な手法を多方面からも検討していかなければ駄目だと気が付いたのです。だからあの時の能夫さんの対応には感謝しています。本当は「似合わないのに」と心の中では思っていたでしょー。

能夫-それはね、我が家には、祖父や父が苦労して集めてくれた面、装束があるし、私は出し入れをして、すべて頭の中に入っているが、明生君にもわかっておいてもらいたかったのと、浅井君から聞いていたのは、寿夫さんは装束、面をどういうものを選ぶかということを問いかけ、ただのお仕着せでなく、自分の自主性を尊重して、そのことを通して役者を育てていったということだからね。それと『黒塚』で一番言いたかったのは、喜多流では扉をあげても自分の世界は見せたくないという演出だけれど、観世流だと、扉をあけて山伏を招き入れるのが、一人の尾び住まいの女がやっと人が来てくれた、という感じが表現されている。人恋しさみたいなものを感じさせる広さがある。そのほうが世界が広がると思うよ。そういうことが見えてくると、能の世界が一回りも二回りも大きく、魅力的で素晴らしいものになってくる。その頃、明生君の能に広がりがないと言ったときに、明生君に広がりとは何ですかと問い返され、能の表現の「広がり」という事を理解してもらおうと言葉を並べたんだけれど、どうしてもうまく伝えられなかった。広がりというのは、例えば『笠之段』で「えいやえいやと寄せ来るぞや」と脇正面ヘシカケをした時にある距離感が見えてこなくてはいけないし、無限大まで届くようなエネルギーを感じさせなくてはいけない。ただ教えられた通りにやるだけでなく、自分の、こう表現したいという思い、意欲があってはじめて広がりのある表現になる。譜本の読み込み、曲の本質、主題を理解して演じたときにはじめて広がりのある表現が可能になる。そうでないと箱庭のように、せまい世界しか表現できない。今ならそう言えるんだけれど、その時はどうしても理解してもらえなかった。それを説明し、説得出来る力が自分になかった。自分では解っているつもりでも言葉として的確に言えなかった。それでは何の意味もなさないんだと痛感した。そのことは僕の原点といっていい。

明生-昔、二人で阪大の自演会の手伝いをしていた時、前日は「照長」という焼き鳥屋でふぐさしとずり(砂肝)で一杯やりながら、よく喋りました。今考えるとあれも父が仕掛けた罠で、私をこの世界から離れないように餌で釣っていたのかもしれないのですが…。その時の話で、能夫さんから『忠度』の和歌への執心が解るか、と問いかけられて、まったく興味を示さなかった私は「和歌への執心?全然解らないよ、修羅物らしくカケリがしっかり舞えればいいんじゃないの」なんて無意識に答えていた、そんな時代がありました。

能夫-これだけ自分は解っていて、これだけ話しているのにどうしてこの人は解らないんだろうと思ったと同時に、心の広がり、型の広がり、芸の広がり、曲の広がりといったことを解らせられない自分の不甲斐なさを痛烈に覚えている。そんなことが積み重なって少しずつ明生君も変わっていったんだと思う。それまでにはずいぶん時間がかかったよ、呼び水をし、餌を与え、注射を打ってね。(笑い)それはね、僕も菊生叔父からいろんなことを教えられたし、そのことを明生君に伝えたかったということもある。それから僕は父達のように兄弟が無く一人だったし、身内のなかで自分と拮抗出来る、合わせ鏡になるような力のある存在が必要だからね。そういう人として育ってほしいと本当に思っていたんだ。

明生-そういう下地があって、『黒塚』に向かう時に寿夫さんの話を聞き、また、装束を自分の責任で選ぶ、この二つだけでも『黒塚』を勤めるのに充分な意欲が出たのです。これは本当に大きかった。そういう思いで能のシテを勤めると、こんなに面白いものはないわけで、あとはどんどん面白くなっていきました。実先生から教えていただいた通りを忠実に真似ることから、少し距離をおいて舞台を演ずるという意識で考えるようにと、変わりはじめたのです。

能夫-これは菊生叔父から聞いたんだけれど、先代の六平太先生は能は芝居をしてはいけないが、芝居心がなきゃいかんと、何かそんな事と繋がっているような気がするな。

明生-実先生から教わるものと、もう一方で能夫さんといろいろ話し、こんな面白い型付があるといったことを教わって、少しずつ、そう広がっていったんです。読めない伝書も、ふと手にするようになり、そういう意味でこの『黒塚』は私にとって本当に大事な出発点でした。

つづく

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