流儀と個

流儀と個

粟谷能夫

粟谷能夫「砧」例えば『喜多会』と『粟谷能の会』とどちらが大事かと聞かれたらどう答えるだろうか。

まずはその問いかけそのものに問題があるとは思うのだが、それはおいておこう。それは車の両輪であり、どちらもともに大事なのだという答えになるだろう。個と『喜多流』とどちらが大事かという問いに対しても同じ答えだ。個が充実した存在になることによって、『喜多流』として魅力ある演能ができ、充実した演能集団である『喜多会』によって個が磨かれ優れた存在になるのだ。

ただ、能はほかの演劇に比べれば、個の力量にゆだねられている部分が非常に大きい。普通の演劇であれば一つの舞台を成り立たせるために、ひと月とかふた月、稽古を全員が共にするのに対し、能は一回の申し合わせで本番を迎える。これを可能にするのが個の日々の修行、稽古なのだ。その意味では個がしっかりと磨かれなければ演能は成り立たないし、流儀も繁栄しないことになる。芸術性の高い個が多様に存在していることが流儀の力であり、魅力だろう。それがなければ家も流儀も色あせたものになる。

そしてもうひとつ、流儀の是とするところというものが、長い年月の間には必ず変化していることを見逃してはならない。世代が代われば当然違ってくるものだ。そうした中で、何を基準とするのか。それは能の本質を見据える事だろう。その視点で流儀の優れた所をはっきりと認識すると同時に、流儀の抱えている問題点も見えてくるはずだ。実際この何年かの間に流儀内部でいろいろな変化が起きて来た。指導ということでも大きな変化が起きて来ている。このことに対応して行くにはどうすればいいのか。

自分のことを振り返れば、親からの教えがあり、喜多実先生からの徹底した基礎教育によって自己形成が始まった。そして能を自覚的に見る年になって、他流の優れた個や能の集団の有り様を目の当たりにした。自分はこのままでいいのかという問いかけをもちながら修行をした。その頃は当然批判も受けた。しかし本当に自己を確立するためには、親の価値観や流儀の規範を一度は疑い見直すということを通過することが必要なのだ。それがなければ、その個はスケールの小さなものになってしまう。

能は個では出来ない。だからこそ広い視野と魅力を持った個が集まり、切硅琢磨することが能を豊かにするのだ。

写真 粟谷能夫「砧」撮影 東條 睦

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