我流『年来稽古条々』(11)

我流『年来稽古条々』(11)

青年期・その五『道成寺』まで

粟谷能夫 粟谷明生

明生?先回の第10回では『猩々乱』被き以降ということで、能夫さんの『大会』『半蔀』『小鍛冶白頭』それから私と二人でやった『二人静』まで話しました。その頃は年に二番という演能で、ハングリーだったな、というのが結論でした。当時、せめて年五番は舞いたいと話していた覚えがあります。

能夫?この頃が寿夫さんの能を一番たくさん見ている。だってこの頃暇だったもの、弟子を教えているわけではないし毎日午前、午後と喜多実先生のお稽古にいったら夜はフリーだから。

明生?思い出すのは、毎朝まず実先生が一番能を舞われたこと。それも何を舞われるか分からない。困るのは出てこられるのがやや遅いときで、そんなときは『定家』とか私の知らない重い曲で……。そうなるともう謡えないので私はただ見ているだけでした。

能夫?いいときだったよね。稽古してくださったもの。それがべ?スになってるものね。皆で稽古したからそれが皆の共通項になっているということは凄いことですよ。今の喜多流のベースですよ。

明生?金春流の桜間金記さんと仙台の演能でご一緒したとき「僕が知っている喜多流の人達は、皆共通の感覚があって、赤は赤といえる年代だね」と仰っしゃられたことを思い出します。金春流では誰かが「赤」と言っても「いや紫だ、桃色だ」と、違う感覚を持たれている方がおられるということでしょう。それに比べると確かに私達は基盤が一つという事はあります。例えば『土蜘蛛』のツレの謡が「重い」と誰かが注意すると、皆そろって「そうだ、重い重いよ」となる。でも金春流では「えーそうかな、そうは思わないがねー」という人がいるということらしいです。私達は喜多実学校というところで、皆が同じ意識を持たされ、共通項で育った影響でしょうね。これが良いのか悪いのかは別として、求めている美意識が一つだったような気がします。

能夫?これは幸せなことだよね。それで僕は昭和53年に『黒塚』を勤めました。寿夫さんが亡くなった年。

明生?能夫さんが『半蔀』を演じた頃からですかね、青年喜多会のあとの反省会に私も呼ばれるようになっていまして、会の反省や仲間同士の批判とかいろいろ話されていました。私は未だヒョッコでしたから、もっぱら聞くだけでしたが・?。

能夫?その頃はもう先輩たちは青年喜多会を卒業していて、僕や出雲康雄さんがリーダーシップをもってやりはじめた。

それでただ能をやりっ放しでは駄目だということで、反省会を始めたんだよね。

明生-鍋屋横町の寿司初という、山本東次郎家御用達みたいな寿司屋で、目黒から遠かったけれどよく行ってましたよね。残念ながら今はもうありません。ニューヨークでやっているようですが…。

能夫-その頃からだよね、僕が銕仙会の影響を受けて、舞台に対して、集団としてこんなふうにしたいという主張をするようになったのは。僕にとっては革命的なことだったからね。

明生-私の意識が変わって来たのもその頃からですね。青年喜多会というのは自分たちの会という意識が強かったから、四番立で三番も地謡がついても、へこたれなかったし、同人皆が舞台にも自発的積極的に取り組むようになり、例えば地謡で疲れていても「凛々しくきちっと座っていよう」という意識に目覚めて、「背中丸めてだらしなく座っている人なんて、他流の同じ年代の人にはいないものなー、頑張ろう」をスローガンのようにしていました。

能夫-その頃は地謡の座り方にしても、扇の持ち方にしてもそれぞれ違っていたり、だらしのないところがあったものね。皆がNHK・TVの能の収録のときは咳もできないというように緊張して座っていたり、『道成寺』のときならやはり皆がピシッと背中を伸ばして座っている。そういうことが特別のときだからというのではなく、日常のことでなくてはいけないということだよね。寿夫さんが亡くなったのが12月7日で『黒塚』は16日でしたから、すごく寿夫さんのことを意識して舞台に立ったことを憶えている。

明生-その後、能夫さんは寿司初で嘆かれてましたよ。「どうしてあんなに大事な人が早く亡くなるんだ」ってね。

能夫-僕の思いでは、『道成寺』の前哨戦として『黒塚』になったという感じはなかった。僕が『造成寺』をやるというので実先生がつけてくれたのかもしれないが…。「祈り」というものを経験しておきたかったという思いはあったね。

明生-私は青年喜多会で『紅葉狩』を勤め、それから「粟谷能の会」で『黒塚』をやって、それから『道成寺』でした。『紅葉狩』で急之舞を体験し、『黒塚』で祈りをやり、出来れば『葵上』もやっておくのがいいのかも知れませんが-。まあ『葵上』は『道成寺』の後の方がよいと今では思っていますが。

能夫-それは皆の経験から、そういうことをやらしておいたほうが良いという方向性が出て来たんじゃないかな。寿夫さんを追いかけていた頃は、能の本質を十分に理解していたわけではないし、全てが見えていたわけではないと、今にしては思うね。舞台から伝わってくる衝撃波の強烈さと、能を創っていくための仕掛けとか考え方、姿勢といったものを教えてもらった。あとは自分で考えなさいという事だったと思う。そういうとっかかり、経験があったからこそ今日があると痛切に思うね。

つづく

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