兄新太郎を偲んで


兄新太郎を偲んで

粟谷幸雄

四兄弟の末である私は、兄新太郎と長く生活を共にし、独立して福岡へ派遣された時も、その後も、何かと心配りや恩恵を受けてきた。その兄を亡くして、淋しさも一入である。戦後、戦地からの帰還を危倶された新太郎が、無事帰還して来た時、幼心にも良かったと喜んだ。国内の復興に伴い、能楽も次第に盛んになり、新太郎、菊生の兄達は、父益二郎を助けて、喜多流の公演を地方へも拡げ、流儀と粟谷家の発展を盛り上げていった。併し、父益二郎が六十六歳の若さで突然亡くなったあと、粟谷家の将来を心配した長兄の新太郎は菊生と共に、辰三や私の親代わりとなってくれて非常に力強かった。兄弟仲良く団結して、父益二郎の謡や能を継承してきたが新太郎に紫綬褒章、菊生は人間国宝の認定を受けた事は、粟谷家の光栄である。それは、父益二郎が受章したも同然であると思っている。互いに切瑳琢磨して、粟谷家を盛り立ててきた新太郎は晩年、菊生に一切を頼んだと聞く。幼い頃は恐いなと思ったこともあったが、やはり頼りになる兄達である。新太郎との演能の思い出に、宮島で『小袖曽我』を一緒に舞ったことがある。兄の迫力ある舞台に引っ張られて、流石に兄貴だなと思い、自分の未熟さを反省したものである。新太郎の演ずる能は何ともいえぬ魅力があり、橋掛りに向かう所作や、笹などの扱いが独特で趣があったと私は思う。新太郎の芸風は謡も型も淡々としているが、余韻があって『芭蕉』は特に印象深く感じた。新太郎は、面や小道具などの蒐集に心掛け、捜して来るのが得意で、手に入れた面などから、能のイメージを膨らませていた。新太郎の蒐集したものを重宝していられる喜多流の重鎮もおられる。又、お弟子のグループ作りがうまく、あちこちのお弟子を上手にまとめていたのは、新太郎の人徳であろう。来年は幸扇会を主催して四十周年を迎えるが、父益二郎の偉大さや、夫々の芸風を持つ兄達の魅力が、年を重ねていく程に分かってくる。その兄達に報いる気持ちで、少しでも近づくよう心に期している。粟谷家一門も、次代の活躍へ移行の時代にさしかかり、今後の喜多流の発展と共に、粟谷家一門の益々の繁栄を祈念し、努力を続ける覚悟である。

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