我流『年来稽古条々』(8)

我流『年来稽古条々』(8)

粟谷新太郎から受けたもの

粟谷能夫 粟谷明生

明生─ 先回は青年期・その三として、『猩々乱』披きをめぐってーということで話しをしましたが、今回は昨年五月二十一日、粟谷新太郎伯父が他界いたしましたので、新太郎追悼号ということで、二人で粟谷新太郎の思い出として話しをしたいと思います。
能夫─ 父新太郎他界に際しましては多くの方々より様々な追悼のお言葉、お心遣いをいただき深く感謝致しております。本当に有難く心からお礼を申し上げます。
明生─ さて新太郎伯父の事で思い出すことは、私は実に多く伯父のもとでツレをさせて貰ったということです。前に年来稽古条々でも言いましたように、子方は百二十番勤め、最後に昭和四十三年『満仲』の幸壽の役で切られて子方卒業となりましたが、同じ年に直ぐ直面で新太郎伯父の『土蜘蛛』の胡蝶の役がつき、それからはずーとツレ街道です。『葵上』、『八島』、『鬼界島』、『求塚』などが多く、伯父のものは全部で四十番お相手しています。あの頃私はあまり能を面白く感じていなかったので、ただ言われた通りにしているだけ、という状況でしたが、や はり番数が多かった為か、あの時の経験や伯父などに注意されたことは大きな肥やしになって、今につながっていますね。舞台や作品に対しての理解なんて大袈裟なものではないのですが、でもなにか自然に知らず知らずに舞台で培われていたと思います。頭からではなく、とにかく身体で解ったという感じかな。
能夫─ まさにそういう風にして育てられたということだと思うよ。
明生─ 『葵上』のツレはそれこそ三十番勤め、そのうち十三番が伯父とです。なかには一日二番なんていう時もありました。秋の粟谷能の会で『葵上』を勤めまして、ツレの内田成信君に「あーだ、こーだ」と注意している自分が、実は伯父から言われたことと同じことを注意しているんだと気がついておかしくなりました。例えば「東屋の母屋の妻戸にいたれども」という謡をダラダラ謡うな、シテは「姿なければ問う人もなし」とかかって謡いたいから「いたれども」は謡をつめてとか、ツレはツレらしく、歩みも謡もサラリと邪魔せず引き立てると、伯父からの教えは結構身体にしっかりお注射されたみたいです。
能夫─ それは言葉の意味を大切にして謡えという意味だと思うけどね、言葉を生かせと・・。親父たちの世代はこういう理由だからこうして、という理路整然とした言い方はしないからね。
明生─ そう言われても解らなかったと思いますけどね。何せあの頃、中学時代はやる気のない時代でしたから。(笑)あと忘れられないのが、二十歳の時、喜多会で『砧』のツレがついた時です。その頃の私は山登りに夢中でして、型付通りに動いていればどうにかなるだろうと、その程度の考えでしたから、伯父はさぞ嘆いたと思いますよ。
能夫─ その時のことはよく憶えているな。親父が「これじゃ砧にならないよ」って言っていたのが、申合わせがあって、本番が終わって、結果的には「よくやってくれた」というか、丸だということになった。花丸じゃなかったかも知れないけれど…(笑)
明生─ 「大声出していいから、高い張った声で謡ってくれ、そうすると伯父ちゃんは助かるんだよ」って言われましたよ。伯父は大曲の『砧』を明生とやるのか、やれやれと思っていたでしょうね。あとで父から「今日はともかく謝らなくて済んだ」と言われましたから。でも今考えると喜多会の配役のつけ方もいいかげんでしたね。それとその頃は能夫さんはもうツレはいやだと言うので私の方にその役が回って来たということもあったと思います。
能夫─ 確かにそんなことを直訴したかも知れない。地謡というポジションに居て、シテとか地頭を感じたかったんだよ。
明生─ 『清経』『山姥』『景清』『江口』と伯父のお陰で、いろいろやらされ、長いこと座らされました。(笑)でも近頃、私にはそういう時期があったことが、一つの大きな財産になっているのだと感じています。ツレを演ずる心みたいなものを掴めた様な気がするのです。例えば『松風』。膨大な連吟、立ち居の心配り、ツレとしての立場の確立、シテヘの理解、これらが出来て始めてシテが出来るのです。だから逆に本当のツレはこのシテを経験せねば出来ないのかもしれないとさえ思います。ですから伯父には遅蒔きながら感謝しているんです。
能夫─ 親父のことで鮮烈に憶えているのは、僕はまだ二十歳前だったけど、親父が春秋会で『朝長』を披いた時のこと。これは稽古から申合わせ、本番とすべて鮮明に記憶にある。
明生─ 春秋会というのは、当時、喜多長世、節世両先生、友枝喜久夫先生、新太郎伯父、そして父菊生の五人の会の事ですね。
能夫─ 親父がほとんど裸に近い姿で『朝長』の稽古をするのに謡わされた。その頃だから十分にわかっていたとは思わないけど、ともかくリアルタイムで親父が『朝長』を創っていく過程をつぶさに見た。親父がふんばっている姿に肉体の力を感じた。古武士のような骨格の図太さ、勢いがあった。「朝長が膝の口をま深に射させて馬の太腹に射つけらるれば…」の所なんかあこがれたもの、かっこいいと思った。自分もやりたいと。前シテにあんな難しい語りがあるとは理解してなかった。現実の舞台に向かう過程を親父と一緒に歩んでいた。それから昨年、自分が『朝長』を披くまで、これは一連のものとしてつながっていると思う。その間に観世寿夫との出合いがあった。そういう外からの刺激の中で、自分の父とか流儀のあり方を見直す観点を持っていったのだと思う。『朝長』でもうひとつ忘れられないのは、寿夫さんが亡くなった二年ぐらい後の鋏仙会の定期公演で、喜多能楽堂で演られた山本順之さんの『朝長』。これはすごいと思った。地謡は野村四郎さん、浅見真州さんたちが謡っておられたけど、巨星亡き後、全員が一丸となって寿夫さんの残したものを受けとめ表現していこうという気迫を感じた。皆が創りあげてきたものの集大成だと思った。シテの順之さんもすごくて、シカケ一つとっても過不足なく作品を表現していて、そこには型を超越した世界があった。これだと僕は思った。それで、たしか十二月の公演だったけど、その前に囃子の会で順之さんが銕之亟さんから、「馬の太腹に射つけらるれぱ」の所で床几からずり落ちる型を直接教わっている所をまのあたりにしたしね。だから僕にとって『朝長』は親父のを見てすごいと思い、かつ負けるものかと思ったという出発から、寿夫さんとの出合いの中で、順之さんの舞台があり、それが自分の舞台とつながっている。舞台というものは、自分の番が廻って来ました、はいどうぞ、という訳にはいかない、その作品に対して思いを深めていってないとだめだと思う。
明生─ それから伯父の凄い事の一つに『葵上』の坪折にした唐織を「打乗せ隠れ行こうよ」で、さーっと脱いで被くという難しい動きがありますが、一度も失敗したことがないということです。
能夫─ 手が的確に脱ぐために丁度良いところを掴んで、それで思い切りよくいけたんだろうな。普通だと、ここまでやるとエレガントじゃないとか躊躇があったりするんだけど・・・
明生─ 失敗なしは本当に凄いことです。職人芸というんでしょうか。父に比べて決して器用な人ではなかったと思うんですが。とにかくうまかった。
能夫─ 『土蜘蛛』の投巣も見事だったね。それと謡にはうるさかったね。喜多流の趨勢として型を重視する傾向に対して、謡がちゃんと謡えないと駄目なんだと。地方稽古に行っても番謡を一日に三番も謡って決して手を抜かないというのか、そのせいで自分の能のときに声が出なかったりしたのを見ていて、はがゆい思いをしたこともある。晩年になって、型は少し枯れて来たという感じがあったけど、謡は良くも悪くも枯れるということがなかったように思うな。かえって言葉についてことさら強く謡ったりしていた。いずれ親子というのはどうしたって似ているところはあるし、また反発し合うこともあるし、いわく言い難い所が沢山あるからね。合せ鏡みたいで、お互いにピカピカ照らし合いながらお互いに馴れ合ったり、意地を張ったり、喧嘩したりして消耗するみたいな所もあるしね。だから僕にとっての親というのは、『朝長』のときに言ったように親から受け取ったものがまずあって、そうして自己形成していく過程で、自分の流儀という枠を越えた所での観世寿夫の能との出合いがあり、能に対する取り組み方や、細部にまで目が配られて能という演劇を成り立たせているといったことを教えられ、これらのことが自分の立地条件だと思った。そうした過程を経て、父の良さも、悪さもちゃんと見られるようになったと思う。前にもこの場で言ったけど、僕と父とはDNAはつながっているんだし、どっかで似て来るにちがいないんだけど、ただ自分の能が親の雛形に終わっては駄目なんだと思うな。
明生─ 私なんか伯父より、能夫さんとつきあう時間が長くなりましたから、能夫さんには新太郎伯父と違う価値観、美意識がはっきりあるんだと感じます。それでも、不思議に伯父が亡くなってから、能夫さんの面をつける時の、うけが前と違ってきて、どことなく伯父独特の少し顎を上げる感じ、癖がまるで魂が乗り移ったと思えるほど似てきたのは不思議。だから最近はそれを少し計算に入れて能夫さんの面のうけをみていますよ。
能夫─ それは自分で意識している訳じゃないんだけど、親子というものはそういうものかも知れない。そうでなくても我々親子はどことなく良く似ていると言われるしね。まだまだ話は尽きないけど、次の機会に譲りたいと思います

コメントは停止中です。