我流『年来稽古条々』(6)

粟谷能の会通信 阿吽


我流『年来稽古条々』(6)

── 青年期・その二 ──

粟谷能夫  
粟谷明生  

明生─ 先回は「青年期」その一ということで「青年喜多会」のことを中心に話しましたが、その続きで、やはり時間は少し行ったり来たりするのですが、青年期の異流の人達との出合いについて話をすすめたいと思います。
能夫─ これまでも十番会の話の時に囃子方との出合いとか断片的には触れてきたけれど、やはり僕にとってもっとも大きな出合いは観世寿夫さんの能との出合いだった。
 同世代である大鼓の国川純さんとの出合いがあって、そこから観世寿夫さんがすごいという話を聞かされた。それから銕仙会の浅井文義さんとの出合いがあって、お互いの能を見るようになり、当然のこととして浅井文義さんの師匠でもある観世寿夫さんの能も見るようになった。
 最初に見たのは『花筺
大返』とか『船橋』とかだったけれど、それは本当にショックだった。自分たちの流儀の内にだけいたら決して知ることのない様々なことを教えられた。
 具体的には揚げ幕の揚げ方ひとつとっても、自分たちの流儀では無頓着で、働きの若者がともかく開けばいいといった感覚だったのが、曲目によって揚げ方が違うべきだし、その日の舞台全体を共に呼吸して、隅々まで目が配られている必要があるということを教えられた。
 最近の若い人で幕が風を孕んで揚がる普通の揚げ方でなく、幕棒の上に乗せるような仕方で揚げる人がいるけど、あれは良くないと思う。
明生─ ホールでの能や、能楽堂によっては後ろに充分な空間がなくて、どうしても引いて揚げられない場合もありますが。
能夫─ 演出家の佐藤信さんと新作能『晶子みだれ髪』の仕事をしたときに佐藤さんが、幕が揚がると能舞台空間が幕の中の方へ動く、そのひけた空気を押し出しながら役者が登場するからいいんだといっておられたけれど、それは風を孕んで揚がったり降りたりすることで空間が動くんだと思う。後ろに引き揚げることで幕の内側(鏡の間)の方へ空気が動き、それを押し戻す態で役者が登場するという力学を見たのだろう。
 幕のことだけではなく作り物を丁寧に作ること、きれいなボウジを使うことといった、当たり前のことが、舞台全体を成り立たせるために必要だということを学んだと思う。
 それと、謡のこと、これはとても大きなことだった。
明生─ これまでも度々触れて来ましたが、うちの流儀は謡いに関しては、細やかな教え等がなかったから・・・。
能夫─ ともかくそうした出合いのなかでいろんなことを吸収して自分たちの流儀の中に生かしていきたいと思い努力して来たけれど、謡については抵抗も強かったな。
 地取りの謡い方が曲目によって違うっていう、当たり前のことが充分に出来ていなかった。その曲が『井筒』だろうが『敦盛』だろうがお構いなしに謡っていた。それからサシ謡がひどかった。ともかくパターンで謡ってしまう。僕はこのことをさんざん言い続けてきたけれど、或る時、菊生伯父が実践してくれて、もっとサシ謡を大切に謡おうと皆に言ってくれたのは嬉しかった。ともかく銕仙会の能を見て、良いものを見せてもらったと思った。能でやっていける喜びをもって見た。
 まあその頃はうちの親父や菊生伯父から、あいつは寿夫にかぶれていると言われていたけれど、親とか師匠のレプリカじゃしょうがないもの。それを一度否定するなかで自分は出発し、自己を発見しなきゃ駄目だと思う。親や師匠のいい子のままだと、その雛形になるだけで、何らかの意味で乗り越えて行くことは出来ない。とは言っても血はつながっているし、喜多流のDNAは受け継いでるわけだから、いつかそこに戻ってはいくけれど、決して同じものではない。
 青年期に自分の能を模索している時、他流のそれも、能というものに志をもっている人と出合えたことは本当に大きなことだった。伝統という枠の中で安住していたら駄目だ、現代に生きている能役者が、現代に生きている人達に対して演じる現代劇としての能であるべきだと思った。
 喜多流が型では一番だと思っていたけど寿夫さんの『野守』はすごかった。動きだけでも、とてもかなわないと思った。技術はすごい、テンションは高い、謡いもすごい、水道橋の一番後ろの席までバリバリと届いて来た。もっとすごいのは、金太郎飴じゃなかったこと。毎回違った舞台だったからね。
明生─ 私たちの世代で当時の仲間は、全く同年の生まれは、森常好さんと大倉正之助さんだけで、少し年上で武田孝史さん、年下に金春國和さん、野村耕介(現万之丞)さん、観世暁夫さん、亡くなった観世清顕さんたちがいます。
 私たちはいわばジュニア仲間という感じがありました。親同士のおつき合いがあってということもあり。まあ飲んだり、麻雀したり、ゴルフとか、遊び仲間という側面が強かった。それと「やってられないよなー」って感じでシラケの世代でもありましたね。
能夫─ 僕たちは心配したよね、我々の後の世代はどうなるんだろうかって??。
明生─ でもその頃のつき合いが最後には実を結ぶのですが・・・。ただそれはだいぶ後になっての話です。いずれその時の頃の話になったら詳しく話そうとは思うんですが。自分の能が好きになって、仲間たちとも、もっと深く能についてつっ込んだ話をし、自分たちでどういうふうに能をやっていこうかということにもなり。ある時自分は『自然居士』をやることになっていて、話が進んでいく内に、じゃ、一緒に稽古をやろうよということになりました。
 耕介君が萬舞台を貸してくれて、流儀の違う仲間が集まって稽古をした。常好君がワキを、耕介君がアイをやってくれて、観世暁夫ちゃんが地を謡ってくれた。佃さんがアシラッてくれました。それがされに『野守』の”居留”という小書をやる時、この仲間たちが助けてくれて稽古をしながら作っていきました。これは十年前の話しですから、その時にもっと詳しく話したいと思います。
 でもあの頃は集まっては飲んでシラけて、くだまいていたんですけど・・・。
能夫─ 初めは皆そんなもんだよね・・・。
 それと、これはちょっと違う話しだけれど、菊生伯父にすすめられてゴルフをやったのも大きかったな。そこで色んな先輩たちと能の仕事ということではなく、まあ遊びという側面からのつき合いが出来たことで、もう一つ幅が広がったように思う。
明生─ 「ノーテンクラブ」ですね。あれはうちの親父と、金春惣右衛門先生が言い出して出来たんです。
能夫─ まだゴルフが一般の人々の間でブームになるずっと以前のことだよね。
明生─ 金春先生の命で三島元太郎さんが庭に穴を掘って桃屋の瓶詰めの瓶を入れたりしてね。ボールが入ったら取れなくて、わりばしでボールをとっていたという話しはきいています。
能夫─ ホールの大きさもちゃんと知らなかった位の頃だからね。
 僕が菊生伯父に誘われて入ったのが十八か十九才の頃でね、最近の能役者連中は車に乗っていてばかりで歩かないから駄目なんだと言われてね、実にありがたかった。
 でも高橋先生がいくらグリーンの上を歩いたって駄目だ、板の間も歩かなくちゃ駄目だっておっしゃった、とかいう話しもあったりして、うちの親父や、友枝喜久夫先生なんかは「絶対にゴルフはしないでしょう」っていってたりした。でも僕にとっては囃子方の人や、他流の人とのつき合いが増えたというのは実りがあった。ともかく日頃近づきがたいと思っていた人の全く別の側面が見えたりするしね。なるほどこの人はこういう性格で、こんな風に能のことを考えているんだとかね、これは大きな発見だった。
明生─ 例えば他流の方や三役の方とまわらせて頂くと、大抵面白い話しが聞けますからね。能楽界の人間関係のありようが見えます。
能夫─ ゴルフをやったことで一つの世界がひらけたな。日頃こんちくしょうと思っていた人が、やっぱりちゃんと能のことを考えているんだなとか、偉そうにしている人にも、こんな弱点があるんだなとかね。ゲームをしていると、そうしたことが赤裸々になって来るじゃない。
明生─ 大先輩と一緒になることもあるんですよね。ハンディでパーティが決まってきますから、そこで色んなお話を伺えて興味深かった。それと恐ろしいのは舞台の間違いやトラブルがすぐゴルフ場での話題になってしまうこと・・・。
能夫─ 肉体を使うといっても能楽道でやっているのと違って外の良い空間と、グリーンに囲まれてゴルフをやると余分なことをすっかり忘れてリフレッシュもできた。

(つづく)


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