粟谷能の会通信 阿吽
畳の目一つ
粟谷菊生
ぼくが人間国宝の認定を受けたことは、まことにありがたく、光栄の至りではあるけれどもおかげでひどくいそがしかった。日本中を駆けまわって、一週間に四回も能を舞わなければならないというハードスケジュールに追い込まれる有様。
そのいそがしさの中で、甥や息子たちから次の阿吽には何か書くように言われていたけれど、なかなか原稿を書くひまが見いだせないうちに、どんどん日は過ぎてゆき、早くも秋が来てしまったわけだが、そこで思いついたのは、昔、菊生会の会報をしばらく出していたことがあり、その巻頭には、ぼくが毎号、何か思いついたことを書いていた。その中から「畳の目一つ」(昭和52年10月第八号)という小文を転載させていただいて、今回の責めを果たしたいと思いついた。
かつて自動車の運転をぼくも習ったが、ハンドル操作から教わって、バックまで進むと、ひどくうまくなったような気がするものだ。そしてつぎつぎに技術を習得していって、これで車の運転のすべてがわかったという自信を持つようになる。
しかし、ほんとうのうまさというものは、決して運転技術のあざやかさではないと思う。目的地まで安全に運転できるということ……安全と言ってもノロノロ運転ではなく、そこに 目につかないうまさというものがあるはずだ。
お弟子さんを教えていると、いろいろなことに気がつく。習えばすぐに上手になると思っている人もある。なかにはツツーとうまくなる人もあるが、不思議にそういう人は長つづきしないものだ。長年稽古をつづけて、あるところまで上手になっても、それから先は本人には上達がわからない。いわば畳の目ひと目ずつのびていくようなもので、あるとき、パッとうまくなってしまう。
何ごとも、三日、三月、三年というが、この区切りが実は危険だ。車の運転も三日目に車庫入れでコツンとやる。三月目ぐらいが往来で電信柱にぶつかったり、塀をこすったりする。そして運転が三年目、すいすいととばすと、大きな事故を引き起こしたりするものだ。
ところが、三年を過ぎると、いつうまくなったかわからないのに、徐々にうまくなっている。結局それは反復、何度もくりかえすことによって上達するものだとぼくは思う。
何年か前から、あるお弟子さんに謡の稽古をしてきたが、その人は白無垢でぼくのところにきた人ではなかった。よその先生についていたが、ある時からぼくのところに後妻にきた人。従って先夫の匂いがプンプンしていた。これをぼくの匂いにするには、先夫と暮らした同じ年数をかけることが必要だが、そうも言っていられないから、何とかしてぼくのカラーにしようと、こちらも一生懸命努力した。そのおかげで本人はベソをかいたり、、癪に触ったことが幾度となくあったろうと思うが、ぼくは甘い顔を見せないでやってきた。するとある日突然、こちらがびっくりするような亭主の一ばん好きな料理を 作る女房になってくれた。
お弟子さんの中には、いつうまくなるかということを気にする人もいるが、上達を焦らず、ひたすらワンマン亭主に仕えて、好きな料理を研究してくれるお弟子さんは、そのうち必ずこちらの口に合った料理を作る人に成長するというのがぼくの体験である。
いつも言うことだが、ぼくはゴルフのキャディー上がりのプロ、門前の小僧習わぬ経を読む式で能を舞ってきた人間だが、お弟子さんはそれぞれの学識や教養のある人々だと思うので、謡の文意や曲趣は、ぼくが教えなくても自分で掌握するものと長年思ってきた。しかし案外そうではなく、謡のメロディや節扱いのみに苦労している人が多いことが、近ごろわかってきた。
物を習うということは、節を選び、その師に似ることが第一歩だが、やがてそこから脱皮して、最終的には全部を掌握した上でハートで謡うことを覚えてほしいとぼくは思っている。菊生先生のあの節ならわかっている、思って安心している人がいるかも知れないが、三年謡えば小学生、次は中学生、次は大学生へとお弟子さんが進むのと同様、教えるぼくのほうも絶えず変わっていくのだから、謡の心がわからなければ進歩しないのは当然である。
ぼくも月謝をとっている以上、是非ともうまくしたいと思って努力しているが、上手にしようと気が入る余り怒鳴るわけで、ぜひかんべんしていただきたい。
仕舞いも型や筋を覚える体操がすんだら、、自分が演技しているのだということに気がついてほしい。仕かけ、開きを正しくやっているというだけではつまらない。自分は女なのか男なのか?長年やっていてそれに気のつかない人もあるようだ。
ぼくが願うことは、どのお弟子さんも舞ながら何かほのぼのとしたものを感じさせて欲いということ。品位高く、ほのぼのとしたお色けをもって舞って欲しいということである。そのために絶えず持っていてほしいのは情感である。
私もこの年になって、やっとほんとうの色けになってきたような気がしている。若い頃色けと思ったのは、サービス過剰のエロケだったのかも知れないと思うと、弟子にばかり注文をつけられないが、ここで心機一転、最近舞ってきた人情物の曲を離れて、自分を鍛え 直そうと思う。
そこで来年正月に脇能の「玉井」を舞うことにしたが、ぼくが畳の目ほどか、畳の縁ほど進んだか、皆さんでぜひ見きわめていただきたいとおもう。
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